価値と価格の話
おはようございます、こんにちは、こんばんは。
6/18にもまたnoteをアップする予定の菅原です。
今日はそのnoteの前説的な意味合いでこのnoteを書いてます。
というのも、6/18にアップする記事は今までのような「基本的には全文無料公開で、任意で課金もできます。」
というスタイルではないからです。
そちらの記事は「本文は無料で読めて、本文の背景や本文に対する僕のこだわりを有料エリア」というスタイルで書いてます。
なぜそうしたのかと言うと…。
え〜、単刀直入に言いますね。
表現者が相場に振り回され、消費者の顔色伺いをしながら表現するのは、脳の内部表現(意識)に枷が入り込む本末転倒の事態でしかないと感じたからです。
また、自らの作品の価値・価格に対して主体的でフリーなスタンスで発してこそ、基本無料にも完全有料にも意味がありますし、そこがないなら基本無料も完全有料もただのお金の上がり下がりの話にしかなりません。
なぜなら作品価値に対して主体性を失わずに価値を決定してゆくのも表現であり、それは言い換えれば作品に自分のアイデンティティが在るのではなく、自分のアイデンティティは自分にしかないという話に帰結します。
売れる売れないの話以前にそうした価値観を持って発信すること自体がこれからの、AIが自我や自意識を獲得していくであろう時代やサブスクによるコンテンツを大量に安価で楽しめる時代における、人間の精神の在り方なんじゃないかと僕は感じてます。
人間の表現とは、どの表現も自分の情報空間(内部表現)から常に放たれています。
そこが一次表現であり、作品は二次表現。
作品の真価を作者の一次表現を考慮せず語るのは作品への敬意に見せかけた作者の一次表現の軽視であり、作者もまたそれを良しとするなら、それはあまりに作品と自分を切り分けすぎています。
その背景にあるのは、表現者自身が自分の一次表現と二次表現の適切な距離感を設計する意識を育んでいないことにあるとも僕は感じます。
本来、自己表現を冷遇して過小評価する必要も、自分の在り方から乖離させて無理に成立させようとする必要もないです。
売れないことに怯えて本末転倒な作品を作る時間があるなら、その時間を「そんな思考が過ぎる自分自身」に対して用い、そこから湧いてくる自分の一次感情を見逃さないように捉える為に時間を使ったほうが遥かに有意義です。
物事の背景動機には違う感情が地続きで連続しているのが普通で、それが脳であり、意識であり、人間となります。
それを肯定するほどに想いは鳴り止まない表現を生みだし、その源泉である心にこそ真価があることに気づけます。
自分の作品の価値に自信を持てないなら基本無料にしようが、完全有料にしようが意味はないです。
自分の作品の価値を自分で変更したり定めたりと言うのは呼吸並に自然にやっていいことだし、それと売れる売れないは話が違います。
売れなきゃ意味がないを前に置くとしんどいです。それがあると良質な作品が生まれたくても、生み出せない環境があってしまうことになります。
まず、作品の価値を自分で決めたことを肯定して、その余剰でマーケティングをしたり売上のチャレンジをするのがいいです。
それは全然あとからでも出来ます。
あなたがラーメン屋ならまずは究極の一杯を作ってください。
カフェ経営者なら究極のコーヒーを作ってください。
音楽家なら究極の楽曲を作ってください。
価値も自分で決めてください。
まずは僕が価値の決め方を次にアップする記事で実際に見せます。
笑ってもドン引きしても賞賛しても結構です。
固有価値を安売りしないでください。
ルールが違うサブスクとも比較しないでください。
固有体験にこそ価値をつけてください。
前例がないと怖い気持ちはめちゃくちゃわかります。
事例に頼りたい気持ちや参考媒体が欲しい気持ちもよくわかります。
安心してください。
次の記事で僕が前例になって事例を作ります。
前人未到のことをやるのは割と慣れてます(笑)
皆さんは僕を参考に僕を超えて、沢山売上だしたり、カタルシスを満たしたりして行ってください😊✨
そしてなんかふと、「むかし菅原がなんか言ってたよな」と気になったら、購入してみてください。
きっと答え合わせができるようになってるはずですので✨
それではそろそろ締め括りたいと思います。
あなたの時間、手間、苦労、それ自体に価値があると決めるのはあなたです
自信を持ってください。
作品を作ってる時点で偉大なチャレンジなんですから😊
それではまた、お会いしましょう✨
またね〜👋
菅原健吾でした