辻潤全集月報6
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辻潤全集第7巻
月報6 1982年9月
五月書房
思い出(六)
松尾季子
ある朝お祖母様が私を「ちょっと」とお蒲団のそばに呼んで、御自分は敷蒲団の上に正座して話されますには、「昨夜夢を見ました。それは潤を子供の頃可愛がっておられたお祖母さん(多分光女のお母さんのことらしいのです)が夢に現れていわれるのに、光や、ちょっと起きなさい。お話かおるから……といわれるのです。私は白いギザギザのあるおあしをくれなければ嫌だなんていって拗ねていました。光や、よくお聞きよ。ここにお前の傍に寝ている者は私だよ、大事におしよというのでした。そばで寝ている者というのはあなたを指しているのよ……」と話されました。私は返事の仕様もなく黙っておりました。その時はまた夢話ねと思った程度で気にも致しませんでしたが、それから何十年も経って、今自分の過去を振り返ってみる時、自分で自分の踏んで来た道に腑に落ちぬことがあり、人間に過去生というものがあり、輪廻転生ということがあるとすれば、それも真実かも知れないと思います。なんで辻さんに巡り合い、なんであのように苦しみ等と考えてみます。いくらでも他に安穏な道があっただろうにと思うのです。津田さんや私の身辺の人は、「季子さんは辻潤を助けようと思っているんだ」と噂していたそうですが、私にはそんな自覚はありませんでした。やはり運命は決まっているのではないでしょうか。
辻さんは中里介山氏の『大菩薩峠』を大好きだった様子でございました。フランス滞在中も外出もせず、部屋に寝ていてこの本を読んでいたといっておられましたが、それほど感銘深かったのでございましょう。そして机竜之助の人間像に愛着していられる様子でもあり、あれは最後に眼があくのではないかといっておられました。当時はまだ机竜之釛は失明中で小説は完結していませんでした。肉体的に眼が見えるようになるという意味か、心眼が開くという意味かそこまでの説明はありませんでした。
考えてみますと、恋女房の背信に逢って絶望した点、それからの迷妄放浪の生活、机竜之助も女たらしといえば女たらしの生活のようであり、終始女の影がつきまとって、それに片っぱしから手をつけて最後は殺したり、捨てたり、真実愛しているようには見えません。一方は剣道、一方は文学や思想の上でその道をきわめた人である点て、あるいはその人生航路の多難な点で似ていると思います。
小田原にいた頃、こんなことを尋ねたことがありました。
「あの太鼓の音は何でしょうか?」
「あれは女郎屋にお客が上がった時に打つのさ……ここはあんまり遊廓が近くて遊びに行ったことがない……」
「一体先生はどんな女の人と幾人くらい関係があったんですか?」
「そんなこと! あんまり多くて忘れてしまった……」
と叶き捨てるような返事でございました。
据膳食わぬは男の恥とても心得て、女に不自由するなんて馬鹿気たことと割り切って、寄りつく女に手を出したというわけで、愛着かおるのではないから、次々と移って行くと前の女が嫉妬する、それを面白がるというふうだったようでした。
いつか何かのことで、「松尾さんが嫉妬やくから……」と辻さんがいいましたので、「嫉妬なんかやきませんよ、馬鹿馬鹿しい……」と申しましたら、「そうか! 嫉妬やかないか、それならこれから俺が嫉妬やいてやろう。選手交代といくか!」といって笑っておられました。
「女郎でさえ嫉妬やくんだからなあ」と独言をいっておられたこともありました。その裏には素人の女が嫉妬やくのはあたり前だから、それが面白いという考えがあったようでした。辻潤は手が早いとか、女たらしとかいう噂はある意味では事実だったと思いますが、関係のあった女の人が嫉妬でいったことがはじまりでそんなレッテルがはられたのでしょうと思います。血統的に父方からも母方からも淫蕩の遺伝を受けていたとしても、若い時から家が貧乏で、一家の生計を背負わされ、栄養失調のような育ち方をしていて、大学へもやって貰えず、苦労して夜学などへ行って勉強し、病身で肺病や痔瘻を持っていた彼が、そんな精力絶倫な生活が出来る筈かおりません。もしセックスに乱れきった生活をしたとしたら、それは相手の女の人が淫乱な人でそうさせたにすぎないのでしょう。
野枝さんもある時辻さんの家を訪ねて、その荒廃した生活を見て呆れ、見なければよかったと何かに書いておられました。野枝さんとの生活の時はそんなにまで乱れたことはなかったらしいのです。野枝さんはその乱れた家庭にいるまこと君のことが心配だったのだろうと思います。お祖母さんに三味線を習いたいといって、たまに訪ねて見えたそうでございます。「それは本心ではまことの様子を見たくて来るんだと私には解っておりました」とお祖母さんが話されました。震災直後野枝さんは大杉氏と御一緒にまことさんを連れに来て、帰途ああいうことになられたわけでございました。
辻さん自身、女は大抵話相手にもならぬからセックスでもしてやるより仕方がないと公言しておられました。
「俺は女はお前一人で沢山だ。お前をどこへでも連れて行く」なんていっておられたこともありました。
「自分の口さえ養えぬ人が女は一人で沢山もないものでしょう。随分偉そうなことをいう人ね」とおかしく思いました。また次のような話が脳裏をかすめました。私は郷里で家の女中から次のような話を聞いたことがありました。
「季子さんね、近頃ゲントクマツという変な名の乞食がおりますよ。それは女をいつも三、四人連れて歩いているんです。皆ゲントクマツの妾ですって。その女達は女郎あがりで梅毒でしょうか、顔の色が紫色しているんです。手拭をちょっとかぶって顔をかくしております。村々をお前はその道、お前はこの道、俺はここを行って、どこそこで落ち合うということにしているらしいのです。一軒残さず村中しごいて行くんですもの。そしてゲントクマツは物か金を貰ったら、「こなたのお家は金の柱に銀の屋根……」とか何とか歌いながら踊るのです。最後にオッパイパイのパイと必ずいいます。物をくれない家には、いろいろ悪囗いって最後にたんぼ虫ぐじゃぐじゃといって帰るのです。病気になって売物にならぬ娼婦を集めて一緒に生きて行こうという考えでございますね。その最後はどんなふうになるのやら……」との話を思い出していました。
「お前に好きな男が出来たら、俺に金があったら一緒に暮らさせてやるがなぁ。俺は時々訪ねて行った時相手になって貰えばよいから……」ともいっておられたことがあります。
そんな都合のよい相手がいたら、好きになったら、金があったらというたらたら話で、ないないづくしでは考えるだけ馬鹿げた話でしょう。それは江戸末期の頽廃的な考え方ではないでしょうか。とにかく作家なんていう人は無力な癖に天に昇ったり、地に潜ったりすることが出来るように話すものだなぁと思いました。当たり前のことを当たり前に話したのでは、一向に面白くありませんものね。酒も飮まず、歌も唄わず、女にも手を出さず、品行方正な辻さんを考えてみて下さい。不景気至極で戦時中でなくても餓死したかも知れません。
女たらし男たらしという話では、私は男にしろ女にしろある種の男女には何か異性を呼ぶ匂いのようなものが自然にそなわっていて、その匂いに異性が引かれるのではないかと思います。
女たらしという点では辻さんは表面はとにかく内心は非常にさめていた点を気付きます。女に対して案外冷静なさめた観察をしておられますが、それを口に出していわないだけのようでございました。
ある夕方東館で夕食の用意をしていましたら、辻さんは机を背にして坐り煙草を燻らしながら何か考えておられました。ふと「岸田劉生はあれだけの大才を持ちながら、酒と女に身を持ちくずしたなあ」と独り言をいっておられました。私はああそんなことを考えていたんですかと思って、彼の様子をちょっと振り返って見ました。劉生のことを考え、わが来し方を振りかえり、感慨に耽っておられたようでした。
以前中延の家で、書斎の壁にかけてあった一忘却来斯道」という詩の一節を好まれるのは、青年時代からの苦労と、酒や女に乱れた来し方を忘れたかったのだと思います。
酒を飮むのも女に身を持ち崩すのも、決して彼の本性から望んでしているのではなくて、わが身の因果のつたなさを歎くあまりそれらで胡魔化しておられたとしか私には思えません。この辺の機微を知っていた方は彼の長男のまこと君と、家庭外のごく少数の方だったと思います。
ある時まこと君が「俺は親爺のようによい人を知らないよ」と私にいったことがありましたので、それを思い出して辻さんへの手紙に書いたことがありました。辻さんからは「まことはどう思っているかわからぬ」との返事でございました。まことさんは嘘をいう人ではなかったのですが、この言葉を聴いた時私は意外に思いました。親であってもいろいろと女出入りを目の前に子供時代から見せつけられた彼が、嫌な思いを沢山したと申しておりましたので不思議にも思いましたが、最後までまことさんは父親思いでございました。私に父親の訃報をくれたのもかれでございました。それは四十九日頃で一片の葉書でしたけれど、彼の思いやりの深さを有難いと思いました。彼は何でもポツリポツリと打ち明けて私に話してくれました。いろいろ気をつかって慰めてもくれましたし、アドバイスも親身にしてくれました。何時の日にか逢える日をと待っている中に、彼の他界を伝えきき残念に思いました。幾度か伝手を求めて彼によびかけようかとも思いましたが、それよりも彼からの便りをと待っておりました。
パリでの近所の靴下修繕屋の少女との淡い恋ものがたりや、辻さんの周辺の日本人画家や作家の生活の様子や、その日本人達とフランス女との生活の様子や、帰国後大岡山の友人の家で睡眠薬自殺をしようとして未遂に終わったこと等、家庭の人に話さぬことも話していました。私か辻さんの家に行って間もなく、まこと君が新聞紙大の紙片に何か大きく書いてチラッと私に見せすぐ隠しました。私は読む暇がなかったからもう一度見せてくれと頼んだけれど、嫌だというので力づくで取って見たら、「飛んで火に入る夏の虫」と書いてありました。私の身の上をいったつもりらしいのです。なるほどと思いました。その子供らしい悪戯をほほえましく思い何となく親愛感がわきました。
「今夜、チコチャン(竹久夢二氏の次男の方)達は女郎屋に登楼するんだといって出かけたよ。僕も誘われたけれどやめちゃった。『そんなところへ行ったら、ゴノコカスに罹るぞ!』と僕がいったら、チコチャンは『大丈夫さ! レインコートを用意して行くから』といっていたよ」等とお祖母さんや親爺さんに内緒で話してきかせました。不二彦さんとまことさんは実のお母さんに生別した同志であり、仕事も同じ絵の関係だからか、とても仲良しの様子でございました。
晩年の辻さんと私との遠く離れた生活もまことさんが以前「松尾さんは貧乏育ちでないから親爺との生活は無理だよ。それより遠くから見守っていてくれた方がよいだろうと思うなあ」と話したことがありましたので、その意見に従ったつもりでございました。まことさんは公平に冷静によく判断する利発な青年でしたから、私はどんなことをいわれても腹もたたず彼を可愛いのでした。まことさんは丑年生まれで、静かで落ちつき払った悪のない青年でした。ある時彼に将来したいことを訊ねましたら、「何もしたくないな。俺は絵を描いていたいだけ」と答えました。絵で食って行けるかしらと案じて私は黙っていました。その生涯も父親に似て自分の節を曲げず好きな絵に一生を託して終わりました。
当時は右翼でない者は十把一絡でコンミュニストかアナキストとかソシャリストとかいわれ、皆それらは非国民扱いでした。だから辻さんはアナキストとかコンミュニストとか批評されても仕方のない点もありましたでしょう。
来間恭という日日の記者だった方が、ある晩辻さんと飲んでから、夜遅く来られて、終電に間にあわず泊られました。来間氏は酔っておられるので大声で、「マルクスマルクスというけれど、日本でほんとうに理解して読んでいる者は何人もいやあしない。その数少ない中の一人が辻さんだよ、辻さんは大学の先生だ。俺がまあ高等学校かそれとも中学生位か。あんたはまあ幼稚園だな……」と申されました。その言葉はすなおに肯定しましたが、私はその夜なぜか無茶苦茶に眠たくて困ったことを思い出します。
私の友人でラジカルなコンミュニストと同棲していた人があって、その友人が手紙をくれますと辻さんがちょっと読んで、私はよく読んでいないのに、こんなものおいていたら危ないよと破り捨てられたことがありました。
武者小路氏、萩原朔太郎氏、その他の作家の方の辻さん宛の手紙はわざわざ私の前に持って来て読ませられました。しかしいわゆる何々主義等ということについては細心の注意を払っておられるのは解りました。そんなわけで思想上のことは禁句で何も話したことはありませんでした。矢橋氏が「辻さんはニヒリストだから駄目だ。松尾さん、あんな人を好きになってもつまらぬよ。肉体的にも、作家としてもあれでは魅力なんかないだろうに、松尾さんにとって何が魅力なんだろうかと、Aさん達が噂していましたよ」と話されたことがありましたので、それを辻さんにふと話しましたら、言下に、「何? 俺がニヒリストだって! ニヒリストなんかいつでも止めてやらあ……」と凄い剣幕での返事でございました。辻さんはよくニヒリストといわれることが多いようでございますが、彼は真実にニヒリストですかと尋ねたい気も致します。
高木護氏の天性の放浪者という説は否定も出来ませんけれど、あんまり貧乏で落ち着いているところがないので、仕方なく放浪したのではないかと思います。あの方は大きい石が家の中にころげ込んでいるみたいな感じの人で、居候されるとその家族全部にとって迷惑な存在ですし、一方本人としても落ち着いておられず放浪するより仕方のないことだったのでございましょう。貧乏長屋にじめじめした生活では心まで腐りそうなので、時々未知の土地に行って一切を忘却し、精気を養い蘇生の思いをしたかったのではないでしょうか。
一緒に棲んで間もなく、「俺は時々旅に出るから……」「でも帰って来るんでしょう?」「それは帰って来るさ……」と話したことがありました。その旅という意味が私にははっきりしませんでしたけれど、それ以上尋ねませんでした。辻さんは何事もくどいのが嫌いでしたから。心の放浪、例えば女遍歴のようなものか、思索したい著作の為の旅か、ただ単なる旅を意味しているのか分りませんでした。
居候といえば、戦時中、小田原の我乱洞氏にも大変お世話になられた様子で、辻さんが酒のことで我乱洞氏をからかわれた話を、我乱洞氏やその奥様にはすまないと思いながら、大変おかしく面白く読んだことがありました。辻さんは我乱洞氏を大変愛しておられました。その家庭の生活の様子を私に話してきかせられたことがございます。子供さんが大勢で、多分六人か七人位あって、それに御両親もあり、夜は一つの炬燵に家族全部が入って寝ているんだと。貧しくとも一家が如何に暖かく豊かな気持ちで暮しているかということが目に見えるように誉めておられました。私はその様子を想像して感心いたしました。それこそ神の祝福を受けている家のような感じが致しました。
辻さんは家にいる時は机……机といってもそれは応接台の時もあり、飯台の時もあり、リンゴ箱の時もございました。机らしい机などないのでしたが机の前に端然と坐っているか、疲れると横になっているか、それこそ人の気配を感じさせない程静かに坐っておられました。結跏趺坐あるいは半跏趺座ではなくて普通の静座の坐り方をしておられたと思います。(つづく)
水戸の佐々木靖章さんのことなど
高木護
○どこかの古書展の目録などで、辻潤関係の資料が出ていても、まず値段を見て、溜息をつき、「彼ヒイキであっても、こまかいことまで調べるわけではないからね」とつぶやきながら、見送ってしまいます。いつもふところぐあいが悪いからです。たまに注文しても、同じものに何人かのもうし込みかあるらしく、抽選で外れてしまいます。それにしても、だれが集めているのでしょうか。それとなく古本屋さんにたずねてみると、その一人として、水戸の佐々木さんというなまえを聞かされました。年令は四十そこそこで、大学の先生らしいということもわかってきました。(たとえば、最近わたしが入手した雑誌についていいますと、大正十三年十一月発行、東京市外代々木富ケ谷一三七七詩を生む人社刊、松本淳三編集の三十二頁の「詩を生む人」創刊号は、九千五百円でした。これには辻潤の詩が載っています。大正十四年三月発行、大阪市北区堂島浜通一丁目八十二番地厳正批判社刊寺井龍男編集の四十頁の「炬火」創刊号は、一万二千円でした。これには「サンふらぐめんた」というエッセーと、レオ・シェストフの訳が載っています。わたしのふところぐあいからしたら、篦棒だというしかありません)。そんなことから佐々木さんと知り合うことになりました。辻潤の著作、翻訳本はもとより、雑誌の「虚無思想研究」「ニヒル」「である」「酒」「碧落」 「自由を我等に」などや、マックス・シュティルナー文献も持っておられるとのこと。見せて下さるというので、水戸行きをしました。東京から水戸まで、特急で一時間と二十分の距離です。旅とはいえませんが、国鉄の足賃もベラボウだから、旅の気分に浸ってやることにしました。官舎住まいの佐々木さんの書斎で、初見の「酒」「潮」(コピー)「である」「クロネコ」「矛盾」などといった雑誌などを見せてもらいました。「十二年かかって、やっとこれだけですよ」といわれます。「でも、おかげ様で破産しましたよ」ともいわれました。資料集めはたのしいけれど、それなりの苦労も伴います。金持ちでない限り、金の工面もたいへんです。夜は水戸の辻潤好きな鈴木、高橋、酒井の諸君にも集合してもらい、酒を一滴も飲まない佐々木さんにも、酒場につき合ってもらいました。こんな佐々木さんみたいな、そのみちの学究、または熱心な方たちがいてこそ、貴重な資料が守られて行くのです。ありがとうございましたの代わりに、わたしが大酒を喰って、水戸に一泊。 ○この巻のジョウジ・ムウアの『一青年の告白』は大正十三年十一月、新作社から刊行され、昭和四年に改造文庫に加えられたものです。デ・クィンシイ(彼はデケンシーとも訳している)の『阿片溺愛者の告白』は大正七年五月、三陽堂書店から刊行され、同十四年一月に春秋社から再刊、また昭和四年に春秋文庫の一冊に、同五年に改造文庫の一冊に加えられたものです。辻潤の訳はいずれも語学訳ではなく、「人間訳」だといわれるおもしろさがあります。――――――――――――――――――――――――――――――――――
次回配本は、新聞、雑誌等へ寄稿したエッセイをはじめアフォリズム、詩、俳句等単行本未収録作品を網羅した、第四巻・著作四をお届けいたします。ご期待下さい。
第七回配本は九月末日
第四巻 著作四 アフォリズム・詩・俳句他単行本未収録作品――――――――――――――――――――――――――――――――――
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