見出し画像

辻潤著作集月報6

親記事>『辻潤著作集』月報の入力作業と覚え書き
――――――――――――――――――――――――――――――――――
辻潤著作集 月報6
昭和45年10月

オリオン出版社
東京都中央区銀座8丁目19番地3号・和泉ビル

辻さんと私
花園宥運

 大戦末期の昭和十九年十一月廿四日、辻さんが下落合の下宿屋で誰にも相手にされず全くの世捨人として、虱に食われて世を去ってからすでに廿有余年、あれだけ著名だったのに現在では彼と直接に面接のあった人々が少なくなりそのためか著作集の月報に拙文を求めてこられた。私が辻さんの菩提寺西福寺に住職として住んだのは大正十三年一月からだが、その前大正二年から西福寺の本寺である無量寺にいて常に西福寺にきていた。然し辻さんが西福寺の檀家であるなどとは少しも知らなかった。辻さんの家と西福寺との関係は明治四十三年一月十一日に辻さんの父六次郎氏が死んでからであろう。菅野青顔先生の「空々くろろん」には四十一年に死んだとあるが西福寺の過去帳に四十三年と出ているし住居も上駒込八四〇番地と記してある。だから辻さん達は明治四十二年項から、この染井に住んでいたわけである。この点前記菅野さんの本とは少し異っている。然しこの父の死んだ当時と後に上野高女の教師をしていた時、伊藤野枝さん等の教え子が押しかけて来た家とは異る、晩年は七九九番地に往んでいた。昭和四年頃の秋のひるさがり、私か外出先から帰ると留守の婆やが、且那さん檀家の人だと云う変な人がきて待っていますとの事、誰か思って行ってみたら、唐桟の着物を着た小作りの人が傍に尺八を置いて紫檀の火鉢でめざしを焼いて食べていた。どなたですかと尋ねたら辻だとの事、勿論、私は当時辻潤とはどんな人かも知らなかったので、あたりさわりなく応待していた。私の住んでいた所に今、若松と云う人が住んでいるとの事(若松とは当時都新聞の記者若松謙次郎氏のこと)、そしてそこで魚をもらってきたから酒はないかとの事、私か酒は呑まないが頂いたのがあるからと婆やに出さしたら、少さい盃でちびりちびりといかにも楽しそうに呑んでいた。そして何か書いて行うと云われたが、私か後でと云って斷ったら尺八を取りあげて朗々と吹きだしたのを覚えている。その時刑事の尾行がうるさくて困ると云っていた。当時、無政府主義も社会主義も皆んな赤ときめつけた時代だから辻さんも特高に、にらまれていたのであろう。この時をはじめとして時々こられた。(近くに東大の心理学の阿部重孝氏がおられて、そこへ来たら留守だったのでと二度ばかり云われたのを覚えている)。
 その後昭和九年の十月にお母さんが死んで、そのお骨を持って埋葬にきてから辻さんは、寺へこなくなり遂に昭和十九年の末に遺骨となって父母の在す寺へこられた。然し皮肉なことに辻さんの墓へはだれも墓参に来る人とてなかったが、辻さんが死んでから松尾邦之助さんと西山勇太郎さんが来られたのを筆頭に辻さんの昔の教え子達が墓参に来られるようになった。(西福寺住職)

売恥売文業
西山又二

 辻潤が大泉黒石と長畸にいったとき、旅館に着いて、宿帳を出され、職業のところには「売恥売文業」と書いたという。
 いかにも辻潤がやりそうなことだが、いまの売文業者には、そんな風流気のある人物はあまりいないだろう。おそらく「著述業」とか、稀には「作家」などと書く恐しい人物もいるかも知れないが、実際は大正末期か昭和の初期の頃より、現在の方がはるかに物書きの書くものは「商品化」されている。
 広告でベストセラーをつくる某社のように、企画を令部出版社がこさえて、その指図通りに著者に書かせるようなシステムが生れてきた現在など、文章はまさに大量販売を最高の目的とする商品以外の何ものでもないといえる。商業主義というよりも、まさに資本主義だが、その締め付けはいよいよ日を追うて厳しくなってゆくようだ。
 そう言えばいまでは、どんな職業までも、商品生産のためのそれでないものはなく、巨大な市場メカニズムが要求するもの大量販売、大量消費の目的にぴったりの物をつくる人物こそ時代の寵児というわけだ。
 作家や評論家というものも、いまでは自民党のお抱え政治家だったり、公明党の息のかかった雑誌の高い稿料に釣られる評論家だったりするのだから、読む方もこうしたチクロ入りのうそつき商品にひっかからぬようにせねば、終いにはガンにならぬとも限らぬ。
 いまではもう竹林七賢のような風騷の十はなくなってしまった。しかし、その境地にあこがれる者は日ましに増えてゆくだろう。ビート族やヒッピーなど、あるいは意識するとしないとにかかわらず、「解放区」を夢みるゲバ棒族なども、その部類に属すると見てよかろうが、高度工業化がこのまま極点にまで到達する頃には、こうした単緇胞動物がおびただしく発生するのを、誰も防ぐことが出来なくなるに違いない。
 そうなれば辻潤の世の中である。(歌人)

無数の解説
玉川信明

 去年の九月からかかって、青息吐息で(まだそれほど年でもないのにこの数ヶ月の間に急速に白髪が増えた気がする)やっと、『辻潤伝』(仮題)約六百枚なるものを仕上げたが、その矢先、辻まことさんの辻潤には解説になるものは意味ないという解説文を拝見し、数日前には、またそのまことさんの文章に答えて松尾邦之助さんが、一般読者にとって欠くべがらざるものという文章に接することができたのであるが、生意気なようだが、お二人のどちらの意見もよくもわかるし、いわずもがなの感がしないでもない。
 辻潤もいっているように、所詮万事最後は“黙”である。千万言を費したとて残るものは“黙”以外には何もない筈である。
 その意味では解説を弄することなど、空しい限りであるが、そうした立場に立った辻潤なればこそ、一方では無数の解説を要することになる。
 私は自分の書いた伝記で、辻潤自身が述べた「暗示的存在」というのをとりあげて、辻潤を一箇の混沌として結論したが、辻は「七色合体の透明」であるよりは、「七百色合体の黒色」であるが故に、少くとも七百通り位の解説を要すると思うものである。
 ヴァレリイによると、古典とは数多くの解釈を必要とする多面体なんだそうであるが、その意味では辻潤もまた一箇の古典的存在なのかもしれない。
 大体辻潤という人は思い余って、筆に仲々現わすことが可能でなかった人である。だからして、「すらすらとなにか云ひたいんだ。ただスラスラとなにか云ひたいんだ」としきりと嘆じていたのである。
 そのために、自分の日頃の思いを秩序だてて、ちゃんとした思想書として現わしてくれた古谷栄一のような人物が現われると手ばなしで喜んだ。自らもまた自分の全部の文章が、スチルナアーの解説であることを悟っていたのである。
 落ちつくところ辻潤の解説要不要など問題にならないので、ただその優劣のみが問題ということになるのではないか。(評論家)

辻潤さんの想い出
岩崎太郎

 辻さんが私の家へ時々見えたのはたしか関東大震災の前後だと思います。従って私かまだ九ツから十一、二歳の頃で大阪の南海線沿粉浜に住んでいた当時です。
 辻さんはきまって四、五人の風変りな団体でやって来たものですが、もっともその団体はおおむねゲリラ式で女賊の如きも時折りまじり夜中庭から雨戸をはずして入って来るとたちどころに賑やかな酒盛が明け方迄続き、其後はめいめい勝手な場所へごろごろと雑魚寝をするのが定石でありました。祖母はそれがとても嫌いだと何回もこぼしていましたが、その仲間の裡、布施延雄さんだけは良い人だといっていました。
 そのころ既に母のいなかった私は、賑やかなのが好きでその一団が引き上げたあとは馬鹿に淋しくなったものです。子供心に柱にもたれ尺八を吹いている辻さんを眺めながら、何んとなく長い感じの顔をした一寸もたれたような癖のあるしゃべりかたをする変った感じの人だと思っていました。辻さんは必ず私の顔を見るときまった様に「太郎君、はい」といって一円紙幣を一枚くれたものです。私は自然辻さんがみえれば一円と心にきめておりました。
 震災直後みえた時は、めずらしく昼間で庭の見える奥の六畳で「とうとう野枝も死んじゃったね」と父に話しておられたことを私は妙に憶えています。大杉栄と共に殺された伊藤野枝さんのことだったのです。それから辻さんは当分四国へでもいって来るよといっておられました。その日は父も酒を呑んでいなかった様でした。
 その後いつの日のことであったかフランスへ旅立たれる辻さん父子を神戸まで送り、元町辺りで一行何人かが二、三軒呑み歩き最後にピアノのあるバーの様々所で螢の光を合唱してハルナ丸の船室迄行ったことを憶えています。途中何処かの楽器店で、マコトさん(辻さんの息子さん)と私に、ハーモニカを一ツずつ買って頂いたのですが、唐草模様のついた綺麗なハーモニカで私は何日迄も大事にもっておりました。神戸の波止場から見える夜の元町の山手の灯は子供心にも淋しく美しい眺めでした。
 フランスから帰られてからのことでしょう、「ニヒル」という雑誌が送られて来たのか持ってみえたのか、家に沢山積んでありまして、私も此の雑誌はところどころ読んだものでした。尤も「ニヒル」はあまり売れなかったものか売れすぎたものか、父の所へは三回ぐらいで来なくなりました。
 酒がもとで入院までした父は多少頭の方も変てこになりまして、私が天王寺のアパートで父の酒の見張役の様な恰好でおりました頃、和服姿で腰に尺八をぶらさげ全く凛々と辻さんが入ってこられました。私としてはこれは悪い取り合わせだと思いましたが、父は至極嬉しそうで「太郎君、お父さんと一ぱいだけ呑んでいいだろう、いつまた逢えるか判らないからね」といって近くの「ウドン屋」へ出掛けて行きました。
 それはもう昔、私の家の雨戸を夜中はずして酒盛をやった頃や、フランスへ旅立った神戸の夜の様なはなやかさがなく、私の父と共に佗しい後姿でした。(会社々長)

どちらが狂人なのか
飛田文枝

 辻潤、人は誰しもこの男を狂人、痴人と云う。辻潤が生きた世も、辻潤が躯(むくろ)となって何十年か後の、その躯の上に、いま生きている人間が住んでいる日本中が、気違い部落のそんな人間からは、彼は狂人と見られよう。この限りにおいては、世の中は、ちっとも進歩してはいないのだ。
 清澄な瞳を持ち、美しい心を持った正常な人間が、まともにいどんだら、自殺の道しか残されていない修羅場のこの娑婆の中で、私は辻潤の、あの一見、無気力な、捨てセリフを吐き散らして生きた姿勢が、わかるような気がする。わかると言ったらおこがましいが、共感を覚えるのだ。
 娑婆ツ気たっぷりの私に、果して、あそこまで徹底した勇気ある冷笑的生き方が出来るであろうかと思うとき、及びもつかない辻潤の思想に愕然とする羨しさを感じる。
 作家の瀬戸内晴美女史は、“辻潤の思想と文学に深く接すれば接するほど、それに酩酊し陶酔してしまう……”という表現を使っている。烈しく強く暖かい革命精神を持ちながら、常に肩すかしを喰らわせたような生き方を続けた辻潤。かつての妻、伊藤野枝と共に、理由なく虐殺された大杉栄とは全く異った生き方の辻潤の中には、自己を徹底的に愛し、守り通した強烈な個の精神が蔵されていたのだ。
 若し、この世にユートピアを夢見るなら、辻潤と共に生きようとする人々である。否、然し、辻潤は、それさえ、人々という複数的なものではなく、「僕は自分が何者でもない。自分のやった仕事が人類のために役立っているか、国家のために有害になっているか、そんなことは関知するところではないのだ……」と、辻潤は完き辻潤なのだ。
 盃を口にし、狂人部落の気違いどもに、救い難い憐憫の目射しを送っていよう。(“やまがら”主人)

嘲う辻潤
黛執

 辻潤の名を私が知ったのは、数年前松尾邦之助氏を識ってからのことである。先生の談話のなかにしきりに彼の名が出てくるのを聞いて、何者だろうということになった。昭和生れの私の書架にはいくら探しても彼は見つからなかった。そこで先生にお伺いを立てると、予期していたような微笑を浮かべて、古びた二冊の彼の書を貸してくださった。『浮浪漫語』と『ですべら』だったとおもう。
 松尾先生の奨めにもかかわらず、最初私はその晦渋さに辟易した。やたらに難解な漢字や横文字に加えて、脈絡のない飛躍や転換、駄洒落、造語が奔放に出てきて読者を煙に巻く。そのペダントリーが鼻持ちならぬとおもった。すると、得たりとばかり、煙の向こうで彼がうすら笑いを浮かべているような気がした。これは読者に対する侮辱だ、嘲弄だと、こんどは腹を立ててみたが、彼の嘲いは一向に止みそうにない。だんだん私は彼の術中に嵌まっていくように感じだした。
 一口で云えば、辻潤の文学は嘲笑の文学である。社会を嘲い、人間を嘲い、稀少な彼の理解者である彼の読者さえ嘲い、そしてその己れ自身を嘲っている。
 彼の書を読んだ後、この嘲笑だけが異様な実感と真実性をもって私の耳の底にこびりついた。そういえば、そのころは六〇年安保闘争の坐折感が私の周辺に充満していた。そのなかに、私は辻潤と同じ質の嘲いを見たような気がする。
 いや、その嘲いを、もはやまぎれもない真実として、いま私は見出すのだ。ヒッピーやビートの生態のなかに。勝ち目のありっこない機動隊との衝突に傷つき、敗退する若者たちの後姿に。そしてそれを空しく見守るほかはない卑劣な私自身のなかにも。(評論家)

辻潤の書簡
風間光作

 辻さんのことを何か書くようにとの事だが二枚ではちと無理な注文である。手許に三十通あまりの書簡と九枚の書と墨絵がある。京都の岩倉病院からの手紙(昭和十六年)は、今の陛下の行幸の折、狂人にされて入院中のモノであり、京都からはこのほかに、聖光院内というのと金閣寺にてというのがある。奈良の芳徳寺内のが多く、三重県の極楽町、愛媛県の円通寺よりのモノ、相州小田原の画乱洞内、横浜鶴見の津田方、但馬城ヶ崎「つばきや」内、千葉県大原町の若松方、東京では成城の山内善三郎方、淀橋にて、新宿朝日町「富田屋別館」にて、などがある。淀橋の友人が辻さんを遠ざけて、高村さん(光太郎)に出入りするようになったことを怒った面白い墨書きの手紙もある。辻さんの書は『辻潤集』出版の際(昭和廿九年)近代社に貸したものは行方不明となったが、菅野青顔氏から貰ったのが二枚と、色紙が三枚、ダルマの画が五枚―を持っている。写真は京都の酒場「織縁樽」(おりえんたる)で撮したのが一枚だけある。武林夢想庵も辻さんのチョビひげも若々しく写っている。
 辻さんが仲介した画家奥栄一(夫人は奥むめお)氏の所ヘ一緒に泊ったことや、小川未明さんを起こして(深夜)辻さんが車代をつくり自動車で深川富岡八幡前の、うなぎ屋「宮川」―(宮川曼魚氏と)で飲み、さらに洲崎の遊廊に一緒に登楼したことなどの思い出は多くあるが枚数もないし書いても仕方ないことかも知れない。晩年は私の所へもよく泊ったが、何を書きたかったのか「落ちついて仕事をする所がほしい」と云っていたことと、何回か文学についても話しを聞いたりしているので何時かはこのことについて書いてみたいとも考えている。(詩人)
          ◇     ◇
 辻潤著作集も、おかけさまで、この六巻をもちまして終りをつげます。
 あとは、年譜、辻潤論などをふくむ別巻(十一月刊行予定)を、鋭意編集中ですので、引続きご愛読下さい。
 これまでに、全国のたくさんの読者の方から、激励・注意・注文・苦情のお便りをいただきました。ありがとうございます、お礼を申し上げます。
 上沢米子さん(東京)という高校生の方から、一巻は買ったが、二巻からはアルバイトして必ず買うから、ぜひ一冊ずつ残しておいてほしいということでした。林美代子さん(大阪)からは、駒込の西福寺にある潤さんの墓に、お酒をかけにいきますということでした。田中由布子さん(山口)からは、潤先生から絶望の何かを教えられたという熱心な読後感を寄せていただきました。ともに二十歳の娘さんとか。お父さまが辻潤の友人だったという岩崎太郎氏(横浜)からは、貴重な辻潤の写真などを、わざわざご持参いただきました。遠藤創氏(東京)からは、印刷がきたないというお叱りをいただきました。
 またむかし辻潤を読んだことのあるという方からも、たくさんお便りをいただきました。ここに重ねて、お礼を申し上げます。
 それから、お詑びですが、小部数発行と大幅の増頁、印刷、製本などすべての値上がりのため、定価が高くなってしまいました。五巻と六巻を一〇〇円上げさせていただきました。すみません。

編集室だより
◇辻潤著作集〈全六巻〉もいよいよ最終巻をお届けすることになりました。感無量です。約一ヵ年、各方面の多くの読者からお叱り、励ましなど数多くいただき、ありがとうございました。また、この難渋なしごとを始終たすけてくださいました高木護氏に感謝します。
◇全巻完結――これですべてが終ったのではありません。これから人づてでどんどん“辻潤のほんとうの読者”が生まれることを期待します。
◇なお、十一月下旬刊行予定の、別巻辻潤年譜も、あわせてご愛読をお推めします。

編集委員
松尾邦之助
村松正俊
添田知道
安藤更生
辻まこと
片柳忠男
菅野青顔
高木護
――――――――――――――――――――――――――――――――――

画像1

画像2

画像3

画像4

画像5

画像6


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?