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辻潤著作集月報3

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辻潤著作集 月報3
昭和45年3月

オリオン出版社
東京都中央区銀座8丁目19番地3号・和泉ビル

『ですぺら』注釈
安藤更生

「どりんく・ごうらうんと」を読むと、築地小劇場でI君なる人物に出遇い、帰りに二人であなざあ軒をやってしまい(梯子酒のこと)電車かなくなったので、銀座裏のIのところへ泊るくだりがある。Iというのは故板橋倫行のことで、そのころ板橋は京橋加賀町八番地(今の電話局の向い角)に親爺がやっていた協信社という謄写版屋の二階に住んでいて、早稲田と拓殖大学の講師をしていた。(但し月給はワセダニ十三円、拓大四○円)長兄敏行、次兄信行、弟啓行と四人兄弟揃って銀座のカフェや酒場に毎晩のように屯して、板橋兄弟として有名だった。三男の倫行が僕の親友であり、同じく会津八一門下だったので、他の兄弟たちも辻や室伏高信、村松正俊、長岡義夫たちと親しかった。板橋は僕などよりは小金が廻ったので、辻と飲む時は大概勘定方を引受けていた。
 次の朝這入った朝湯なるものは、資生堂の裏の金春新道にあった金春湯のことで、ここは教坊の妓女や女給たちが這入るので有名だった。
 板橋は秋艸堂門下第一の秀才と謳われ、その遺著「校本日本霊異記」や万葉の研究は今でもよく読まれているが、終戦後長いこと肺病をわずらって窮死してしまった。
「幻燈屋のふみちゃん」の中に出て来る菊富士ホテルにいた青年Yというのは、故山内恆身のことで、一時僕と一緒に菊富士にいたことがある。そこへ辻が来て、宇野浩二に会ったのである。そのころ宇野も菊富士の離れみたいな室にいたし、高田保も二階にいて、時計がないので、望遠鏡を使って帝大の時計塔を覗いていた。山内は石川淳の初期の小説によく出てくるが、これも肺病で、戦後に飯田橋あたりの病院で死んでしまった。(文博)

辻潤と俳句
添田知道

 昭和一ケタの頃、辻潤が、私たちのやっていた素面句会へ現われたこともあったなあと、四頁句誌の綴込みをさがし出してみると、あった、あった。七年一月の淀橋高橋白日居での新年句会で、
  ガンギリの音もきこえずうす曇る  陀仙
  霜どけの枝折あくるや梅もどき
  夜は更けてとうとうたらり鱈ちりや
 などとやっていた。三句目に一流のダジャレが出ているが、前の二句は典型的な定型句である。自由律句会だったのだが、おとなしく出たもので、互選の運座に加わり、あとの飲み会でも、ただ円満だったのは、のみ足りなかったのかもしれない。嵐の前のしずけさであったのか。
 その七月の号に、京之が「陀仙病む」、白日が「枸杞の芽」を書いている。これもひとつの記録になると思うので、引用しておこう。

 陀仙辻潤が天狗になったとニュースが報じた。吾が素面の中から天狗が飛び出したとて、今更驚くにも当らないだろうが、屋根から飛ばれて見ると其天狗ッぷりの余りに鮮やかさにそれが潤だけに京之近頃の憂鬱を感じた。彼氏が天狗になる直前のこと、彼と二人で夜を徹して踊り?ぬいた事も思出だ。これは恐らく京之一世一代の演出で、またこれが人間辻潤との当分のお別れとなって了った。それからの陀仙、井村病院の一室と、あの人好きのする、武者氏の言葉をかりていえばあの耶蘇を下手にしたような風丰とが、どんな調和をもつているだろう? 白日稿「枸杞の芽」これにつづく……これでキチガイとはコレ如何! と吐蒙がいったようです……どちらでもいい陀仙幸に健在なれ(澄川京之)
 春が爛れて枸杞が芽を出した。
 段階は酒仙から陀仙に、そして鱈チリが好きだ、スチルナェルと駄洒落をヒン丸めて釈杖の先で天井裏に突ッつき揚げてから、まず、辻潤は天狗になった。屋上からの曻天は、膝小僧を摺りむいたという。
 字幕。川口K介。大写。キリストに似た顔。字幕。ゴシップ商売。溶明。新聞社を出て焼鳥屋をくぐるキリスト。電気プランと泡盛が(Wって)小便のカクテルに化けて消えうせにける。俺らの勝手な断定です。眉毛へ唾を付けたのは指の仕業。
 さあサ皆さん、聞いてもくんねえ、素面は玉川へ吟行だあ……イ。この徒党ヘカタンすべく、辻潤は、途上の新宿で馬糞ッぽこりの人込に葱を背負った鴨にぱったりと。で。きこし召した酒で蕎麦と安女郎をコンガラかして、どこかへ伸びてしまった。あまり鮮やかな天狗ッ振りだと思ったが、待て少し、神通力は自由だよウ。

 初夏が崩れて枸杞の芽がほほけた。
 読売の紙型へ鉛が溶け込んだら潤の身体に羽根が生えたんだと、やたらに売子が鈴を、蒔き散らす。今日潤に会って来た、ダダイスト小杉君の座蛸は垢で鱗が出来ている。唾を呑みこんでまず。潤は天狗と役小角のかねあいだそうだ、それもよし。枸杞の葉っぱがおヒタシであると等しく。
 高橋(ダカバシ)新吉君は、まくわ瓜の謄写刷をふところに忍ばせていたかも知れません、だから、行者から功徳をうけて、応接室で水をひっかけられるかも知れません。
 コトッと時計が五分前のおならを落したから、これでおしまいにして、小杉君のもたらした行者の近詠八句をお目に掛けます。
  枯れ枝につのぐむ今日の節会かな  陀仙
  れき轆とわだちの音や春朧ろ
  たそがれの雲静かなりすみれ花
  風癲の顔を笑うか小雀ら
  前栽の小米桜やたそがるる
  南の空はみかんか星の露
  借り物の霞の衣ハタが丘
  夜は静か雲を眺めてほくそ笑み
 この雲を眺めて、ほくそ笑まれてみると曻天しそうに思えますが。
 吐蒙に詠草を見せたら、これで、キチガイとはコレ如何! と云ったよ、です。(高橋白日)

 この、京之・白日の二人ともに、「これでキチガイとはコレ如何」の、私の言を結びにしている。陀仙は可憐な句を多く作っているではないか。私はその頃も「堀」の内と外と、どっちが内でどっちが外かに疑問をもっていた。その堀がキチガイ病院のであれ、刑務所のであれ、だ。この思いは今も変らない。
 とんで十年八月の号に、
  妄人のよだれや馬頭観世音   陀仙
  落暉サンサンとしてカナカナ啼いている
 の二句があり、その月十七・八日の茅ケ崎少雨荘での一泊句会に、尺八を携えて出席している。
  夕顔が夜会でしらッぱくれている  陀仙
  夏雲奇峰あり又阿呆あり
  ニラルドミラリニンニクニヤリニヤリかな
  この運座句のなかに
  陀仙の笛の音も太平洋の浪にのまれて月泣き   少雨
 がある。少雨は斉藤昌三。書物展望社をやっていて、辻の「癡人の独語」を出すことがあったので、茅ヶ崎まで天狗人も出現したことになった、写真ものこっている。
 ついでに、その本の会の記事が、十月の号にあるので、引いておこう。

 九月二十一日、陀仙の「癡人の独語」出版記念会を浅草三州屋でやった。折から雨しきり、どうかと案じたが、六十人という大会衆であった。芳名簿を持った受付係が大遅刻をするのにかえて、御本尊が真ッ先に乗り込み、早くもチビリチビリと勝手にはじめているという出鱈目会。しかもテーブルスピーチをはじめると片ッぱしから陀仙が半畳を入れる始末到底あたりまえのコースを採れそうもないので、ええどうにでもなれと突ッぱなしてしまうと、喧々囂々それぞれ献酬入り乱れる無軌道驀進。やがて彼方此方に倒れるあり。出版記念会といえばじじむさくカタが極っているものだが、こんなトコトンまで飲む会は前代未聞まことに歴史的な会合であった。それに顔触れの多岐、荒木郁子、佐藤惣之助、木村幹、大津賀八郎、古谷栄一、倉持忠助、曽野彩花、井伏鱒二、酒井真人、斎藤昌三、卜部哲次郎、素面同人その他綺羅星の如く雲霞の如き軍勢。一切の約束を無視した放恣会はなんとも愉快だった。然し、会場を値切ったり、電話に呼ばれたり、誰かが酔っぱらってなぐった女中をなだめたり、倒れし勇士を送ったり、いやもうヘトヘトになって、以後こんな世話はまっぴらごめんと思ったことだった。それにしても三州屋の扱いは実にいい。こちらの身になって万事切り盛りして呉れるし、それに女中の要領を得たさばきは鮮やかだし、大いに感謝した。諸君三州凰を愛して下さい。(吐蒙)

 こうした会のなごりがいささか「個の会」にあるが、戦後も暫くあった三州屋は娘の代になって白山下に移った。当夜の出席者もあら方故人になっている。それにしても当時のヘンな文章のきれぎれに、陀仙のおもかげは惻隠できるだろう。
 このあと馬込時代になる。
 陀仙書の短冊、半折、紙片もいくらもあったが、みんなヒトにやってしまって、あれこれの珍記憶が家人にのこるだけになった。(作家)

ききかじり
一読者より

「対等に話の出来る女は少ない。つまり話がないことになる。
すぐ飽きる――だから、××でもしてやる他に……」
 驚きいった。こんなことを、ぬけぬけと書く辻潤には、あきれたものだ。だが、当時この文章を読んだ男たちで、快哉!をさけばなかったものはいないだろう。(いまの青年たちには、どうかな?)フェミニストの辻潤だから、こんなことが書けたのだろう。
    ○
「降参党・バンザイ!」
 交番のあるすぐ傍の往来でおらくだり、
「人間が楽しく働くことが出来て、みんな食べられるようにならなければいけません。それが出来ないうちは一切はダメの皮です……」と書いた辻潤は、今日の平凡な思想のなかで生きているようだ。
    ○
 辻潤が九州の長崎市にあらわれたのは、いつのことか。
 家族ともども逗留中の、異色の混血作家大泉黒石を訪ねてだった。くわしくは、「陀々羅行脚(「一巻『絶望の書』に収録)にあるが、
――ヤア、ツジが来ていらあ
 と黒石の次男の茶目小僧ケン坊がいったと書いてある。そのケン坊とは、喜劇俳優の大泉滉かどうか。
 そのおり宿帳に、
 「売恥醜文業」とくねくねした達筆をふるって、辻潤は書いたそうだ。
    ○
 辻潤のミリョクは、いったい何だろう。
 一巻の解説の松尾邦之助氏も、二巻の解説の村松正俊氏も、さぞかしおこまりになったことだろう。ある人は、「辻潤の素描など必要ない。その一部分をしっかりとらえることこそ、全貌を識るカギになろう」という。辻潤が何であるか、一概にいえないそのことこそミリョクなのだろう。
    ○
 まず、何よりも、一九七〇年度のゲバ棒学生諸君に、辻潤の熟読をおすすめしたい。(投稿)

編集室だより
◇「三ちゃん」「いぬかは」は二十一、二歳頃の作品で、形は小品とも小説ともつかないものだが、やはり、これらは、辻潤の書いた小説らしき作品といえよう。
◇辻潤著作集の読後感などなど是非ともおよせください。
◇次回配本〈ですぺら〉〈どうすればいいのか?〉
 解説・伊藤信吉――五月下旬刊行

編集委員
松尾邦之助
村松正俊
添田知道
安藤更生
辻まこと
片柳忠男
菅野青顔
高木護
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