独立と失業者は紙一重でした!【5】脱サラ研修講師が語る 独立と開業のリアル 綱を信じて、バンジージャンプ!
・急に会社に行かなくなるのは、急死したような感じ
劇的な最終出社日から一夜明けた次の日の朝。呆然と手持ち無沙汰にしている私がいました。もう会社に行かなくていいのです。他部門の方々からすれば、突然、人事部次長がいなくなるのですから、不思議な事この上ないでしょう。でも、私には想像がついていたのです。この会社では(その当時は)、会長の逆鱗に触れて、出社しなくなった人間のことはあえて触れない文化になっていたのです。幸い実務は、かつての部下であり敏腕の井田さんがいます。彼ならルーティンのことは何ら困らないようにさばいてくれます。今でも感謝しているのは、この井田さんがうまく動いてくれて、最終出社日の次の日からを有給休暇扱いにしてくれていたことです。
急なことでしたので、休暇取得の申請をする暇もなかったのでした。その当時のこの会社の感覚では、こういうのは見つかればただでは済まないことだったでしょうから、そういうリスクを負って、処理をしてくれた彼には大感謝でした。
後日談。2年後ぐらいでしょうか。この井田さんが私のもとをひょっこり訪ねて来てくれました。この会社の50年史を携えて、50周年行事が無事に済んだことを私に伝えての来てくれたのです。
そこで、私が去ったあとのたいへんさを井田さんの話から感じ取りました。井田さんは、私の次の幹部候補生として係長から課長。そして、すぐに次長へと異例の昇進を遂げていました。この時の彼は、大きな仕事を一区切りつけたことを私に伝えたかったのだと思います。この50周年行事は会社はじまって以来の大掛かりな準備が必要で、それは死ぬほどたいへんなものであることは、私の在社中より語られているところでした。井田さんの話からはその苦労がリアルにうかがえました。私は私で、会社を追い出されて、急に居場所をなくして、何をしていいか分からず、なんとか食べれるようになるまでに七転八倒の苦労をしていたのですが、残された井田さんも筆舌に尽くし難い苦労をしていたのでした。
井田さんもその後、数年して、他社に転じたことを聞きました。彼も忠実な臣下になることを選ばない人だったようです。元気であることを祈りながら、今でも彼のことをふと思い出すことがあります。
さてさて、有給休暇が残っている間は会社員ではあったのですが、これもすぐに終わり、ほどなく私はただの失業者になりました。フリーランスといえば聞こえはいいですが、実態は、取り組む仕事を何も持っていない人間です。「自分は何者である」ということを嫌というほど実感させられました。会社で上司や関係者からあれやこれやと言われる苦痛を耐えに耐えていた生活から、一転して、何も言われない生活になったのです。この驚愕の差。これは、今まで味わったことのないとてつもない感覚でした。何も言われない完全なる自由な世界での日々のはじまり。しかもその日々は一銭たりとも稼いではいないのです。
当たり前ですが、無休休暇の世界の住人になったのです。生存の恐怖をはじめて肌感覚で感じました。給油のない車を走らせているようなものです。こんなのいつまでも走れません。いつかは止まります。「干上がる」という言葉の意味を人生ではじめて実感できた瞬間でした。
出社しなくなってからの有給休暇期間中に、賞与の支給がありました。私は人事部門の実務統括者でしたので、自らの「A」評価(将来の期待値も含めて上層部より高評価されていたのです)を独断で、「B」に変えていました。私なりのケジメだったのですが、(それでもボーナスをもらおうとしているところは潔さ中途半端でしたが)このことをすぐに後悔することになりました。もらえるものはもらっておくべきだったことをこのあとの金欠生活で思い知ります。金額を減らしたのは単なる自己満のええ格好しいでした。井田さんは、「力足らずで申し訳ありません」と明細書の送り状に書いてくれていました。彼なりに少しでも何とか増額をと考えてくれていたのでしょう。彼にはホントいろいろと苦労をかけてしまったものです。感謝の念はここでも湧き起こります。
当時、37歳の私はそれなりに世の中のことを分かっているつもりでしたが、まだまだ甘ちゃんでした。自らの浅はかさで招いてしまう更なる苦境がこのあとに待っていることに全然、気づかないでいたのでした。
(つづく)