辻潤全集月報7
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辻潤全集第4巻
月報7 1982年10月
五月書房
思い出(七)
松尾季子
不用意に部屋に入ってギョッとすることもありました。
一歩外に出て酒が入ると歌を歌って騒いだり友人知人の誰彼に毒舌を吐いたりであったらしいのです。歌といっても古今東西の歌といってよいでしょう、ある時矢橋丈吉氏の奥さんが「あきれたわ、辻さんたらよくまああんなにおぼえられたこと」とあきれておられました。素面では絶対といってよいくらい他人の悪口などいうことはなく、近親者にさえ自分の気持ちをめったに話しませんでした。心の中では感心しないとか嫌な奴と思っていても顔に出したり口に出すことは固く慎んでおられたと思います。それを本人から話されたことはありませんが私は感じておりました。
他人の悪口ということで思い出しましたが、ある時台所で炊事している私に「おい君、何か書いてみないかね」と唐突に申されました。私はびっくりして彼の顔を見返しますと「俺の悪口でも書いてみたらどうだ」と申されました。私は一瞬考えましたが、成る程私自身苦しんでいることはあっても彼を何も悪く思ってはいないことに気付きました。そんな考えもしていない悪口を書くなんてことは私には出来そうもないと思いましたので「いやいや」と頭をふりました。その時文章を書こうと思うなら本心から書かねばならない。本心でないものを書いて文章になるかどうか書いてみろといわれたように感じました。林芙美子の詩集『蒼馬を見たり』のために、辻さんが書かれた序文を思い出します。
「色々綺麗な言葉を並べてもなんの感じも受けない詩が有ります。凄い文句や恐ろしい言葉を連発しても少しも凄くも恐ろしくもない詩もあります」以下略。この序文を読んで私は笑い出しました。この序文が好きで詩集を求めた青年もありました。私か一番初めに辻さんから見せて頂いた本はこの詩集でした。林芙美子の処女出版に書いてあげたことが自慢だったかもしれません。この序文には文学をやる者の必須条件みたいなことが書いてあります。翻って自分のことを反省しますと私などは全く文学的才能はない方だと自覚していました。文学をやりたいのではなくて強いていえば彼の思考傾向への共鳴でございました。一体何になりたいのか自分でもわかっていませんでした。人生の意義など解らなくても人並に生きて行けばよいようなもので、それが一番無難で親孝行な道とは先刻承知しておりましたがそれがその因縁というもので、身の程知らず苦労知らずのわがまま者の生まれつきで気がむけば石にでもかじりつくような性格でしたから辻さんの思考傾向に興味を持った訳でございます。死の前年頃「お前が俺にそんなに愛着するのはお前が俺に似ているからだ」というような手紙を頂いたことがありました。
辻さんの話もあとで知りましたが、やはり宗教家としての因縁を持っていた方だったのでございましょう。辻さんも私も出家もせずに巷に暮しておりましたけれど、その目ざすところは求道者だったのだと思います。異端者めいた点まで似ていると思います。「幼い時行きずりの人相見か僧侶に勤められたように自分を早く出家させていてくれたらよかったろうに」と何かに書いておられましたが、それは真実そう思われたことであろうと思います。しかし家庭の経済的事情とお祖母様の愛着のためそれは出来なかっただろうと思います。但し既成宗教の世界に入ってもそのまま行儀よくおさまった方かどうか疑われます。多分圏外に飛出しはしなかったでしょうか、曹洞宗の乞食桃水という方はあるいは互いに似た点がある方ではないかと思って関心を持っております。しかしそんなことをいったら、「俺は俺で誰にも似てなんかいないぞ」と叱られそうでございます。何時か部屋で尺八を吹こうとしながら、「尺八の曲に虚空鈴慕の曲というのがあるが、これは普化か死んだ時その棺を群集が開けて見たら死骸はなくて空中に鈴の音がしていた。それを慕うという意味の曲だ」と独り言のようにいって説明しておられました。辻さんは「俺は愚痴は大嫌い、くどいのも嫌いだから浄瑠璃は好きではない」。その点谷崎氏は浄瑠璃等お好きだったのではないかと思います。文楽のお染の人形をお座敷に飾っておられたり、有名な太夫さんについて三絃を習ったりしておいでになった御様子でした。お友達でも性格のちがいが窺えます。辻さんは「俺は男や女がすべったころんだ等とくどくど書くのが嫌いだ」と申しておられましたが、彼は性格的なものと体力がないため小説は書けないのではないかと私は内心思っておりました。辻さんは何事もくどくは教えてくれませんでした。ききそこねても訊ね返すことも出来ませんでした。簡単に一口二口つぶやくだけでございました。何年も経ってから自分で何かの本を読んだりした時、あの時の話はこのことだったのかと判るのでした。前掲の鈴慕の曲の出処は臨済録の勘弁の中にある文章でございました。
「驢嗚」という雅号も好んで書などに捺印されました。これも臨済録の中の「師見云大似一頭驢普化便作驢鳴」に由来していると思います。「ふもれすく」の初めに「僕はいたってみすぼらしくもおかしげな一匹の驢馬を伴侶に出鱈目な人生の行路を独りとぼとぼと極めて無目的に歩いている人間」という文句がおりますが、これも普化のことが心の底に潜在しての文句ではないかと思います。普化は臨済の宣教を佐けた方で河北鎮州の街市に鈴をうごかして「明頭来明頭打、暗頭来暗頭打、四方八面来旋風打、虚空来連架打。と四打の偈を唱って驚かし人が振りむくと手をのべて銭をくれと乞食した風変わりな僧でありました。普化は盤山宝積に嗣ぎ、積は馬祖に嗣いた方でございます。当時河南に張伯という竹管の名人で偉い僧がありまして、普化の道風を慕って、普化の四打の偈と鈴鐸の音を竹管の音に作曲して、それ以来その曲だけを吹簫されたそうでございます。この虚鐸(号)張伯を祖とする宗派が日本の普化宗であって、普化はもっぱら鈴鐸を振って乞食した方で竹管をよくした方ではないそうでございますが、ここらの関係から普化の道風と張伯の竹管の流れに辻さんは関心があり、人知れず私淑しておられたらしいと思います。いろいろの苦労の末にたどりついたところでしょうか。宗教の究極の世界は言葉では表現出来ないので、鈴鐸や竹管をかりて音で表現しようとしたのが普化宗ではないでしょうか。普化は時々悲号したということですが、辻さんは大衆の前で慟哭したことはなかったかも知れませんがふと静座していて、顔も身体も慟哭している。辻さんの細胞が皆で慟哭している。それを辻さんは一生懸命抑えて堪えておられると感じたことが二、三回ありました。あの様子は精神病のためかアル中のためかと私は疑問に思っておりましたが、普化か悲号したという文を読んでアッと思いました。私は慰めるすべも知らずその傍に寄りっくことさえ遠慮に思いまして彼の好む酒か煙草など少し買って来て黙ってあげました。こんなことを話しますと他人は女に甘えていると一笑に付すでしょうけれど、甘えであんな真似が出来るでしょうか。
普化は臨済と肩を並べて劣らぬ程の人でありながら散聖といわれる程ポツリと孤独な存在であった点、一見ラジカルなニヒリスチックな思想家のように見えながら実際的行動家でなかった点、山中に木の実等を食べて生きて行く梅嶺のような禅僧や自幽老人のような仙人の真似はせず、どこまでも市井の庶民の中に埋れて生きて行く点、神秘的な点がいろいろあった事等両者はまことに似ていると思います。普化僧の正式の姿をする用意は持たれなかったけれど、深編笠だけは使用されました。着物は単衣の普段着に浅黄木綿の被布でございました。これが辻さんの最上の正装でございました。
但し市井で有象無象の人達と酒を飮んだり、歌ったりおどけたり毒舌を吐いたり女を賈ったりのやくざ風の一面のみを見て、あれが辻潤と思っている方があるようでございますがとんでもないことで、それは気散じのために周囲の人達に調子を合わせて遊んでいる時の姿であって、彼の真面目は他にあったと思います。
これについては以前辻潤著作集が刊行されました時、オリオン社社長片柳忠男氏がお書きになった「辻潤の思想」という題のエッセイがございますので引用させて頂きます。片柳氏にはまことさんが大変お世話になっていて一度だけ私もまことさんに連れられてお宅へ訪問したことがありました。片柳氏は御不在でしたが奥様にお茶を頂戴して帰りました。もう御他界のようでございますが、台所の流しのそばに立って何か考えこんで窓の方を眺めておいでになった後姿だけ不思議に思い出します。
「前略……時代的にいって新しい思想の乱立期であったし、辻潤の思想は当時の華やかな思想の下積みとなり、したがって辻潤には活躍というような形容詞はどこを探しても出てこなかった。死んだ私の女房がよく『潤さんのいってること、なんだかさっぱりわからないわ』といった。潤さんは『わからなくていいんだ』とそれをくりかえしていっている頃をなつかしく思い出すのである。いまニヒリストに続いて辻潤著作集が刊行の運びとなった。現代の混沌たる世相の中で、かつて四十年前に私の妻がいった「さっぱりわからないわ」という辻潤の思想が今日ほどわかるときはないのである。しかしながら辻潤の思想は辻以前において、人間の心の底を流れてきた根強い宗教のようなものであったが、それが何であるかの解明が行なわれぬままであった。その宗教的と思われる思想を人間の中で解明しつづけて辻教としたのが辻潤である。このような仕事をしていたのだから、その日の家計にも家族は苦労をしていたのを私は知っている。家族が我家へお米を借りにきたのも再三であったが……中略……人間とは何であるのか、社会とは何か、政治とはどういうものか、あらゆる現代の苦悩を辻潤は半世紀前に苦悩し解明しようと努力した。しかも利害関係を度外視し、人間の尊さを純真な心で追究した。そしてそれが偽りに満ちた社会への怒りとなって自らを痴人とした。いまこそ多くの痴人を必要とする社会なのである。彼は真の自由とは何かを現代社会へ遺言をして残していった。そうも私には感じられるのである」と書いておられます。思想だの宗教だのいうことも難しくて、系統立った勉強もしていない私には何歳になっても何が何だか解らないことが多いのでございますから、それらを言葉に出すのも僭越なことと思いますが片柳氏は身近く居られた方でありよく観察しておられたのだと思います。辻さん自身は教などと思っておられたかどうか知りませんが、萩原朔太郎氏は低人教といっておられました。辻さんを愛した人々が低辺の生活者が多かったからだろうと思います。私は辻さんを愛して周囲に集まる人を思う時西洋の童話の『ハルメンの笛吹き』を連想いたします。笛の音に誘われて洞窟の中へ消えて行った子供達のあの物語でございます。
売春を業とする女の人達も彼の尺八の音を聞くと耳を傾け、過分の喜捨をくれるということでございました。また子供達は童謡等を吹くと喜んでついて来るし、貰いもあるそうでございました。ある時都内のどこに棲んでいた方か忘れましたが、尺八の師匠をしている方で門付けをしたことがないから連れて行ってくれと頼まれて、その方は私共の家で普化僧のように正装されて辻さんが御一緒したことがありました。二人で難しい本格的な曲を吹いても貰いがなく、辻さんが童謡など吹くと貰いがあると笑っておられました。但し家には一銭も持って帰られませんでした。
明日知れぬ生活をしながらも辻さんの笛の音を聞くと何となく落ち着いた気持ちになって、憂を忘れるような気持ちがしたものでございます。魔笛といえばそうかも知れません。辻さんの書かれたものも、そのような感じが致します。
飛田文枝氏が「どちらが狂人なのか」という題でお書きになった文章に次のような言葉がございます。
「辻潤、人はだれしもこの男を狂人、痴人という。辻潤が生きた世も、辻潤が軀となって何十年か後の、その軀の上に、いま生きている人間が住んでいる日本中が、気違い部落のそんな人間からは、彼は狂人と見られよう。この限りにおいては、世の中は、ちっとも進歩してはいないのだ。
清澄な瞳を持ち、美しい心を持った正常な人間が、まともにいどんだら、自殺の道しか残されていない修羅場のこの娑婆の中で私は辻潤の、あの一見、無気力な、捨てセリフを吐き散らして生きた姿勢が、わかるような気がする。わかるといったらおこがましいが、共感を覚えるのだ。
娑婆ッ気たっぷりの私に、果たしてあそこまで徹底した勇気ある冷笑的生き方が出来るであろうかと思うとき、及びもつかない辻潤の思想に愕然とする羨しさを感じる。」
作家の瀬戸内晴美女史は、辻潤の思想と文学に深く接すれば接するほど、それに酩酊し陶酔してしまう……という表現を使いつつ、「烈しく強く暖かい革命精神を持ちながら、常に肩すかしを喰らわせたような生き方を続けた辻潤。かつての妻伊藤野枝と共に、理由なく虐殺された大杉栄とは全く異った生き方の辻潤の中には、自己を徹底的に愛し、守り通した強烈な個の精神が蔵されていたのだ。……云々」とお書きになっている文章を拝見いたしまして「実にいい得て妙」と感心致しました。私は十二、三才頃、辻さんの「ふもれすく」を本屋の立ち読みで読んで、帰途酔っ払いのようになって、町並の溝板を踏みはずしそうになったことがありました。それから六十年酔っ払い通しているみたいと自分でも思ったり致します。辻さんの文学は魂のためには阿片と思われるかもしれませんから、今まで私自身は他人様に積極的に奨めたいと思ったことはございませんでした。ところが近頃私だけでなく、そのような酔っ払いの方が相当あることを知り、今更感慨無量に思っております。
ある時辻さんは、「俺にもし一冊だけ本を持つことを許すといわれることがあれば、俺は老子を選ぶよ」と独り言をいっておられたことがありました。私もうろおぼえでございますが、確かに老子だったと思います。いずれにしても老荘の南方思想だったことは確かでございます。
孔孟の思想は得意の時に読め、老荘の思想は失意の時に読めと聞いたことがあるように思いますが、辻さんが老荘思想を好まれるのは当然の傾向かと思います。何故なら辻さんは終生失意の人だったのではないでしょうか、大した悪いことをしたわけでもないのに終生石もて追われる思いをして生きねばならぬ人でしたから。私は「餓死はしないさ」とよくいわれたのですが、実は餓死する運命だったので、魂はそれを知っていたので気にかかったともいえます。辻さんの文学なり思想は失意の方のためになるものといってもよいかも知れません。
ここまで書いて考えてみますと、辻さんの思想や人格を一律に何々と決定づけることは至極困難ではないかと思います。キリスト教、仏教、中国の思想、西欧思想……いろいろの宗教や哲学芸術文学等が混沌と彼の血に溶けているようで、私の力量ではほんとういいますと、何が何だかわからないのよ――ということになります。
終戦後林檎の歌というのが流行いたしました。……默って見ている青い空、林檎は何にもいわないけれど、林檎の心はよくわかる、林檎可愛いや、可愛いや林檎……という歌詞の作者も辻さんの文を読んでから自分はこういう人間になったのだと、どこかで話しておられたように思いますが私の記憶ちがいかも知れません。人ちがいだったらお許し願います。林檎の心と同様に、辻さんの心も本を読んでわかって頂くと辻さんは熹ばれるだろうと思います。私が泣きごとや愚痴をいいますと「お前は俺の本をよく読んでいない、もっとよく読め!」といって叱られました。(つづく)
作品の魅力
高木護
○第七回配本(第四巻)は単行本に未収録の著作集です。アンケートへの回答文、詩、短歌、俳句は別にして、ざっと数えて七十篇のエッセー、十篇の詩、三十首の歌、七十句の句を集めました。これも何人かの方々の協力のたまものです。この他にもまだ小文などが二十篇くらいはありそうです。あの「新聞」、あの「雑誌」に書いているはずだということが判っていながら、こちらの努力足らずで見つけ出せないものも、何篇かありました。集めたものでは「はんもん一束」がもっとも初期の作品で、明治四十年(一九〇七)九月、彼が二十四歳のおりに「実験教育指針」という雑誌に書いたものです。月評として書いたものや、「ひやかし」と題したローマ字の詩もありますが、「勉めよや春夫!」「あさくさ・ふらぐめんたる」「不思議な人格者」「最初の自然」「己れが道を楽しむのみ」「食客問答」「あほだらり」などや、短歌(勿論、詩も句もですが)は見過ごされないものです。これらの作品を読んでいただければ、辻潤が何を考え、どのように生きていたか、想像できるのではないかと思います。 ○多くの方たちから、どんな売れゆきですか、大丈夫ですかという問い合わせをいただいております。辻潤の本なればこそかもしれませんが、売れゆきまでご心配していただくなんてありかたいことです。しょうじきなところ、これからだと思っていますが、なにせ小部数の出版ですので、なんとかなる、ならなければいけないとつぶやいています。「大丈夫か」というのは、売れなければ赤字、小部数とはいえ九冊本の全集だから損も甚大小さな出版元のようだからつぶれはしないかというご心配のようです。ありがとうございます。でも、読み甲斐のある著作集に、翻訳集ですから、きっと心ある方たちがいて、手にして下さるだろうと思っています。また望ってもいます。もし読み甲斐があるぞとお思いの方たちはまわりにも薦めて下さい。 ○これまで辻潤はダダイスト、ニヒリスト、アナーキストというように、「 」つきでよばれてきたようです。また文士とも、詩人とも、翻訳屋ともいわれてきたようです。さらに尺八吹きの門付け、浮浪者、アル中、気狂いとも陰口をたたかれてきたようです。なるほど、そうです。そうかもしれません。ですが、果たしてそうでしょうか。どれも彼の一面を当てているようですが、それは飽くまでも一面だけの、「 」つきのよび方のようです。みなさんは辻潤を何者だと思われますか。「 」つきなどではよばれない、物差しでは測れない人物ではないでしょうか。辻潤は「自分を発見するために、毎日を苦しみながら生きているのだ。他はすべてフロクのようなものだね」と再々いっていますが、これは自分の「個」がなんであるかを見極めてやるということではないでしょうか。この全集を手にして下さいましたみなさん一人、一人が心の中で、「辻潤は――だ」と思われればいいのではないでしょうか。「 」の中にはけしてはめ込まれないおもしろさが、辻潤にはあります。そして、そのおもしろさがいつしかわたしたちの心の糧になるのではないかと思っています。――――――――――――――――――――――――――――――――――
次回配本は第八巻=翻訳四。明治三九年、二三歳の若さで訳したアンデルセン「墓鐘」、日本に最初に思想家として紹介したグールモンを初めボードレール、ポー、カッサース、バルザック、ヘッセ、シェストフ他多数。明治、大正、昭和に亘って辻潤自ら思想の共感者として選んだ詩人・作家を網羅した翻訳集。
第八回配本は十月上旬
第八巻 翻訳四 カッサース・ポオ ボードレール 他――――――――――――――――――――――――――――――――――
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