見出し画像

善光寺にお参りしてきた【日記】

善光寺にお参りした。一人で。

長野で産まれたので、初参りや七五三は善光寺だったらしいが、あまり記憶はない。その後引っ越したこともあり、云年ぶりのお参りである。

語弊があるが遊園地みたいで楽しかった。

善光寺大門バス停で降り、仁王門をくぐり、いろいろなお店がある仲見世通りを抜けると、巨大な山門がある。山門の上には登れるようで、参拝者の顔が見える。山門と本殿、経堂、資料館の共通券を購入して、まずは山門の中へ。おばあちゃんちでもこんな角度じゃなかったぞという急斜面の階段を登ると、そこそこ広い空間があった。壁を見ると、落書きだらけだった。古いもののようで、越前国のなんとかさんの名前などが書かれている。昔から参拝者が来ては落書きをしていったようだ。今はできない。
外側を回れる通路に出る。仲見世通りの方面は、参道を歩く人々、仁王門の奥には長野市街のビルが見える。反対側に回ると、本堂がドンと立っている。デカい。

山門を降りて、本堂へ。入ると直ぐに、少し前に盗難事件があったびんずる尊者の像があった。こんなに目立つ場所にあって、どうやって盗んだのだろう?ほとんど人間と同サイズで、一人で抱えるのも難しそうな大きさだ。不可解な事件と、つるつるのお顔と、つるつる撫で回す人々が怖くなって触らずに先に進む。

内陣に入り、お戒壇めぐりのために地下へと向かう。パンフレットでちらっと読んだ情報しか知らないが地下を歩くらしい。列に並び、内陣を観察しつつノロノロと進む。
階段を降りる手前で引き返してくる二人のご婦人がいた。「あんな感じだとは思わなかったわ」となにやら不安になることを話している。
地下に降りて歩き出すとご婦人が出てきた理由が分かった。本当に暗いのだ。入った直後は、そのうち目が慣れるだろうとタカをくくっていたのだが、光源が一切なければ慣れるもなにもないらしい。視界はまるで利かず、頼りになるのは、右手に触れる壁と、前の人の話す声、カサカサと鳴るビニール袋の音。
見えないがほんの少し前にはおじさんが歩いているはずだ。たまに足がぶつかってしまって、それもなんだか嫌なので全力で気配を追う。
暗すぎて方向感覚がわからなくなる瞬間がある。視覚以外の感覚に集中するのは異様に疲れる。もう限界だ、と思ったら、ふいに明るくなって終わった。目の前にいるかと思ったおじさんはいない。ビビっているみたいで恥ずかしかった。
ところで、途中にある錠を触らないといけなかったらしいのだが、壁に手を置いた位置が悪かったのか、分からなかった。

ぼんやりしたまま明るい外に出て、気を取り直して資料館を訪ねる。百羅漢像が素朴な雰囲気で、キリッとしてたり、怒ってたり、情けない表情だったり笑ってたりと、いろんな表情で楽しかった。

続いて経蔵へ。ここにら輪蔵というものが置かれている。これを一周回すと経典をすべて読んだ功徳が得られるらしい。同じような柱に滑車が埋め込まれたようなタイプの小さいものは他の場所でも見たことがある。ちょっと意味合いは違ったかもしれないが。
善光寺は桁が違う。デカい。
巨大な柱状の独楽のような形で、周りにいくつか取っ手が刺さっており、それを数人で回すのだ。こんなことを言うのは不敬でしかないのだが、画としては●●が回しているアレに似ている。
ともわれ、回してみると、なかなかズッシリとした重さを感じる。
しかし、ここでもなんだか中途半端に終わる。途中で参加を促されたせいで、前の人はワンテンポ早く終わって、一周できなかったのだ。まぁ、8割くらいの徳はあるだろうか。

翌朝はお朝事にも参加した。読経の響きが気持ちいい。歌に近い。煩悩だらけで申し訳ない気持ちになった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?