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カッコいいゴールのその先へ ーSMAPという物語

2019年4月29日にNHKで放映された「総決算!平成紅白歌合戦」に連動して、「#SMAP」が長時間にわたってトレンドに上がったのは、ファン以外の人たちのツイートの後押しがあったようだ。
いつもは忘れていても、ひとたび彼らを目にすれば「もっと見たい」という思いを持つ人は多い。
ただそれは、SMAPという物語が、ある種の悲劇で終わったこととも無関係ではないだろう。

色々な憶測が飛び交っても彼らが沈黙を守ったこと、守っていることはSMAPという「フィクション」にとってはとても大切なことだ。
そこに演者の人としての生々しさが少しでも透けて見えれば、受け手は途端に白けてしまうから。
つまりは、中居正広さんが言っていた「チャック」に関わることだと思う。

もちろんSMAPの物語はドキュメンタリーでもあるけれど、多くのドキュメンタリーがそうであるように、それはきちんと演出されたエンターテインメントだった。
その裏側にあるはずのリアルを見て見ぬふりして、私たちはそれを消費してきた。
そして、多くの人にとってのSMAPは今でもそういう存在だと思う。

あの本当に酷い2016年の出来事も、今やSMAPという物語を彩る「悲劇であるけれどカッコいいゴール」のように変換されていて、多くの人が、それも含めたSMAPという物語を愛しているように見える。
もちろんそこからの再生があるならば、それは素晴らしい展開だ。
でも、そうだとしても、物語ならそこで大団円となる。

大団円の先に続くのは、物語には期待されていない日常。
しかし、彼らがもしも本当に再生を目指しているのだとしたら、彼らが求めているものは、そして私たちが求めているものは、まさしくその日常の方だ。
小さな波風はあっても、安心して共にいられる時間が続くこと。
しかしその時には、今、物語としての彼らを求めている声は、あっという間に、また無責任な傍観者になるのだろう。

カッコいいゴールなんてあっという間におしまい。
でも、本当に大切なのはその先の何でもない日常だって、まさしくそれが彼らがSMAPとして表し続けたことだった。
だからSMAPは、これまでもカッコ悪いところも見せてきたけれど、それでも見せて来なかったカッコ悪さを、もう見せたらいい。

それは例えば、稲垣吾郎さんが
『ゴロウ・デラックス』の理不尽な終幕について隠さずに語った
「寂しさ」のように。

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