橋爪健「辻潤と無想庵」
親記事>橋爪健『多喜二虐殺』の入力作業と覚え書き
底本:『多喜二虐殺』新潮社、1962(昭和37)年10月1日
初出:『小説新潮』(※掲載号未詳、1961-1962年いずれか)
著者:橋爪健(1900年02月20日 - 1964年08月20日)
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辻潤と無想庵
當年七十四歳のおばあちゃんが、手足の爪をまっかに染めた若々しい厚化粧で、ベルギイの自宅を根じろに、ヨーロッパ、アジア、アフリカと世界をまたにかけて飛びまわっている。年中冷水浴と龜の子だわしの全身まさつをやって、四五十代の美貌と健康をたもちながら、文化展覽會をひらいたり準ベスト・セラーの著書をだしたりして精力的に活躍している。しかもそれが大正昭和のデカダン作家武林無想庵の前夫人として、モナコで情痴のピストル事件など起したりして嬌名をうたわれた女傑とあっては、日本のマス・コミがほっておくわけはない。ここ數年來、このベルギイ在住の貿易商宮田耕三夫人文子が飛行機で日本へとんでくるたびに、週刊誌やラジオなどでは彼女の動靜をにぎやかにとりあげた。
そのころ私はときどき武林無想庵が練馬區下石神井の寓居におとずれていたが、これはまたなんという相違だろう。すでに八十をすぎた老齢もさることながら、昭和十八年に兩眼失明した上、左の眼球はえぐり取られ、しかも全身の神經痛で身動きもならず、十年あまり仰臥したきりで、腰や背中は床ずれのため赤紫色に皮がむけて血うみが出るという悲慘な状況である。
さいわいかれを尊敬する一女性が後妻として獻身的な看護をしていたので、かれの舊友辻潤のように人知れず陋巷に窮死するという末路にはいたらなかったが、生活のために、また自分の文學的總決算をのこすために、まわらぬ口でおぼろな記憶をたよりに〈むさうあん物語〉を口述筆記させ、佐藤春夫、谷崎潤一郎、正宗白鳥、長谷川如是閑、川田順など古い友人たちの後援で會員制の自費出版を二十一册出しつづけていたそのすがたは、今もなお不老の夢を追ってコンゴーやヒマラヤの奧地まで歩きまわる先妻文子とくらべて、まさに劇的ともいえるすさまじいコントラストである。
「また文子さんが東京へきたそうですよ」
あるとき私がそういうと、無想庵はカギ形に高い鼻梁だけくっきりと殘してあとは全部退化した眼や口をもぐもぐさせながら、
「うむ、あれは、このごろ、どうしているかねえ」と、つぶやくように云った。
「とても元氣そうでね、なんでも不老長壽のヒケツは強健な足腰にありというわけで、毎日十キロも歩きまわっているとか……」
云いかけて私は、この生ける屍のような老先輩にむざんな報告をしたような氣がしてハッと口をつぐんだが、無想庵は、黄ろくしぼんだ瞼の下で一瞬クルッと眼球の動きを見せただけで、
「ふっふっ、強健なアシコシか……わたしとまるで逆だな」と、無感動な笑いをうかべた。
その顏を見守りながら、私はふと四十年前の學生時代を思いだした。かれの譯したドーデの〈サフォ〉や、アルチバーシェフの〈サーニン〉を讀んで、文學熱をあおられた私は、長いあいだ武林無想庵という名になにか郷愁めいたなつかしさを感じていた。無想庵は大正九年から十五六年間、文子にひきずられてフランス三界を放浪していたので、若いころのかれを私は見たことがないが、親友だった谷崎潤一郎もいっているように、いわゆる眉目秀麗、色あくまで白く、六尺ゆたかの堂堂たる美男子だったという。いま眼前に横たわる盲目不隨の老殘のすがたからは、とうてい想像もつかないのだ。
それにくらべると、同じような世紀末的文士であり、ダダイストであり、放浪者であった辻潤とは、大正十二三年ごろから數年間、したしく接觸したことがあるので、無想庵よりも人間的に解るような氣が私はする。
辻潤も無想庵と同じころ、ロンブローゾの〈天才論〉やシュティルナーの〈唯一者とその所有〉などの翻譯を出版して文壇に出た。そして、性の解放と權威の否定をだいたんにうたった無想庵の〈サーニン〉が當時のベスト・セラーとなって、サーニニズムという言葉まで流行したと同じように、辻潤の〈唯一者とその所有〉も虚無的な自我主義の聖典として大いに讀まれ、思想的、藝術的に大きな影響をあたえたのである。
もっとも、辻潤の名が一般にひろく知られるようになったのは、それより少し前、かれの妻の伊藤野枝が、當時のアナーキストの總帥大杉榮のところに走り、その戀がたきだった新聞記者の神近市子が怒って大杉を刺したいわゆる葉山・日蔭の茶屋事件でデカデカと新聞雜誌に書きたてられたからだった。しかもその伊藤野枝が、七年後の大震災のとき、大杉榮と小さな甥と一しょに甘柏憲兵大尉に殺されたということが、輪をかけて辻潤を有名にした。
無想庵も同じことで、愛妻文子がモナコで情人からピストルでうたれたことが國際的な新聞沙汰になったため、本末ならばポピュラーでないはずのかれの名前を三面記事的なものにしたのだった。
そうした運命やその生き方において、この二人には非常に似たところがあった。たとえ一般社會にもてはやされるようないわゆる名作を書かなかったとしても、その生活・行動そのものが文學的興味をそそる破滅型の文士として、戰後の太宰治、坂口安吾、織田作之助などいわゆる無頼派作家の源流をなすものと云えるだろう。
まず辻潤と伊藤野枝の出あいからはじめよう。辻潤の家は淺草藏前の裕幅な札差し(廻米問屋)だったが、明治維新と父親の死によって、まったく沒落してしまった。かれは中學もまんぞくに出ずに、神田の國民英學會で英語を習得し、母と妹をやしなうために十八九のころから私塾や小學校の教員をやった。
明治四十二年、二十六歳のとき、私立上野高等女學校の英語教師になったが、そこの五年生に伊藤野枝がいたのである。キリッとしまった顏だちながら色があさ黒く、うすよごれた身なりで、いわゆる美人のタイプではなかったが、辻潤はその野性的な美とゆたかな文學的情操をみとめて、しだいにひきつけられていった。
野枝の方ではもっとはげしかった。ただでさえ若い獨身の英語教師である。小づくりだが色白の美青年で、江戸っ子らしいヒューモアと近代的な文藝知識をもつ、やさしく聽明な辻先生に、十八歳の情熱をもやした彼女は、翌年卒業すると一たん九州の國もとへ歸ったが、半月もたたないうちに婚約の男をふりきって上京、辻潤のふところへとびこんできた。
ご法度の教師と教え子の戀愛というわけで學校から注意をうけた辻潤は、ハラをきめて辭職し、彼女と結婚した。それがかれの浪人生活のそもそものきっかけだったのである。
結婚生活はしごく幸福だった。が、老母をかかえ、子供が生れてくると、夜學や家庭教師だけのかせぎでは樂じゃない。さいわい教師時代から譯しつづけたロンブローゾの〈天才論〉が大正三年に本になり、豫想外の好評をえて文壇にデビューしたとはいえ、相變らずの貧乏生活だった。
そのころ平塚らいてうが、進歩的・反逆的ないわゆる“新しい女”をあつめて〈青鞜〉という文學・思想雜誌をだしていた。野枝はそこの社員になって働いた。彼女は夫の指導でアナーキズムの論文などを翻譯して、ぐんぐん成長してゆき、やがて平塚にかわって〈青鞜〉を一人で編輯するようになったが、そのとき大杉榮と知りあったのである。
鬪爭的なアナーキストとして勞働運動の輝ける指導者だった大杉は、また徹底した自由戀愛論者でもあり、當時、姉さん女房の堀保子と愛人神近市子との三角關係にあったが、そこへ野枝があらわれると、たちまち惚れこんでしまった。三角が五角になった。野枝の方でも、社會運動に情熱のない虚無的な夫をあきたりなく思っていたときなので、かねてあこがれていたこの英雄的な偉丈夫の誘いに、苦もなくよろめいてしまった。大正五年二月、彼女は三つになった長男一と、生れたばかりの次男流二をのこして、大杉と二人、神田の下宿に愛の巣をいとなんだ。
辻潤はあきらめきって、文句一ついわなかった。かれが兄事していた半獸主義の作家岩野泡鳴などは、カンカンに怒って、姦通罪で告訴しろとすすめたが、辻はふふんと笑っただけだった。が、そのころ親しくなった武林無想庵や宮島資夫などの友人と酒をのむと、きまって、「親のない子と濱べの干鳥、日さえ暮れればチヨチヨ」と追分をうたった。目をつむった顏を少し上向きかげんにして歌うその聲には、無限のさびしさがこもっているようだった。今までむしろ律義で、學校の教師らしかったかれは、この事件を契機に思想的にも生活的にもガラリと變っていった。もし伊藤野枝という女性がかれの前にあらわれなかったら、そして彼女が大杉のところへ走らなかったら、後年のダダイスト辻潤は生れなかったかもしれない。
一方、おさまらないのは神近市子で、彼女は、貧乏なくせにぜいたくな大杉榮のために帶まで質に入れてみついでいただけに、野枝との開係をゆるせなかった。
ある日、大杉がアナーキズムに好意をもっていた東京市長の後藤新平から金をもらって、野枝と一しょに葉山の日蔭の茶屋という旅館へいったことを知ると、一本氣の神近は、翌日二人を迫いかけていった。そして野枝だけ東京へ歸ったその晩、眠っている大杉ののどを短刀でつき刺し、すぐ警察に自首した。大杉は病院へかつぎこまれたが、傷はさいわい淺かった。そのとき、大杉、神近、辻の三人と親しかった作家の宮島嶋夫が見舞いにいった歸り、病院の外へ出ると、井戸端に野枝がいるのを見た。かれは神近にも辻にも同情していた矢先だから、野枝を見るとカッとなって、手にしていた番傘で彼女の頭をなぐりつけ、どぶに蹴こんだまま、物もいわずに歸っていった。
新聞雜誌は、待ってましたとばかりこの事件を書きたて、世論はゴウゴウと起ったが、まきぞえを食った辻潤は一さいノー・コメントで、そんな新聞雜誌には目もくれなかった。そして、しばらく上野寛永寺の一室に身をひそめて、好きな尺八を吹いたり、淺草へんをほつき歩いたりしていた。貧乏のどん底にあったかれに氣前よく酒や飯をふるまってくれたのは、千束町あたりの私娼や博徒や旅藝人や、そうした貧しい庶民だけだった。
武林無想庵の放浪生活も、そのころから始まっていた。
辻潤とちがって養子ながら富裕な環境にそだつたかれは、すらすらと帝大英文科にすすみ、同級の小山内薫や川田順などと同人雜誌〈七人〉を出したり、島崎藤村、國木田獨歩、田山花袋、蒲原有明などとつきあったり、文壇的發足は順調だった。ところが、二十七歳のころから懐疑煩悶の結果、女狂いをはじめて、冩眞館をやっていた養家をとびだし、京都へいって新聞記者になった。翌年、養父の重病で一たん歸京して結婚したが、すぐまたとびだして京都へゆき、はじめて比叡山の宿院にとまった。
その幽邃森嚴なフンイキの中で、天台宗の經書〈摩訶止觀〉を讀み、強く怫教にひきつけられたかれは、その後なんども叡山にこもって、タイハイの心を靜めようとした。名譯〈サーニン〉を譯したのも、ここの教王院ただった。
同じ一中、一高、帝大中退というコースを四五年おくれてたどつた谷崎潤一郎は、そのころすでに〈刺青〉〈惡魔〉などの異色作によって花々しい流行作家となっていたが、當時の無想庵について次のように云っている。
「昔、大正五六年の頃、無想庵君が小石川原町の私の書齋ではじめて芥川龍之介と會して放談にふけったとき、芥川は君の學問の博く深いのにおどろいていた。……私もこの博學の先輩に實にいろいろのことを教えてもらった」
これをみても、無想庵が後年云われたように單なる酒くらいの遊冶郎ではなく、博學多才の讀書家であり、氣質的、思想的の懊惱者だったことがわかる。
離婚、養父母の死でひとりになった無想庵は、そのころ一つの過失をおかした。北海道から上京した異母妹と關係して姙娠させたのである。かれは悶々のすえ、天下無住の放浪生活にとびこむ決心をかため、養父のたててくれた小石川の邸を賣りとばして、ひとまず麹町の貸家にうつった。そこへ辻潤がころがりこんできて、シュティルナーの翻譯をやりだしたのである。大正八年、無想庵が四十歳、辻澗が三十六のときだった。
かれは辻にすすめて先に比叡山にゆかせ、じぶんは家財道具から藏書まで賣りとばして、カバン一つで放浪の旅に出た。
まず鵠沼海岸の東家という、文士連のよく來る旅館に滯在して、當時ひどく戀していた美貌の人妻とはかない逢瀬をたのしんだ。これは東京の豪商の若夫人で鎌倉の別莊にすんでおり、そのころのかれの小説〈ピルロニストのやうに〉や〈性慾の觸手〉に登場しているが、この鵠沼がいんねんとなって、かれの後牛生を決定づけた中平文子との出あいとなるのだから、かれが口ぐせのように「諸法因縁生」というのもむりはない。
叡山では、辻潤が宿院の一室にこもって、せっせとシュティルナーの翻譯をやっていた。
「どうだい、ここは?」無想庵がきくと、
「いいとこだなあ。おれはもうどこへも行きたくなくなった」と、辻潤は久しぶりに滿悦そうな表情だった。
そのころの比叡山宿院は、だだっぴろい建物にほとんど泊り客がなく、一日中シーンと靜まりかえっていた。海拔千メートルの山上で、十メートルも高い杉の老木にかこまれた宿院の生活は、米とみそだけ半年ばらいで出してくれるので、スッポロ飯とみそ汁で自炊生活しさえすれば、半年は無一文で生きてゆけるのだ。
まもなく辻潤の誘いで、宮島資夫がやってきた。この宮島は、私も大正十二三年ごろの南天堂時代にちょいちょい顏をあわせたが、ガッシリふとった筒っぽ姿で、いつも酒氣をおびて執拗にからみつき、最後には私をなぐるといっていきまいているという噂を尾綺士郎から聞いたので、それっきりイヤになって會わなかった。私ばかりではない、詩文壇の連中でかれになぐられなかった者は少ないというほどの暴れんぼうで、「山犬」とか「喧嘩蓬州」とかいうアダ名をつけられていた。蓬州とは、後年かれが出家してからの戒名で、坊主になってからも大酒をのんであばれていたのである。しかし、根は小心單純な正直者で、内攻的な性格からいつもフンマンが爆發するのだ。友人の山田吉彦(今のきだ・みのる)がフランスへ行くとき、その送別會に自分を呼ばないとはけしがらんとカンカンに怒り、單身その會場にのりこんで主賓の山田に二つ三つ平手打ちを食わした話はとくに有名だった。
かれは家の沒落で少年時代から小僧、職工、土方、鑛山の事務員その他二十數種もてんてんと職をかえた。そして大杉榮の影響で戰鬪的なアナーキズムにひかれたが、文學が好きで〈坑夫〉という中篇小説を大杉らの出していた〈近代思想〉に連載し、大正五年、金主をみつけて單行本にした。じぶんの體驗を書いたものだけに、なまなましい實感をもった力作として、夏目漱石の〈坑夫〉よりもすぐれたものと評判になったが、當時まだレッキとしたプロレタリア文學はあらわれなかったときで、おそらくこの宮島の〈坑夫〉が日本最初の勞働者作家の作品といえよう。
かれもまた思想と實生活のギャップに苦惱して、相當な才能がありながら小説が書けないでいたので、この叡山がひどく氣にいって、永住の決心をした。文壇隨一の三奇人も、シャクにさわるシャバから遠く離れたこの聖域では、あまり酒ものめず、しごくおとなしかったらしい。
無想庵が小説〈ピルロニストのやうに〉(ピルロンは古代ギリシャの懐疑派哲人)を書いてまた鵠沼へ行ってしまうと、宮島は翌年一月、妻と三人の子をつれてきて、やれ朽ちた古寺に住むことになった。
辻潤も一ど山をおりて京都大阪へ講演にいったが、すぐまた歸ってきた。そのとき宿院には珍しい女客が泊っていた。野溝七生子といってまだ同志社高女の生徒だったが、一日中麥わらの海水帽をかぶり、部屋にいるときはあぐらをかいて、突拍子もない聲でマイオールドケンタッキイホームと歌っている風變りな娘だった。宮島は彼女を牝鹿と狐の合の子と酷評したが、辻は一ト目で惚れこんでしまった。野枝と別れて四年、久しぶりの熱烈な戀だった。
うわべは圖々しく見える虚無的な自我主義者のかれが、戀をするとひどく内氣なハニカミ屋になって、ひろい宿院に彼女と二人しか泊っていないのに、于をだす勇氣もないのだ。
ある日、東京や京都のアナーキストの一團が宮島をたずねてきて、みんなで酒宴をしたことがあった。そのとき一人の屈強な鬪士が、
「ねえ娘さん、今夜とまりにいってもいいだろう」と冗談半分にさそいをかけると、辻潤は眞顏になって、「よせっ」とどなりつけた。そしてその晩は、彼女の部屋の前の廊下に寢床をしいて寢ずの番をしたという。
この話は、辻潤をモデルにして書いた宮島の中篇〈假想者の戀〉におもしろく描かれている。辻や宮島と親しかった詩人岡本潤の話によれば、この野溝孃は大正十年ごろ東洋大學で岡本と同級だったとか。授業時間に先生が「勞資は協調してやってゆくべきです」などと云うと、彼女はとつぜん立ち上って、
「そんなバカなことがあるもんですか」と、勇敢に先生をやっつけるといった女性だったそうだが、その個性の強い野性味に辻潤はほれたものらしい。彼女はのちに作家となって、〈南天屋敷〉という短篇集などを出し、現在は母校東洋大學の先生をやっているとか。
そのころ無無想庵も鵠沼で戀をしていた。例のブルジョアの奧さんである。だが、彼女をモデルにした〈ピルロニストのやうに〉が、改造三月號に發表されたため、彼女の家で急に警戒がきびしくなり、はかない逢瀬さえ不自由になってきた。
がっかりしているところへ、ひょっこり現われたのが中平文子である。小説家というふれこみで同じ東家に泊りにきたのだが、無想庵の名前を知っていて、ぜひお目にかかりたいと云うのだった。言ってみると、三十ぐらいの目の大きな卵形の顏で、すんなりと撫肩の小柄だ女だった、ちょっとそのころ流行していた竹久夢二の繪のようなせんさいな魅力もあったが、ときどきキラリと光る眼には、なにかたくましい生活力が感じられた。
二三度あっているうちに、彼女はじぶんの過去をあけすけ話した。最初嫁入りした家をとびだしてから、女優になろうと思ったが果さず、〈中央新聞〉の社會部記者になり、體を張って大たんなスクープ記事を書いた。おかけで社長にひどく可愛がられたが、社員の反感をかって、まもなくやめてしまった。その後ある青年と結婚したが、少し氣がへんで蛇のように執念ぶかいその青年の追求からのがれるために、十數囘も日本を脱出して、上海や滿洲、朝鮮とわたり歩いたすえ、やっとその青年と切れることができた――というのである。
「奧さん」に失戀した無想庵は、こんどは文子の妖艷さにとりつかれて、北海道の賓父の地所を無法にたたき賣った金で文子と結婚すると、一度支那へ新婚旅行してから、すぐ二人でフランスへ旅立った。金があるあいだ放浪して、いよいよなくなったら原稿をかいて食えばいいと、かれ一流のタカをククッタのである。パリにつくとまもなく娘イヴォンヌが生れ、翌大正十年いっぱい、親子三人でイギリス、ドイツ、スイス、イタリイと歩きまわった。
金を使いはたした無想庵は、翌年一たん歸國して、相州ニノ宮の中平家に暇寓し、〈性慾の觸手〉その他の中短篇をあつめた小説集〈結婚禮賛〉〈文明病患者〉の二册を改造壯から出版した。改造社社長山本賓彦は、かれを大いに買っていたのである。
そのころ(大正九年)辻潤はシュティルナーの〈唯一者とその所有〉を譯しおえて、本にすることができた。人がおのおの自分の自我をはっきり意識して、社會的權威とか宗教的偶像とか、自己以外の存在の價値を一さい否定するというこの徹底した虚無主義は、それまでドイツの哲學史上でも默殺されてきた革命的な思想だったが、辻潤の譯書がでるとたちまち數版をかさねるという意外な反響を呼んだ。日本の若いジェネレイションがそれだけ自我にめざめてきた證據であり、事實、この本はその一ニ年後に勃興してきた異端的ないしは前衞的な文學藝術の温床となった。當時高校生だった私ら仲間も、難解ながら愛讀したものである。
辻潤自身も、この書によって開眼された。今までぼんやりしていた自我というものが、はっきりと意識された。模索していた虚無の本體を、ようやくつかむことができた。そこヘダダイスト高橋新吉が登場するのである。
大正十一年一月のある日、そのころ川崎市に往んでいた辻潤のあばらやへ、目つきのするどい、やせた青年がたずねてきた。ワタだけのふとんをかぶって寢ていた辻潤は、きたないドテラをきて出てきた。
「高橋新吉です」青年は二コリともせずに云った。坂本石創という新吉の友人から、新吉が變った詩をかいているということを聞いていた辻潤は
「どんな詩をかいてるんだい」ときいた。
「ダダイズムです」
「ダダイズム? なんだい、そりゃ。おれは聞いたことがないね」
そこで新吉は、ボキボキと、どもるような口調でしゃべった。愛媛縣八幡濱に生れて、商業學校を卒業まぎわに家出したかれは、上京して小僧になったり、郷里の寺ではたらいたりしたが、藤村詩集や福士幸次郎の詩集を讀んで、詩がすきになった。たまたま大正十年十九歳のとき、萬朝報という新聞に“革命的藝術運動”としてダダイズムの紹介記事がでたのを贖んで、新吉は異常な衝撃をうけた。それは第一次大戰中(大正五年)スイスに亡命したルーマニア人トリスタン・ツァーラほか數人の詩人によって起された運動で、自我と虚無に徹し、一さいの既存のものの否定破壞によって、混亂そのものを瞬時に表現せよという爆彈的提唱だった。
そのころ辻譯の〈唯一者とその所有〉を讀んで思想的に共鳴していた新吉は、このダダの主張が性格的にもじぶんにぴったりするように感じ、手さぐりにダダ的な詩をかきだしていたのである。これが辻潤をたずねたのは、〈唯一者とその所有〉の績篇が、〈自我經〉と題してその一月に出版されたのを新聞廣告で見て、それを贖みたいと思ったからだ。
「そうか、それは面白い。こんどその詩を見せてくれないか。ぼくも研究してみよう」
辻潤はそういって、シャケの切身でめしを食わせ、〈自我經〉をかしてくれた。これが日本にダダイズム運動の起った最初のきっかけだった。この二人が寄りあわなかったら、日本のダダはあれほどの猛威をふるわなかっただろう。
シュティルナーの哲學を藝術にすれば、そのままダダの藝術となる。すっかりダダが好きになった辻潤は、いち早くダダイストの名のりをあげ、その年の九月號の改造に〈ダダの話〉というエッセイを書いた。つづいて十月號に高橋新吉の〈ダダの詩三つ〉が發表され、翌十二年二月には辻潤の編纂で〈ダダイスト新吉の詩〉が刊行された。これは若い詩壇に新しい戰慄を呼びおこした劃期的な詩集だったが、そのとき郷里に歸っていた當の新吉は、氣が狂って八幡濱警察の留置場に入れられており、この處女詩集が氣に入らず、バリバリひきさいてしまった、と、これは本人の告白である。
その秋の大震災のショックで、かれの狂氣は一時なおったが、その後もなんどか發狂し松澤病院に入れられたという噂もたった。氣が狂っていた方が、かれの天才はよけいに發揮されたようである。
辻潤はその前年の秋ごろから若い小島キヨと同棲していた。廣島の洋服屋の娘で、辻が月島でダダイズムの講演をしたとき聞きにきた文學少女だった。そのころ辻潤はエッセイスト(隨筆家)として新興文壇の指導者みたいな存在になっており、原稿の注文も相當にあったが、母と子と女房をかかえた生活は相變らず苦しかった。そこへ九月一日の大震災がきたのである。
小島キヨはちょうど姙娠して腹がふくれていたので、辻はフクレタリヤなどと呼んで可愛がっていたが、そのキヨを一時國許へかえらせるために西下した。そして大阪で一週間ほどぶらぶらしていたとき、大杉榮が野枝と甥の少年とともに甘柏憲兵大尉に虐殺されたという號外を見た。さすがのん氣なかれも、地震とは全然ちがった強いショックをうけた。子供の好きな大衫は、辻潤のるす中など、野枝に一をつれてこさせ、遊圉地につれていったりして可愛がっていたが、そのときは七歳の甥をつれていたのである。辻は、妹の家に母とふたりあずけてきたわが子のことを思って、暗然となった。
一方、無想庵もこの大震災で妻の文子を半分生埋めにされるなどして相當いためつけられたが、その年の末、神戸から香取丸でふたたびフランスへ渡った。この歐洲航路船香取丸の老船長今武平は、今東光、日出海兄弟の父親で、かつて文子に船内を見學させたりして、ひたむきなヨーロッパ熱を吹きこんだ人物である。
こんどの渡彿は、前のように金があったのではない。向うで原稿をかいて日本へ送ればなんとかなると、例の夕力をくくっていたのだ。が、そうはうまく問屋がおろさなかった。何よりいけないのは、無想庵がいまやまったく文子に首ったけになり、勝氣で行動的な文子にひきずりまわされて、生活の中心を妻と子にうばわれてしまったことだ。絶えずいいものを書きたい書きたいとあせっているのだが、こうした自主性の喪失と生活の不安のなかでは、いい仕事などできるはずはなかった。
一文なしになって茫然としている無想庵を見ると、文子はさっさとロンドンへ出かけ、五年前に會ったことのある日本料理店〈湖月〉の主人Kを色じかけでローラクして金を出させ、パリに〈湖月〉の支店をひらいた。
が、それが大失敗に終ると、こんどは日本から留學してきた若い裕福な農學士と南フランスへ駈けおちしてしまった。もちろん金のためで、イヴォンヌと三人、豪華なホテルに滯在していた。それを知った無想庵は、知人から汽車賃をかりて、あとを追った。
「なんだって勝手に出てきたの?」と、妻はにがにがしげに云う。夫は怒りの言葉もでず、オドオドするばかりだ。結局、妻から金をもらって、近くのみすぼらしいパンションに住みながら、日に二度も三度も、「さかりのついたおす犬みたいに」妻のところへ通うが、妻はつめたくはねつけてしまう。「――そうして、いやがられれば、いやがられるほど、わたしは櫻姫にあこがれる清心のようにしてまでつきまとった。……」
これがその年(十四年)に書かれて改造十月號に掲載された〈コキュのなげき〉の筋である。コキュというのはフランス語で、妻を寢とられた男という意味だ。いま讀むと多少愚痴っぽすぎる甘いところもあるが、ここまで不貞の妻におぼれぬいた腑甲斐ないコキュの哀感が、切々と赤裸々ににじみでていて、當時もっとも好評をかちえた作品だった。
このトラブルもどうやら無事にすんで、文子は一たんパリヘ歸ってきたが、それもつかのま、日本からきた舞踊家トシ・コモリと日本舞踊の公演を企畫し、またぞろ例の〈湖月〉の主人Kとモンテ・カルロのキャバレエに料理店をだして、そこでも踊ることになった。
まずパリのフェミナ座という小劇場での初公開では〈京人形〉と〈浦島〉に出演して大喝采をあび、〈青い島〉で有名なモーリス・マーテルリンクその他有名な文士連から扇子によせ書きをしてもらったりした。
ところが、それが終ってモンテ・カルロのオックスフォードというキャバレエに移って踊りだすとまもなく、Kと文子の仲がひどく惡くなり、ある晩、はげしい痴話げんかのすえ、Kがピストルで文子をうつという事件がおこった。原因は、文子とキャバレエのマネージャーとの關係をKが嫉妬したためといわれているが、Kと文子との情交を事こまかに記録している無想庵も、その點についてははっきり書いていない。
三發つづけさまに放たれた彈丸は、その一發が文子の頬から頬をぶちぬき、文子は鮮血にそまって倒れた。すぐ病院へかつぎこまれたが、あくまで運勢が強いのか、傷は急所をはずれ、しかも整形手術の結果、すこしの傷あとものこさなかった。Kが殺人未遂で逮捕されたのは云うまでもない。
この事件は、「火焔のダンス」などという見だしで全フランスの新聞をにぎわし、朝日新聞の特派員重徳泗水の打電で日本の新聞にも大きく報ぜられた。
その後〈コキュのなげき〉その他の原稿料が日本からとどいて小康をえたが、すぐまた無一文になった無想庵は、重徳記者にたのんで「無想庵、飢餓にひんす」と日本へ新聞電報をうってもらった。それが發表されると、日本の雜誌社や友人からドッと金がおくられてきた。
が、それも長くはつづかず、自由行動の必要な妻とも同居できず、無想庵はのら犬のようになってパリの松尾邦之助のところへやってきた。松尾は二十餘年もフランスに住み、のちに讀賣新聞のパリ支局長として文名をあげたが、その當時は小さな印刷工場をやっていた。
「松尾君、君の工場のおくにある物置をかしてくれないかね。家賃ははらえないが」
榮養失調のように青白くむくんだ顏で、しよんぼりしている無想庵のたのみに、松尾はその穴ぐらのような物置を提供した。無一文の無想庵は、食事もろくにとらず、ジメジメと暗い窓べで、しきりに何か書いていた。
その後、無想庵は〈女房に逃げられた男の心理描寫〉やくなぜ自殺しないか〉(改造)を書いたり、昭和三年、尺八片手に子供をつれて渡彿した辻潤と七年ぶりでめぐりあい、〈巴里コンニャク問答〉を合作號表したりしていたが、滿洲事變以來のジャーナリズムの方向轉換は、かれのようないわゆる不健全な文學をしめだしてしまった。それにカワセの暴落もあって、いよいよ進退きわまった無想庵は、昭和十一年、マルセイユの領事から送還命令を出してもらって、無賃で日木へにげ歸った。
かれはすでに文子のことはあきらめて、離婚の決心をしていたが、最愛の娘イヴォンヌだけは、なんとしても忘れられなかった。そこへ突然、「イヴォンヌ自殺未遂」というニュースが新聞に出た。仰天した無想庵は、友人だちのカンパで集められた金をにぎって、心も空にパリヘとんでいった。そのときのことを、かれは〈諸法因縁生〉という作品にこんなふうに書いている。
「來てみれば、妻はすでに他人の妻だし、娘は娘で、――あんたはお金をはらってくれないから、もうわたしのパパじやない……と、テンで相手にもしない。――娘の異變を利用して、一文なしのあんたが、かねがね來たがっていたパリヘ、こうして首尾よくとびこんできた手際は、あんたも相當な山師だね……と、去年までは十七年間もわたしの妻だった妻が、そうしていまは他人の妻である妻がいった。……」
このイヴォンヌの自殺未遂事件については、松尾邦之助がその著〈巴里物語〉にくわしく書いており、それによると、十七歳の美しい娘になったイヴォンヌは、母がアントワープ在住の日本貿易商と結婚してから、しばらく松尾のアパートに世話になっていたが、母のたびかさなる亂行に可憐なおとめ心を傷つけられ、服毒自殺をはかったのだという。
さいわい手當が早くて助かったイヴォンヌを、やっとなだめすかして日本へつれ歸り、谷崎潤一郎の世話で映畫會社PCLの女優として入れることができて、無想庵ぱホッとした。だが、相變らず原稿は賣れない。イヴォンヌは夜だけ喫茶店ではたらくことになったが、家庭の亂脈からすっかり反抗的になっていた彼女は、酒に醇っぱらっては父と爭い、ついに同居するのをいやがって、ひとりアパートヘとびだしてしまった。このイヴォンヌと辻潤の息子とが後に結婚して、子供が生れたことは、兩異端者の血がはからずも混りあったわけで、なにか運命的なものを感じさせる。
大震災後の混亂と恐慌は、ダダ的ムードに火をつけた。一方でプロレタリア文學も起ってきたが、その主軸をなすマルクシズムにあきたりない詩人たちは、大半ダダに走った。
その年の一月に萩原恭次郎、岡本潤、壺井綮治、川崎長太郎の四人によって創刊された雜誌〈赤と黒〉は、日本最初の前衞詩誌であったが、はじめはむしろアナ的だった。それが一月おくれて出た〈ダダイスト新吉の詩〉に刺戟されて、急速にダダづいてきたところへ大震災となって、文藝雜誌はみんなつぶれてしまった。
翌十三年になると、ドイツから新知識をつめこんで歸ってきた村山知義が、未末派も表現派もダダも構成主義ももう古い、おれのはもっとも新しい意識的構成主義だというわけで、前衞藝術雜誌〈マヴォ〉を出したが、これもむしろダダ的な傾向が強かった。
〈赤と黒〉をなくした同人たちは、おれたちもダダの雜誌をやろうというわけで、小野十三郎、野村吉哉、神戸雄一や私も加わって、その夏ごろから本郷白山上のレストラン南天堂に毎日のようによりあって、その計晝をねった。あいつはどうだ、こいつはどうだと、同人を選考する席上、高橋新吉はぜひ入れようと衆議一決したが、あいにく新吉は歸郷して東京にいなかった。
「かれは氣が狂ってるそうじゃないか」
誰かが云うと、かれと親しい神戸雄一が、
「いや、もう治ってる。ぼくが連絡して原稿を送ってもらおう」といった。
そのとき、辻潤はどうだという話もでたが、かれは詩はかかないし、大先輩だからというわけで、敬遠することになった。
こうして十二人の同人を集めて〈ダムダム〉という雜誌がその年の十一月發刊されたわけだが、そのころ辻潤もチョビひげの小柄な和服すがたをよく南天堂にあらわして、私たち若い者と一しょに飮んだり歌ったり、時には得意の尺八を吹いてきかせたりしたものだ。醉っぱらうと、時に奇矯なことをやらかすが、ふだんは素朴で粹興な、いいおっさんだった。當時、醉っぱらった辻潤が、林芙美子の下宿に五十錢で泊ったという非難めいた噂がたったことがある。芙美子はそのとき二十一歳、〈放浪記〉で周知のように、大正十一年上京以來、女給や下足番、夜店の賣子などいろいろな職業をてんてんとしながら、男たちとの同棲にも失敗し、うらぶれた、多少やけっぱちな姿を、そのころ初めて南天堂にあらわしたのだった。そして親友の友谷靜榮と二人だけのうすっぺらな同人詩誌〈二人〉を出し、それにのった詩を辻潤にほめられて、有頂天に喜んでいた。虚無的な半面、感激性の強い文學少女だったから、五十錢でうんぬんの噂は、事實だとすれば、辻先生への心からの返禮だったのだろう。只でも結構なところを、貧乏ながらフェミニストの辻潤が翌朝歸りがけに笑いながら五十錢玉一枚おいていったというのも面白いし、辻潤より一そう貧乏な芙美子が、これも恥ずかしそうに笑いながら受けとったという構想もなかなかに面白く、むしろ美談といえよう。
私がそのころある雜誌でかれのことにふれて、
「辻潤の辻の字の上に尺八を一本のっけて、潤の字の門からダダの王樣をひっぱりだし、舌べろを入れると、迂濶となる……」と書いたところ、なんとかいうアナ系のテロリストから、「迂濶とはなんだ。辻潤のえらさが手めえらにわかるもんか。ふざけたことをぬかすと剌すぞ」と、脅迫のハガキが舞いこんだ。私はむしろ辻潤に親しみと敬意をこめて、かれの保身的世才の缺如という美徳を諷したわけで、後日、本人にあったら、うめえことを云やがると笑っていた。
そのころ岡本潤は父親の土地をたたき賣った金の殘りで、駒込驛のそばにゴロニャというおでん屋をひらいていた。そこには辻潤、宮島、前田河廣一郎、葉山嘉樹、萩原恭次郎その他大ぜいの文士連が飮みにきたが、金をはらう者はひとりもなく、まもなくつぶれてしまった。その店に辻潤の愛人だった小島キヨが女給みたいに手つだっていたが、これがまた大飮みすけで、客におとらず醉っぱらった。
ともかく、當時の辻潤はすでに〈浮浪曼語〉(大正十一年)〈ですぺら〉(大正十三年)などの單行本を出し、なおさかんにすぐれたエッセイや海外の異端派作家の紹介を書いたり、讀賣新聞の文藝特置員としてフランスに渡ったり、〈ニヒル〉とか〈虚無思想研究〉とかいう雜誌を出したり、その數年間がかれの一ばん得意の時代だったようだ。
「貧乏、病氣、多忙、制作、禁酒、禁煙、禁女、借金、ETC。當分土曜以外絶對面會謝絶、強いて御面會御希望の方は、一時間金五圓頂戴のこと。虚空元年一月吉日、痴呆洞主人」かれの小さな家の門口にそんなビラがはられたのも、そのころのことだ。
昭和二年に私が〈文藝公論〉という雜誌を創刊したときも、かれは親身になって應援してくれた。そんなときのかれは、飮んだくれのダダイストではなく、誠實あふれる良識人だった。そのころ私の評論集〈陣痛期の文藝〉出版記念會が神田の大ときわという牛肉屋でひらかれたとき、今東光とふたりで何かと司會をしてくれ、とくいの端唄をうたって滿場をわかした。なにしろブルジョア派とプロレタリア派の對立、おなじプロ派でもアナーキズムとボルシェビズムの抗爭のなおはげしかったころであり、各派の新鋭が五六十人、呉越同舟でやたらに酒をのんだので、當時流行のなぐりあいでも起きはしたいかと案じられたが、鼻っぱしらの強いブル系の今東光とアナ系の辻潤が仲よく司會してくれたので、ついに何ごとも起らなかった。
宮島資夫もよく南天堂にあらわれて、大酒をのんでは喧嘩をやった。かれは大杉榮と野枝らが殺されたことに強烈なショックをうけ、それ以來毎晩のように大杉の夢をみて、うなされていた。ある晩、岡本潤らと飮んで友人の家にとまったとき、突然はねおきて、となりに寢ていた友人にとびかかった。あとで聞くと、夢でその友人を甘粕憲兵大尉と思ったのだという。かれがだんだん小説がかけなくなり、昭和五年、妻子をすてて京都の禪寺にとびこんだのも、それが一つの原因だったようだ。二十年の荒法師のような求道生活の中で、〈佛門に入りて〉〈雲水は語る〉などを書き、さいごに苦惱の生涯を囘顧した〈遍歴〉をのこして、昭和二十六年、京都嵯峨野の天龍寺うらの茅屋で死んだ、胃カイヨウで血を吐く重態がつづいたが、さいごまで酒盃をはなさなかったという。
「新吉がとうとう發狂した。恐らく彼は彼自身のダダを完成させたのかも知れない。そして、僕はなぜまだ發狂しないでいるか。おれは彼より遙かに意氣地がないからなのだ」
十年前に、辻潤はそう書いた。その辻潤がとうとう發狂したのである。昭和七年だった。高橋新吉にいわせると、あんまり海外の知識をつめこみすぎて頭がへんになったそうだが、それは單なる學者としての知識ではない。いかに眞實に生きるかを悲壯に追いつめるために、あらゆる近代思潮の波を全身にあびていたのである。
かれが發狂したとき、親友の萩原朔太郎は、〈この人を見よ〉という題で、辻潤を、現代日本の社會惡を一身に負って時代のギセイになったキリスト的悲劇人物として、ニイチェになぞらえ、
「辻君は文學者ではないかも知れぬ。……しかも文學者という語の眞意義を、最も本質的に所有している文學者は、日本でおそらく辻君などが代表者だろう。……しかも日本の文壇では、文學者らしくないニセ者ほど、いわゆる文士として幅をきかしている」と書いている。
その日本の主流的文壇では、辻潤をなんと見ていたか。チャラッポコな隨筆しか書けない飮んだくれの性格破産者。一種の文壇的道化師。そんなレッテルをはって、笑いものにしたのである。かれの人格を慕い、かれの逆説的傳道に隨喜したのは、血のけの多い青年か、反俗的な庶民だけだった。
辻潤のダダは、新吉たちのダダとやや違って、藝術として表現されずに、生活として、一種の布教として、實行されたのだ。それはソクラテスのように、またディオゲネスのように古いが、同時に、永遠に新しい反俗、反規格の行動精神だった。戰後文學を革命した賓存主義の眞髓をも、かれは二十年も前に身をもって實踐していたのである。
辻潤の狂氣は、さいわい歌人で青山腦病院長だった齋藤茂吉の手厚い診療、警察病院への入院でまもなく快癒し、ふたたび執筆できるようになったが、その後のかれは徹底的な放浪生活に入った。乞食のような恰好で尺八を吹いて門付けしたり、友人の家を無心して歩いたり、金が入るとへベレケに醉っぱらって野宿するというようなうわさが傳わった。
たしか昭和十四五年ごろだったと思うが、代々木に住んでいた私が、ある日庭に出ていると、門の方で尺八をふく音がした。生坦からのぞいてみると、編笠をかぶり、垢だらけの白い筒っぽをきた背のひくい男が、暝目したまま無心に吹いているのだ。そのやつれはてた、無精ひげの顏を見ているうちに、私は思わずアッと聲をあげた。
「辻さんじやないか!」
かれも、ちょっと目をあけて私を見たが、そのまま吹きつづけている。私は凍りついたように立ちすくんでいた。
昭和三年、かれの渡怫送別會が銀座のカフェー・ライオンで開かれたとき會ったきりだから、十何年ぶりだが、なんという變りはてたすがただったろう。かれはテーブルの上にあぐらをかいて尺八を一曲吹いたが、そのときのふっくらしていた頬はこけ、鼻下のひげもなく、叡智にかがやいていた眼はどんよりとにごっている。かれの尺八は前に二三度聞いたことがあるが、さすがに子供のときから相當な師匠について習っただけあって、ふく唇は色あせながら、その音色には落魄のひびきなどみじんもなかった。
吹奏が終ったとき、私はかけよって、
「辻さん、失禮ですが……」と、財布の小錢を洗いざらいかれの手にぶちまけた。そのとたん、プンと異樣な惡臭が鼻をついた。
「や、すまん……」と、その金をおがむまねをしたかれは、突然、わっはっはっと素っ頓狂な笑い聲をたてながら、すりへった朴齒の下駄を鳴らして歩き去った。
それっきり、苛烈化した戰爭は、かれのすがたもなにもケシとばしてしまったが、さいきん亡くなった舞踊家石井漠の書いたもので、辻潤の最後の横顏を知ることができた。
昭和十八九年ごろ、辻潤は垢光りのしたドテラに荒繩の帶をしめて、親しかった石井漠の自由ヶ丘のスタジオへよく遊びにきたそうだ。伊藤野枝ととりかわしたラブレターが一ぱいつまった行李を石井漠にあずけたりした。その中にはかれがひそかに「永遠の女性」と命名した野溝七生子の冩眞と短刀が入っていたらしいが、戰災で燒かれてしまったそうだ。
ある日、滿洲映畫協會理事長としてハバをきかしていた甘粕元憲兵大尉が、とつぜん訪ねてきた。かれは大杉ら殺害事件によって軍法會議で十年の刑を云いわたされたが、わずか數年で放免され、その後ずっと滿洲の政界で暗躍していたのである。
「漠さん、不自由があったらお云いなさい。なんでもしてさし上げましょう」物資缺乏の折から得意げにそういった滿洲顏役の額には、すでに老齢のしわが刻まれていたが、眼光はまだ猛禽のするどさを殘していたという。
そこへ案内もなくヌッと入ってきたのが辻潤だった。例のドテラ姿で片手に尺八をにぎった異樣な風態である。一瞬、二人はキッとにらみあったが、辻潤はそのまま物もいわずにゆうゆうと次の間へ通っていった。おたがいに冩眞でだけしか顏は知らなかったが、なにかピンと感ずるものがあったにちがいない。殺害事件以來二十年、最初にして最後の劇的封面だった。辻潤は、それからまもない昭和十九年十一月、上落合の貧民寮で、骨と皮にやせこけた體をシラミに食われながら、みとる者もなく六十年の生涯をとじたが、甘粕も終戰の日に滿洲で青酸カリ自殺をとげた。
辻潤の最期は、常識的には悲慘の極であろうが、その思想を、信念を、とことんまで行動で貫いた生き方は、むしろ崇高ともいえるあっぱれのものだった。その死場所の上落合からすぐそばの下落合の丘の上には、すでに巨萬の富を作った林芙美子の豪奢な邸宅が、なにか因縁めいてそびえていた。
そのころ武林無想庵も、フランス以來の緑内障が惡化して兩眼失明し、やがて惡性の坐骨神經痛にとりつかれて寢たきりになってしまった、がその數年前、歌人の尾山篤二郎の義姉で、澁谷におでん屋をだしていた未亡人朝子と好きあって結婚し、その庇護のもとに十餘年生きつづけた。終戰後、朝日新聞に〈無想庵獨語〉を連載して好評だったが、かれが朝子の一人息子市川廣康の勸誘で日本共産黨に入黨したため、途中でチョン切られてしまった。その後は朝子夫人の口述筆記でくむさうあん物語〉に專念したのであるが、昭和三十七年三月二十七日、待ちかねたその第二十一册の出版を聞くとまもなく、苦悶もなく絶命した。前日死去した室生犀星の葬儀が青山齋場で盛大に執行された二十八日の同時刻、無想庵の告別式が上石神井の自宅でさびしくいとなまれた。親族關係の弔問者もほとんどなかったが、ちょうど帝國ホテルに滯在中の先妻文子から、娘イヴォンヌ名義の香奠が靈前におくられた。
かつて辻潤が「私は昔から無想庵が好きだった。なぜなら彼のもつ思想やスタイルが今の日本人中で一ばん私に似ているからだ」と書いているとおり、この二人には共通しているものが多分にあったが、特に文體においてそれがいちじるしい。辻潤は翻譯は別として、徹頭徹尾ザックバランにくだけたエッセイ一本槍だった。フランスの大作家ジイドは、松尾邦之助の譯した辻のエッセイを讀んで、日本にもこんなエッセイを書ける人がいたのかと感心したそうだが、エッセイという文學ジャンルを高く認めなかった日本の文壇では、辻潤は全く繼っ子だった。
無想庵も自分の作を小説として發表してはいるが、つくりものの小説が大きらいだったかれは、詩でもない小説でもない戲曲でもない、また哲學でもない、いわば“生命の書”“生活の書”をこそ書きたいと念じていた。だからそれは小説らしい小説にまで料理されていないナマ肉か半煮え肉で ワクにはまった日本の正系文壇のお口にはあわなかった。結局、二人とも異端、外道、アウトサイダーとして文壇から冷遇され、悲壯な末路に終ったのである。
だが、昭和二十九年、辻潤を愛するアナーキスト松尾邦之助の提唱で、秋田雨雀、佐藤春夫、高村光太郎、神近市子その他多くの異色人が發起人になって、〈辻潤集〉二卷の豪華本が刊行された。辻潤の“絶望”が現代の不條理や絶望を遠く預言しているだけに、若い讀者も相當あるらしく、岡本潤の話によると、新宿のあるバーの若い女給さんも熱烈なファンだという。
私はふと、「我は偉大たる落伍者となって、いつの日にか歴史の中によみがえるであろう」と氣負った少年坂口安吾の言葉を思いだした。
偉大なる落伍者! そこに眞の異端者の宿命がある。
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