食べれなかった餃子の味。

食べることへの執着が強すぎて、うんざりすることがある。
妥協が、、できないのだ。

1日3食、限られたなかで「これでいいや!」は絶対にしない。1食を大事にするあまりに、時々大変なことになる。
「あれが食べたい!」と思えば、スーパーに材料を買いに小走りし、黙々とつくりだす。それが早朝であれ、深夜であれ、食べたいと思ってしまったら頭から離れなくなるので衝動的につくり出す。時には自分が納得できる味になるまで、何度もやり直すこともある。

外食のときだって厄介だ。目的のお店が開いてない!となると、目当てのお店にたどり着くまでに、脳をフル回転させて思い起こしたり調べたりする。どんなに歩いてクタクタになっても、ふらりと近くのお店に「なんとなく」入ったりはしない。

面倒な性格だなぁ..と度々思う。
ただ、1食をミスってしまったときのダメージの大きさを考えると賢明な生き方なのだ、と思うようにしている。

そんな私が唯一、後悔しているのがおばあちゃんがつくる餃子の味だった。
私はおばあちゃん子で、小さい頃からおばあちゃんの手料理を食べて育ってきた。その中でも餃子が大好きで、おばあちゃんはよく、背中を丸めて餃子を丁寧に包んでいたのを今でも覚えている。晩年はボケてしまって色んなレシピを忘れていた。そんな中、餃子だけは覚えていたようで、ほぼ毎晩餃子のときがあった。家族は「また餃子かよ!」とよく言っていたけれど私は飽きずにおいしく食べていた。

おばあちゃんのつくる餃子は、具がぎっしり。キャベツもニラも大きめに切られていてお肉もみっちり。焼き具合はカリッぬるっとの間のちょうどいい感じで、口に入れると野菜の食感が残るいい感じの焼き具合だった。

私は気が向いたらたまに包むのを手伝っていたけれど、おばあちゃんからレシピをちゃんと聞いたことはなかった。
最後、おばあちゃんが病院のベッドにいるとき、やっぱりそのことだけは気になったので、もう喋れなくなってしまったおばあちゃんにダメもとで「餃子のつくり方教えてよ!」と言ってみた。そうしたらおばあちゃんは目をまんまるくしながら布団をぎゅっと握って、餃子の包み方を教えてくれた。「ひだをね、こうやってつくるのよ」と言わんばかりに布団を引っ張り出してテキパキと包むやり方を教えてくれた。私も一緒に布団を引っ張り出してやってみた。あぁ、こんな包み方をしていたんだ、とそのとき思いながら、何だかやるせない気持ちになった。

おばあちゃんが息を引き取った後で、揉めたことがある。
それは遺産のことで、言った・言わないで一時期大変なことになってしまった。
どこの家庭にもよくあることなのだろうけれど、こんなにちっぽけなことが、こんなにも人の性格を変えてしまうのかってくらいのドラマチックな修羅場を見た。

そのとき学んだのは、「家族だから分かるだろう」はないということ。人生は長いようで、短い。ふんわりしているとそのまま逝ってしまう。本人はさておき、残された私たちは超能力者でもない限り、その "ふんわり" を掴み取ることは困難だ。単独なら自己解釈でいけるかもしれないけれど、それが何人もの人が関わることとなると、やっぱりふんわりでは難しすぎる。

これはおばあちゃんが悪いとか、そういうことではなくて、多少強制的にでも話す機会を持てなかったことがやっぱり問題だったと思う。

ただ、『人生会議』と言っても..
どうやってきっかけを作ればいいの?
元気なうちに話しよう、と言っても..
本人にその気がなかったら逆にことを荒立ててしまうのでは?

そう考える人はきっと多い。

今回、この「#わたしたちの人生会議」というテーマで書くにあたり、もう一度この難しさについて考えてみた。普段の生活の中で、家族間でさりげなく聞いたり話したり、コミュニケーションを取ったらいいのだろうけれど、私は一人暮らしで地方住まいだから、家族と離れて暮らしている。そんな中でどうしたらいいのだろうと悩んでしまった。

色々考えたすえに結論としてたどり着いたのが、やっぱり自分から自主的に話す機会を持ったほうがいいということだった。おばあちゃんの一件があって、私は両親と兄弟で集まって話をしたことがある。テーマは、「お父さんが死んだら、どうしようか。」主に遺産のことで、私たち兄弟間では絶対に揉めたくないから、その意思を確認しあった。正直、みんなにとってはまだまだ現実味がなくて、最後はふざけ合いながら終わってしまったけれど、あのときあの席でみんなと共有できたこと、それだけで私たち家族にとっては大きな一歩だったと思う。

今はコロナのこともあり、ますますいつ何が起こるか分からない状況だ。最後、会えなくなるまま終わってしまうこともあるかもしれない。
だからこそ、家族と連絡を取る一つひとつの中で、"ふんわり"をできるだけなくしていきたいなと思う。確信的なことでなくても、知りたいことはどんどん聞いておきたいし、伝えておきたい。だって、また餃子のように後悔したくないのだから。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?