『辻潤集』月報の入力作業と覚え書き
<関連する辻潤書籍>
1954年『辻潤集』を近代社より刊行
第一回配本 『ですぺら 辻潤集2』(1954年06月05日発行)
第ニ回配本 『浮浪漫語 辻潤集1』(1954年08月28日発行)
全三巻の予定が第三回は刊行されず
<特徴と収録内容>
・基本コンセプトは新字旧仮名(旧字も混在)
・第一回配本『ですぺら 辻潤集2』
『ですぺら』(1924年)、『絶望の書』(1930年)を収録
ただし「絶望の書」の序文は収録されていない
・第ニ回配本『浮浪漫語 辻潤集1』
『浮浪漫語』(1922年)、『どうすればいいのか?』(1928年)を収録
『螺旋道』(1929年)より10編を収録
<入力作業の公開>
・辻潤集月報1(1954年06月『ですぺら 辻潤集2』付録)
・辻潤集月報2(1954年08月『浮浪漫語 辻潤集1』付録)
<入力作業と覚え書き>
旧字旧仮名は新字新仮名に変換した。
原文の確認用として記事に画像を添付。
辻潤集月報1
・松尾邦之助「刊行の言葉」
”日本は正に全身黴毒菌に侵された。「救われない國」である”」の句点は誤植。月報2では除去されている。
”彼の思想の偶然な共感者だと思われる。「唯一者とその所有」の著者スティルナーの評伝”の句点も誤植と思われる。理由は後記。
”辻潤と共に「おゝこんとれいる」と叫びたい”の「おゝこんとれいる」は『癡人の独語』に収録されている文章のタイトル
・佐藤春夫「太宰治の先駆をなすもの」
"江戸ッ子のアイヌ"という所の紋切型(ステレオタイプ)が不明。ジブシー=放浪、ユダヤ=ケチという紋切型がある。アイヌ=絶滅種ということか?
”辻の代表作とも見るべき自伝的随筆は題して「ですぺら」と云う。敢て絶望の書と呼ばず同じ意味をこの造語で現わしたのが辻の気取りでもあり文藻でも詩情でもある”
1924年『ですぺら』とは別に、1930年『絶望の書』が刊行されている。
佐藤春夫はそれを知らない(無関心だった)ということなる?
1932年初頭まで辻潤は佐藤春夫の雑誌『古東多万』に寄稿しており、1932年4月23日発足「辻潤後援会」の世話人には佐藤春夫の名がある。『絶望の書』刊行後も交流は続いていたのだが。
・高橋新吉「萬物流転」
”プレハノフの重訳”は辻潤の名義貸し。訳者は百瀬二郎(エリゼ百瀬)。
・萩原朔太郎「悲しき絶望の哀歌」
「辻潤と低人教」の抜粋と編集。初出は1935年12月『書物展望』に掲載。1935年8月刊行『癡人の独語』 の書評である。これが1936年5月刊行『孑孑以前』の跋文として採用され、更に抜粋編集されたものを「悲しき絶望の哀歌」として再掲載。
”その著「痴人の独語」に於て”の原文は”その近著『癡人の獨語』に於いて”。”十字に架けられた”の原文は”十字架に架けられた”。修正なのか誤植なのか判断が難しい。
・告知欄
”第二回配本第一回 浮浪漫語”は、原文ママで入力。
正しくは”第二回配本第一巻"
辻潤集月報2
・略歴
内容は月報1と同一。適宜句読点が加えられた上、使用漢字が変更されている。國が国に、茂吉の斎が齊に。
・山川均「十二社の園遊会」
「社会主義夏季講習会」(1907年8月6日記念撮影)の説明。貴重な史料である。このnote記事の下方にも写真を添付しておこう。
・尾崎士郎「明るい楽天家」
辻潤の交友圏に尾崎士郎がいたのは間違いない。しかし追跡者泣かせの文章である。
まず”上野まで歩いた”という記述から”辻潤の家”は下谷北稲荷町にあると推定しよう。辻潤「聯関」にも下谷北稲荷町のくだりに尾崎士郎の名が出てくる。両者の話が矛盾なく一致する。1916年以後、いわゆる浅草時代の話となる。
ところが尾崎士郎の記述「当時の夫人は伊藤野枝女史」「上野女学校の先生をやめたばかり」。これが全ての整合性をぶち壊すのである。
辻潤が上野女学校をやめたのは1912年4月で住居は巣鴨駒込界隈、尾崎士郎の生年1898年から起算して14歳の年となる。1916年、伊藤野枝が出奔。その家は小石川区指ケ谷町とされている。辻潤が上野界隈(下谷)に居を移すのは、野枝と別れた後の話なのだ。
尾崎士郎が辻潤にはじめて会った記憶に茂木久平がいた。ここを起点にみてみよう。1916年、尾崎の早稲田入学。1917年、早稲田騒動で尾崎と茂木は退学。茂木久平との出会いは早稲田大学で、『辻さん』の記憶は1916年以後となる。「この幸福な家庭人」というのはあり得ない。尾崎士郎の文章は実体験、外的情報、時系列の錯誤から再構成されたものと見るのが妥当かと。
・沈魚「不思議な冷気」
”週間読売”は”週刊”が妥当。
”この集に収められたものは大正七、八年ごろから”について。”この集”は『第一回配本第二巻 ですぺら』と思われる。なぜなら沈魚氏の文章のすぐ真下、近代社編集部の既刊告知にそう書かれているから。
つまり珍魚氏の文章は月報用に寄稿されたものではなく、『第一回配本第二巻 ですぺら』の書評である可能性が高い。週刊読売に掲載された書評が、第二回配本の月報2に採用されたということか?
・告知欄
”第三回配本第三巻 痴人の獨語”は刊行されなかった。
<「刊行の言葉」の分析>
私は敗戦の日本に戻ってから、ジイドが一流の哲人エッセイストとして認めた辻潤の「ですぺら」や「絶望の書」を読み返し、彼の思想の偶然な共感者だと思われる。「唯一者とその所有」の著者スティルナーの評伝を草しながら、純粋な感情と認識の所有者、稀代異色の人間辻潤のいだいた「絶望」が、今日ある日本の姿を悲しくも預言していたばかりか、その「絶望」に巨大な希望が切々と綴られていることを思い、彼の本を再刊して無偏見な孤独者のみが持つ人間愛と祖國愛の清浄な灯をかきたてて見ようと念願していた。
この一文の読解に難儀した。太字部分の句点を除去し”彼の思想の偶然な共感者だと思われる「唯一者とその所有」の著者スティルナー”としないと文章が成立しないのだ。文頭S「私は」の述語動詞をV1「日本に戻ってから」V2「~を読み返し」V3「~を草しながら」V4「~を思い」V5「~を再刊して」V6「~と念願していた」と捉えると文意が通る。心余りて読み手が戸惑う大長文。
<添付資料>
『浮浪慢語 辻潤集1』より「角筈十二社における記念写真」
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