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辻潤全集月報2

親記事>『辻潤全集』月報の入力作業と覚え書き
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辻潤全集第5巻
月報2 1982年5月

五月書房

思い出(二)
松尾季子

 人間が飢えた時まず犠牲にされるのは血族以外の者であって、それまでどんなに忠実であったろうと血族でない者がまず犠牲にされたそうで、一つの血が存続するために異質の血が犠牲に供せられる、これは現世の掟なのでございましょう。嫁いじめなども精神的カニバリズムの一表現ではないでしょうか。経済的にいっも極限状態にあった辻一家にとって、苦しみや精神的葛藤がなかったとはいえません。辻さんは一家の中に何か起ころうと黙って見ている人でございました。生も死も苦しみも、その者の力で切り抜けるより仕方ないではないかという考えのようでした。その人が持っている因縁の力によって、生も死も支配されるのだからと思っておられたように想像いたします。彼自身も善業悪業の波のまにまに身も心もまかせて一生を終わったように見えますが、間違いでしょうか。生活が苦しく私が心配しあわてると、口癖に「そんなにあわてなくてよい、つくものはつくんだから」と申されました。私は何か不愉快なことがあると路地に出て「悲しみも苦しみも今日かぎり今日かぎり」と自分の心にいい聞かせました。辻さんは「女なんか俺にはついて来れない」とよくいっておりました。さまざまの疑惑が心の中に起こり私を苦しめました。「お前は猫の目のように変わる」、「お前は俺を信じていない」等といって叱られました。全く五里霧中を歩く気持でしたが、この頃やっと彼の全貌が私にも見えてきたように思います。自分が信頼した方の全集を出版して頂き、世の中の方々にその著作を読んで頂かれることは、ほんとうに有難い嬉しい事でございます。
 昭和六年四月上旬、はじめて私か東京中延の辻さんの家を訪ねました時、表札には辻義郎と書いてありましたので本名は義郎で潤はペンネームかと思いました。実は弟さんの名前だったんです。辻潤という名では大家が恐れて貸してくれないためかも知れません。借りる時はいつも義郎さんか妹婿の津田さんの名前で借りたようでした。当時義郎さんは何を職にしているのか私は知りませんでしたが、時々帰って来ていました。辻さんのお母さん光女と一(まこと)君と食客の占部さんと辻さんの四人暮しでございました。そこへ猫のチルが私より一足先に入り込んでいました。チルという名は一君が命名したので、茶色と白の毛をした大きな雄猫でした。初めきた時は首に針金を巻いて縛られ、それに繩がつけられて、それを引きずりながらヘトヘトになって辻宅に来たと辻さんは話されました。占部さんが繩や針金を取り除けてやったらそのまま居ついているとのことで、ひどくなついて甘えておりました。その猫を辻さんも可愛かっていまして、書斎の机の上や座布団の上に悠々と寝たりしていました。父から電報がきて私が九州へ帰る時、辻さんとお祖母さんに挨拶していたらチルが私の胸いっぱいにしがみついて羽織の紐をくわえたりして大あばれしました。お祖母さんが見かねて煙管の雁首にチルの首輪を引っかけて離されました。それがチルとの別れでした。
 小田原の津田さんの家でも猫がいました。時々お祖母様の亡くなられた部屋の炬燵の上に寝ていました。この部屋は辻さんの書斎に使用しておられましたが、東側に床と押入のついた六畳で、北側に半間廊下、南側に小さい高窓のある何だか妙な、この家を建てた人の性格を偲ばせる幽霊屋敷の感じのする家でございました。敷地は二〇〇坪位で広く部屋数も多い大きい家なのに、何だか妙な家でございました。多分因縁つきの家らしかったように思います。ここでお祖母様は丹毒に罹り亡くなりました。「顔の皮膚がさわるとつるりと取れるし、髪も手入れすると皮膚ごととれる始末でした。いつだったか夜中に二階から降りて便所の前の廊下に坐っておられて、それは恐ろしい程すごい様子だった」とお恆さんが話されました。「兄さんは時々帰って来るけど又すぐ出かけるので、自分のそばに少し落ちついていてくれたらいいのにとお祖母さんは不足をいっていました」と話しておられました。辻さんとしては見るにたえなかったのでしょうと思います。後で辻さんは「お祖母様もあんな悪い病気になって死んでなあ……」と感慨深くつぶやいておられるのを聞きました。私は九州で「ハハシス云々……」の電報を受け取りました。辻さん一家は実に福徳の薄い病人みたいな人の寄り集まりで、お祖母さんの火葬の金さえ用意出来なかったのではないかと思います。以前お祖母さんの話では「潤があんな風だから皆がまねるのだ」と申されましたが、しかし辻さんは心の底に文学上の仕事らしい仕事をしたい気持はいつもあったと信じています。文学という仕事は他の仕事と違って無頼の要素があるものでもあり、色々とむずかしいものでございましょう。
 ある時茶の間で火鉢をかこんで茶飲み話の折、人の寝相の話から谷崎潤一郎氏のことが話題になりました。
「松尾さんは寝相はよいね、K女ときたら、寝ごというやらすごい歯ぎしりをして傍の者は目がさめて困ります」とのお祖母さんの話に私は眠ってからのことは行儀が悪くても自分ではわからないのに、そんな事まで観察されたら恐ろしい事と思って聴いておりました。辻さんは「寝相といえば谷崎は騒々しくて傍でなんか寝られないよ。歯ぎしりするわ寝言いうわ、寝返りするわ屁をこくわ、それは大騒ぎするよ」と申しますので、私は可笑しかったけれど自分の寝相を考えますと笑うに笑われませんでした。あの谷崎潤一郎氏もあれだけのお仕事をなさるには、精神的に並々ならぬご苦労がおありになったのだろう。それが寝相に現われるのではなかろうかと想像しました。他人の寝相ばかり話されるけど、御自分の寝相を見られた訳ではございますまいと思いました。なるほど一度寝つくと非常に静かに夜は眠られました。(つづく)

気仙沼への旅
高木護

 ○去年の十一月二十五日、一ノ関駅でのり換え、気仙沼の駅に着いたのは朝の七時少し前。見せてもらいたい資料のある市の図書館は九時開館と聞いていましたので、さてそれまでの時間をどうしたものかと思案しました。道連れは若い人なので、無頼なまねもできません。駅前から町を眺めますと、いかにもひっそりとした佇まいです。人影すらありません。食い物、飲み物の店はないかと見渡しますと、とんと駅前にのれんの出ているところが一軒ありました。大衆食堂「ますや」というのです。朝めしでもと立ち寄ったのですがだれもいません。しばらく腰掛けて待っていますと、奥からここの店主らしい人が顔を出しました。小学校の先生みたいな人です。気仙沼というところは、地元の菅野青顔さんの招きで辻潤が何度も流寓した町ですので、まずは気つけグスリもかねて一ぱい。朝酒はおいしいものです。一ぱいやりながらむかしこの町にやってきたことのある「辻潤の資料」を見にきましたと店主に話をしますと、「ああ、青顔先生の……」「ええ」とわたしが頷きますと、「辻潤という人のことは新聞(三陸新報)の“万有流転”(青顔氏執筆の囲み)で見ました」とのこと。青顔さんのおかげで、この町で辻潤のなまえはいまだ生きていて、わりと知られているようでした。店主のおなまえは升達(ます・とおる)さん。九時になりました。ほろ酔い加減になったとはいいません。途中で三陸新報社に寄って青顔さんの単行本になった同社刊の『万有流転』の上・下を求め、高見にある図書館を訪ねました。高見ですから、そこから一望できる気仙沼の町や港や海はなかなかの美景です。坂道にも図書館のまわりにも桜の大木が立っていて、花の季節はさぞかし心持ちのいいところだろうと思いました。ここでも、荒木館長さん、館員の方たちに親切にとりはからっていただきました。さっそく手分けをして、戦前に気仙沼から発行されていた「大気新聞」のあるだけを見せてもらいました。 ○一巻の見本刷りを手にしたところです。五月書房制作ですから、わたしがとかくいっても手前味噌にはならないでしょう。造りはよいできです。手にした感じがいいです。全集刊行案内のちらしもできましたが、口コミだけでもかなりの反響があります。これからどのようにひろがり、どのように読まれて行くかたのしみです。辻まことさんの本を手にした方たちは、まことさんの父親の本もぜひ見て下さい、読んで下さい。 ○二巻は翻訳の『天才論』ですが、人物名、地名をそのままにしました。若い方たちには読みずらいかもしれませんが、このほうが辻潤の訳文のあじが出るからです。むかし、これを愛読し医者志望になった方たちが多いということを聞きました。 ○相模原の岡野俊一氏から資料を送っていただきました。――――――――――――――――――――――――――――――――――
 次回は第二巻・著作二「絶望の書」「どうすればいいのか?」をお届けします。自殺の本かと思われたエピソードもあったようですが、希望の書として多くの辻潤ファンを得た作品です。

第三回配本は五月末日
第二巻 著作ニ 絶望の書 どうすればいいのか?
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