25歳が考える"ガチャ"
こんにちは、Kedichanです。
突然ですが"親ガチャ"って言葉、最近よく耳にしますよね。ガチャというのはもともとソーシャルゲームの中でグッズやキャラクターなどのアイテムを得るシステムのことで、どんなアイテムが出るかはガチャしてみないと分からないというもの。親ガチャというのはそのアイテムを親に例えて、うちの親はあたりがハズレか?という意味のようです。
この言葉がネット上で話題になる度にさまざまな論争が繰り広げられるのですが、それについて自分なりの考えを皆さんとシェアしたいと思います。
そもそも親ガチャというのは結構カジュアルに使われているように思うのでこんなにも深掘りされるような言葉ではないのかな、と感じているのですが自分的に色々考えられる良い機会だと思って記事を書こうと思います。
①親ガチャというネーミングセンス
まず親ガチャという言葉について。
最初にこの人生をガチャという言葉で表現しようとした人、単純にすごいなと感心します。
その通り、というかそれ以外の何ものでもないというか。
どんな親に育てられるかってその子どもの人生にとってとても影響のあることだと思います。もちろん人生を形作るものは親だけでなく社会や人間関係などさまざまでなわけですが、あらゆる面で親の知識や経済力によって人生が左右されるのは否めません。例えば、大学に進学したくても経済的にできないとなれば大卒と高卒では給与額に差が出てきます。
人生は選択の連続と言いますが、やっぱり親はどう頑張っても選べない。もし違う選択をしていれば、と自分の選択を悔やむことすらできないのがまさに"ガチャ"なんですよね。
努力次第でどうにかなるとか、こういった考えが努力するのを妨げることになるとか、失礼だとかそういうことではなくて、その生きていく土台になる部分が親によって異なる、ということじゃないでしょうか。
選択肢がないという事実を表したこのネーミングセンスは個人的に納得、です。
②派生型について
親ガチャの派生したものとして、"上司ガチャ"や"子ガチャ"というものがあります。そして"国ガチャ"というものまで。
①でもお話しした通り、ガチャ=自分で選択できないものと置き換えると分かりやすいですね。上司も子も国も自分では選択できないと私は考えているのでそういった言葉に派生するのも理解できます。
こうしてみると人生は自分ではどうしようもないことで溢れてますよね。個人的には恵まれた環境で今まで生きてきたなと思うのですが、それでも生まれながらもっとこうだったら、と思ったりすることはあります。
例えば、もう少し身長が高かったらとか、もう少し頭がよかったらとか、言い出したらキリがありません…
③その"アイテム"とどう向き合っていくか
自分が選択する権利すらなかったアイテムとどうやって向き合っていくか、どう関わって生きていくか。
難しいですよね。
そういった"ガチャ"を持って生まれてしまったからには生きてみようとは思いますが、そもそも人が生きる、生まれるって特別な意味はないと思っています。
(生まれるか否か自体がガチャなのかもしれませんし、こういった考えさえも国ガチャ、親ガチャ、などが影響しているのかもしれませんが…)
それなのに家庭や学校、職場などで理不尽なことがある、うまくいかない、そんな社会で生きていくのってやっぱりつらいと思うんです。
甘えとかじゃなくそれは当然のことじゃないかなと。
それが人生だ、と割り切れるほど私は器用ではないですし、そんなに強くはありません。
この言葉が流行して思うのは、社会の中で"ガチャ"というものが、その人が生きる上ではずれになってはいけないということです。まずそれがはずれかどうかはその社会のシステムによって決まることもありますし、明らかにそれがはずれであったとしても、それを埋めるように社会が機能するべきだと思います。
社会のシステムを変えるなんて大きなこと、私一人の力ではできないのですが、そういった"ガチャ"に悩む人を理解したいと思いますし、自分自身も"ガチャ"に惑わされずに生きやすい道を探していくのが理想なのかなと感じます。
長くなりましたが私の思うことを書かせていただきました♪皆さんはこのテーマについてどう思いますか?