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外大生のためのレポート超入門
はみ出して、いいんだよ。(挨拶)
ご無沙汰しております。初めましての人は初めまして。
神戸市外大ツイ廃同好会(非公認)と申します。
さて、忌々しい試験期間も終わりを迎え、大学生の本分と言っても過言ではない長期休暇、即ち「夏休み」が到来しようとしております。弊学の皆様におかれましてはいかがお過ごしでしょうか。
私はツイ廃なので最近はツイッターを眺めてばかりなのですが、ここのところ皆さんの「レポートなんてナニ書けばいいか分かんない!」という号哭ばかりが目に入ります。なんとも嘆かわしい。そこで本稿では、私見ではありますがレポートを書くコツや押さえておくべきポイント、書きやすいネタなんかをつらつらと書き記そうと思います。これらが弊学の皆さんにとって有益なモノとなれば、私は何より嬉しいです。※この記事は学部一年生に向けて書かれています。そこにだけ留意しておいてください。
御託を並べるのもこの辺りにして、早速本題に入りましょう。必要なポイントだけを飛ばしながら読んでもらったって構いません。なんたって弊学にはマトモに文章も読めない馬鹿が多いですからね。
(追記)
本稿は昨年に投稿した「持論:レポートについて」を、私が新たに編集し直したものです。記事のコンセプトは以前のものと変わりませんが、内容には(大きく)手を加えてありますから、既にお読みになったことのある人でも楽しめるようになっています。また、いくつかの用語には参照すべきwebページへのリンク(ほとんどwikipediaですが)を埋め込んでおきましたから、安心してゆっくりと読み進めてください。
1. レポートとは
まずは議論を進める上で、この項でレポートとは何なのかを簡潔に定義しておきましょう。あくまで本稿における私の定義ですから、誤解のないようお願いします。
ズバリ、いわゆるレポートとは「学術的に何かしらの主張を行う形式的な文書」のことです。要点をまとめましょう。①「学術的に」②「何かしらの主張を行う」③「形式的な文書」です。何やら難しそうですねが、心配しないでください。順を追って説明します。「ンなもん知ったこっちゃない!」と突っぱねる画面の前のそこのお前、それは学術的な主張ですか?
1.1 「学術的に」
あるレポートがレポートとして扱われるために、そのレポートに一番要求されることは何だと思いますか?
それは議論が学術的か否かということです。これは学術的でないレポートはレポートとして扱ってもらえない、そして良い評価を受けるハズもないということを意味します。学術的であるということはいくつかの方向で定義できるのですが、本稿では分かりやすい客観性の観点から眺めてみましょう。
少しだけ歴史の話をさせてください。今日の社会において学問とか学術研究とか呼ばれる活動は、かつては全て「哲学(Philosophy)」と呼ばれていました。英語では一般に(学術)博士号のことをPh.Dと言うのですが、これはDoctor of Philosophy(ラテン語でPhilosophiae Doctor)の略称です。少なくともこの語が生まれた古代ギリシャにおいては、学問とはまさしく「知(Sophíā)を愛する(Phílos)」活動であって、そこに本質的な違いはあり得なかったというわけです。その活動において、本質的に求められたのは理由でした。もっと分かりやすく言うと意味です。
例えば「なぜ火が燃えるのだろう」とか「なぜわれわれは喉が渇くのだろう」とか、現代を生きるわれわれにとっては全くどうでもいいことかもしれませんが、そういう自分には分からないしどうしようもないことに理由を見出す活動こそがかつての哲学(学問)でした。敢えて言うなら「意味づけ」でしょうか。それまで意味が無かったもの、それでもわれわれの生活に根差しているものに意味を与えて理解をしようとしたのです(暇)。それが「万物は流転する」とか「万物は水である」とか、巡りに巡って「無知の知」に至ったりするわけですが、この態度は今日の学問一般においても受け継がれていると言えるでしょう。それはかの時代と比較すれば途方もなく高度なものかもしれませんが、「なぜ」を問う姿勢は、「自分の外に立って」理由を見出そうとする態度は不変であると言えます。即ち、学問とは客観によって成立するのです。
もちろん、これは学問の基本的な態度の話であって、それを満たせば学術的に正しいというわけではありません。それこそ古代の神話や哲学、宗教などは学術的に誤った内容を多分に含んでいます。しかし、肝要なのはそれが彼らの(真剣な)意味づけの結果として得られたものだということであって、そこにはもちろん議論の余地がありますし、彼ら(或いはわれわれ)の意味づけ(認知)の傾向を探ることで以外な事実が得られるかもしれません。それもまた、学術的な議論として認められることでしょう。
また、自分(の主体)をこの学術的な分析にかけることも出来ます。例えばあるマンガを読んで、あらすじをまとめてその感想をつらつらと綴っただけではただの作文ですが、これに「なぜ」を見出すことが出来れば、それは学術的な議論になり得るかもしれません。もう少し具体的な例を考えるとすれば、例えばあるマンガ(ドラマや音楽でも結構です)を読んで、なぜだか分からないけど不快に思った場合に敢えてこれに踏み込んでみるといったこと。その結果得られるのが幼少期の外傷体験(トラウマ)やコンプレックスが影響しているとかいうことかもしれませんが、そこから更に「幼児期の外傷体験がどのように自我に影響するのか」という理由や原因を探っていけたなら、それは段々とあなた個人から離れて(客観性を持って)心理学や精神分析の応用になるかもしれません。これはあくまで例ですが、このように客観的な分析を始めることが学問という活動のきっかけになるということは歴史が示してきたことですし、それが学問に必要であることもお分かりいただけるかと思います。
さて、「如何にして客観性が認められるのか」というのはなかなか難しい問題です。例えば古代の哲学者たちは、彼らなりに真剣に考えた上であれこれ言ったワケですが、現代のわれわれからすれば正しくないことも多いですよね。ここで肝要になるのが一般性です。或いは普遍性と呼んでも構いません。即ち、「それがいつでもどこでも当てはまるか」ということです。
「自分の外に立つ」ためには、即ち客観的であるためには、それがいつでもどこでも誰にとっても同様に観測される必要があります。もちろん、先に挙げた例のように取り扱う内容が主観的な要素を多分に含む場合もありますが、学術的に取り扱う場合には、少なくともその手続き(論理)は客観的に妥当でなければならないのです。ともすれば、一般性が重要になってくることもお分かりいただけるかと思います。つまり、誰でもアクセス可能で信頼できるデータに基づいた議論が行われているか(信頼性)、誰が見ても論理的に妥当であると言える手続きで議論が進められているか(妥当性)、議論が矛盾や誤謬を含んではいないか、こういった基準をクリアすることで誰にとっても行われているその議論が了解可能、実証可能なものとなり、故にあなたは「自分の外に立って」、そして了解し難いものに意味を与えることが可能になるのです。
もっとも、この探究には様々な方法があります。例えばデータ(サンプル)を蒐集して、そこから帰納的(inductive)に何かしらの法則や構造を見出す方法がありますし、逆にある事物に対して、ある理論を演繹的(deductive)に敷衍して解釈する方法もあります。或いはそんな共時的(synchronic)な分析が、通時的(diachronic)な分析によって批判されることもあるかもしれません。かつてソシュールもそうしたように、学問とはかくして行われるものなのです。そして、もし学問という活動がここまでに述べてきたようなものなのだとしたら、剽窃(Plagiarisim)が学問において如何に大変な行為であるかが分かるかと思います。別の項でも触れますが、剽窃は学問の厳格な手続きを、これまでに紡がれてきた歴史と築かれてきた信頼関係とを蔑ろにする行為なのです。
1.2 「何かしらの主張を行う」
前項ではレポートがレポートとして扱われるためには学術的でなければならないと述べましたが、レポートがレポートとして行うことについて言えば、それは単に主張であると言うことが出来るかもしれません。
これはそれほど難しい話ではなくて、というのも、学術的に何かを記述するということが即ち何かしらの主張であるとも言えますし、そもそも主張を抜きにしてレポートはあり得ないからです。前項の議論を参照しても、学問という活動が何かしらの主張を軸にして行われてきたということは判明であると言えるでしょう。意味づけ(合理化)というものは得てして恣意的ですから、それが主張の域を出ることはないと言っても過言ではないのかもしれません。或いは論理(学)的に、ある命題Aと非Aとの関係を考えてみてもいいでしょう。よく言われるような事実の寄せ集めや感想はレポートではないということはそういうことで、ですからレポートには何かしらの主張がないといけないのです。もっとも、実験のレポートなんかではデータをたくさん集めてまとめてレポートにするというようなことも起こり得るかもしれませんが、それはそもそも実験自体が何かしらの主張に用いられるということなのかもしれませんね。
何でもいいのですが、例えば英語における身体部位所有者上昇構文(Body-Part Possessor Ascension Construction)を扱うとして、その用例をたくさん集めてくるだけでは、レポートとしては褒められたものとはならないでしょう。それがどのような特徴を持つ構文なのか、どのようなコンテクストで用いられるのか、どのような前置詞が使用されるのか、何が前景化(Foregrounding)されているのかというようなこと。もっと言えば、なぜその用例を蒐集しようと思い至ったのかを、論理的に説明することが求められます。そうすれば、ある主張「XはYである」の中間項が得られますから、そこである論理的事態が発見される(かもしれない)のです。もちろん、ある構文の用例をたくさん集めることに価値が無いとは言いません。「用例がある(無い)」というのは結構重要なことですし、それを記録することにも大いに意味はあります。ただ、そこに全く理由(意味)が無いのだとしたら、それは単なる偶然の産物となりますし、われわれには把握できないものとなってしまいます。「論理では、なにひとつ偶然なものはない」のですから。もっとも、身体部位(略)の例に限らず、「講義中に教員が紹介していたからとりあえずレポートのネタにしてみようと思った」とかいうこともあるでしょうし、これは私見ですが、いわゆる「事実の寄せ集め」系レポートが散見される理由はそんなところだと思います。それでも、そこに理由(意味)が無いはずもない。もし仮にあなた自身が意味を見出せなくても、教員が紹介するのならそこには間違いなく理由があるのですから、それを頑張って探ってみてください。
1.3 「形式的な文書」
前提として、レポートはある形式に則った文書でなければなりません。それはもちろん「学術的である」ということでもありますし、「何かしらの主張をする」ということでもありますが、同時に「レポートという文書」でなければならないのです。
それは例えば信頼性を担保したものであること、剽窃や誤謬を含まないものであること、当たり前ですがきちんと提出されること、感想文や事実の寄せ集めではないということ。そういった「形式」に則っているのがレポートという文書です。「出さない神レポより出すゴミレポ」というのを誰かが言ったような気もしますが、ともかくレポートはきちんとレポートでないと採点すらされず、あなたの単位はどこかへ消え去ってしまうかもしれません。もっとも、学部生の期末レポート課題程度のものにそんなにレベルの高いことを期待する教員もイジワルだとは思いますが、それでもあなたはそういう世界に片足を突っ込んでいるのですから、レポートの形式をきちんと理解した上で、きちんと作り上げるように心がけましょう。引用なんかの煩雑な手続きに関しては後述しますから、そちらも是非参照してくださいね。
2. レポートをこなす手順
本項ではレポートに取り掛かる際の手順を考えてみようと思います。もし分かりにくい記述があれば、適宜前項を参照して頂けると多少は理解しやすくなると思います。何かと不便でしょうが、どうかご容赦ください。
2.1 主張を据える
先にも述べましたが、レポートでは主張を行わなくてはなりませんから、何よりも先にまずは根幹となる主張を据える必要があります。実はここが一番難しい。というのも、レポートに取りかかる際には、少なくともその時点で何かしらの仮説が出来上がっていないといけませんから、でなければ証明も反証も、データの蒐集も出来たもんではないでしょう。
軸となる主張さえ決まってしまえば、あとは論拠を見つけ、必要に応じてサンプルを集めて書きあげてしまうだけですから、レポートで手が止まってしまう場合にはこの主張が揺らいでいる可能性が高いと言えるでしょう。もちろんサンプルの集め方が分からないとか、想定していた結果が得られないとか、そういった問題も起こり得るかもしれませんが、それらは往々にしてレポートの議論に還元することの出来るものです。しかしながら、ここには慣れや経験の不足という要因もあり得るでしょうから、課題や教員によっては問いやレポートの方向性をあらかじめ設定しているものや、その選択肢をいくつか用意しているものもあります。もっとも、学生にあれこれ自由に書かれてしまうと評価が難しいというのもあるのかもしれませんが……
2.2 論拠を用意する
レポートとは学術性を担保したものでなければなりませんから、ある主張を行う際には適当な論拠が必要となります。これはその論理が、客観性をわれわれに提示してくれるものとなるからです。とは言うものの、実際に何をどう論拠にしたらいいのか、どういった論拠が論拠として適切なものなのかということは、なかなか判断が難しいものであると思います。そんな時には「学術的であること」がどういったことなのかを、もう一度振り返って思い出してみましょう。
例えば、一般にいわゆる学術誌や学会誌に掲載されるような(査読付き)論文は、非常に厳しい手続きを経た上で公開されていますから、信頼性が極めて高いものであり、かつレポートで自身の論拠とするのに適したものであると言えます。また、実験における観測の結果や統計、いわゆるデータを用いることも出来ますが、これはその実験の信頼性と妥当性が十分に高いことを示す必要があると言えます。文学や歴史などの研究においては一次資料を用いることもあります。この場合にも、いわゆるデータを用いる場合と同様にその資料が議論において占める位置を示す必要があると言えます。というのも、これらの論拠は決してあなたに代わって何かを主張するものではないからです。必ず、その論拠とあなたの主張の論理的な繋がりを示してやらなければなりません。それが上でも述べたように。「学術的であること」なのだと私は考えます。もちろん、ここに示したのはあくまで典型的な例ですから、きっとこれらに限らない形式の論拠もあり得るのでしょう。とは言えそれらをあなたの議論に用いる際には、その繋がりを示すように心がけましょう。
2.3 仕上げる
この「仕上げる」という文言だけを見るとなんだか投げやりなように思われるかもしれませんが、レポートとして仕上げることは大切なことなのです。主張と論拠とを用意できたとて、レポートの形式にしなければ何の意味もありませんから(実際には良い題が思いつかなかっただけなのですが!)。とは言うものの、仕上げること自体はそこまで大変なことではありませんし、レポートの体裁については別の項で詳しく触れるつもりですから、ここでは流しておくことにします。
ただし、この「仕上げる」という行為は何も形式的なことのみを意味するのではありません(論理はある形式ではある)。議論は適切に行われたか、論理にねじれは見当たらないか、虚偽や誤謬は含まれていないか……そういったことを今一度問い直すことでもあるのです。実際に私も、レポートを読み返す工程で項の位置を入れ替えたりある記述を削除したり、そもそもの議論が気に入らなくなって白紙にしてしまったこともあります(これはオススメしません)。「クリティカル・シンキング」という言葉で知られているかもしれませんが、議論に批判を投げかけることが、学問という活動一般においても非常に重要であるということは皆さんの知るところであると思います。
例えば、Aという事柄に関連して「AはBである」という想定して調査をした結果、「AはBではない」という全く違った事実が得られることもあるでしょう。だからといって、その事実があなたの議論には何の意味も無いということを示すとは限りません。それは確実にあなたを別の事実に導いていますし、それが「AはBではない」であれ「AはCである」であれ、あなたが学術的にその議論を経験したのであればそれは価値のある検証だったと言うことも出来ます。クリティカル・シンキングとは、得てしてこういうものであるのかもしれません。
3. レポートの体裁
本項ではレポートの体裁、その機微に触れていこうと思います。まあ、細かいところは教員や課題によって色々と規定がある場合がありますから、その辺は臨機応変に。ここでは(独断と偏見で)一般的に満たしておくことが望ましいとされる形式をお伝えしておこうと思います。レポートの体裁を守らなきゃならないなんて煩雑なだけだと思われる方もいらっしゃるのでしょうが、レポートに記載されている情報へのアクセスのしやすさ等を考えれば、これらの形式には少なからず意味があることを理解して頂けるのではないかと思います。
多くの場合、Wordというソフトを用いてレポートを書くことになると思います(いきなりLaTeXを使ったりはしないでしょう)。Wordで新規の文書を開いたら忘れないうちにファイル名を付けてしまいましょう。指示が無ければ「[学籍番号]_[課題名 or 科目名]」か、或いは「 [学籍番号] _ [氏名] _ [課題名] 」というのが無難だと思います。末尾に「[科目名]レポート課題」という名前を付けるのも良いですね。つまり、誰の何の課題かが分かるようなファイル名が望ましいと言えます。もちろん、個別に指示があればそれに従うのが良いでしょう。また、提出の際にファイル形式を指定される場合があると思います。指示が無ければWordファイルでもpdfでも大丈夫でしょうが、pdfは場合によっては文字化け(garbling)する場合があります。pdfのほうが(私にとって)アクセシビリティは高いのですが、Wordファイルでの提出が求められることの方が多いでしょう。まれに紙に印刷したものを求める教員もいますから、注意をば。ファイル名のアンダーバー( _ )はスペースで構いません。私は手癖でアンダーバー(underscore)を打ってしまうのですが……
Wordであれば日本語のフォントは「MS 明朝」、英数字のフォントは「Times New Roman」や「Arial」、「Century」辺りがスタンダードになると思います。理由は色々ありますが、とにかくこれらで書かれているものが多いです。日本語フォントに関しては、少なくとも明朝体であればそれ以上のことは問われないと思うので、予め何かしら見繕っておくことをオススメします(見出し等でゴシック体にするケースもあります)。本文のフォントサイズは恐らく標準であろう10.5ptか11ptで、見出し等は多少大きくしても構いませんが、しなくても大丈夫です。フォントの色は黒が望ましいでしょう(カラフルなのもカワイイんですが)。余白や行間の設定は標準設定のままで問題ないでしょうが、細かく指示がある場合もありますので注意しましょう。特に英語で書く場合にはインデント(段落の頭の余白)やダブルスペース(一行開けて文章を書くこと)にうるさい教員がたまにいますから、指示はちゃんと聞いておきましょうね。作業中はこまめな水分補給と上書き保存(Ctrl+S)とを忘れずに!
3.1 レポートの表題
卒論やそれに関するレポート課題を除いて、多くの場合レポートに表紙は必要ないと思います。指示があれば作成しても良いでしょうが、ここでは扱いません。悪しからず。
まずは誰のレポートか分かりやすくするべく、①氏名 ②学籍番号 ③クラスや講義名 ④その他必要事項 を一番上に置きましょう。一行か二行程度にまとめて、右揃え(Ctrl+R)にしておくといいかもしれません。次の行にタイトルを置きます、ここは一行空けても構いません。タイトルは中央揃え(Ctrl+E)で分かりやすく。フォントサイズを14ptか16pt程度にしたり、太字(Ctrl+B)にしたりしても良いかもしれません。表題においては、副題を全角ダッシュ( ― )で導いたり、コロン(:)などで主題を補ったりしても構わないのですが、私は簡潔で分かりやすいタイトルの方がオシャレで強そうだと思います(?)。というのも、タイトルは一目見て本文の内容が伝わるようなものが望ましいからです。ただでさえ教員は沢山のレポートを読まなくてはならないのですから……とりあえず、ここまでの作成例を示してみましょう。これはあくまで例ですが。
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3.2 レポートの構成
表題が済んだら次は導入部に入ります。まずは要旨、「はじめに」とか「序論」とか、即ちレポートの問いや主張、調査の手法等を示す場を設けます。これは学術的であるために必要な手続きであり、即ちそのレポートがどのような背景(理由)があって書かれるに至ったのか、それを示してやる必要があるのです。要旨は全体に対して一割ぐらいの文字数でまとめるのが良いというのを聞いたことがありますが、もちろんこれはただの目安ですから、文字数が多かろうが少なかろうが、とにかく要旨として適切に機能しているかを吟味しましょう。Google Scholorや弊学の学術情報リポジトリから適当な論文を参照して、お手本にするのも良いでしょう。もちろん、論文なら何でも良いというわけではありませんが……弊学生には言語学や文学、それに関連する分野の論文を眺めてみることをオススメします。
導入部で方向性を示せたら、次は本文に移ります。導入部では必要に応じて「はじめに」や「要旨」といったタイトルを付けて章を設けることをオススメしましたが、ここでもコンテンツに応じて章(とタイトル)を設けて、それぞれの章の冒頭にその章の概要を示す文言を添えてあげると読みやすくキレイにまとまりますし、議論の流れも捉えやすくなりますからオススメです。例えば「1. クジラ構文の例とその謎」「2. クジラ構文の基本的な意味」「3. 差分スロット」……といった調子で、章ごとに番号を振ってやるのも良いでしょう。ちなみに、これらのタイトルはこちらの論考から拝借したものです。いわゆる学術誌に掲載されるような論文とは異なる形式のものですが、非常に読みやすく、かつ面白いものだと思います。一応この下にもリンクを貼っておきますから、外大生の皆さんは目を通してみてくださいね。
さて、本文で議論を終えたら結論を書きましょう。ここでも「まとめ」や「終わりに」という風に章を設けたら、あとはそれまでの章で述べたことを振り返って要約し、加えて今後の課題や展望、与えられた問いへの解や仮説が正しいことの証明が得られたのか(否か)といったことを綴れば良い結論となるでしょう。教員によってはここで文字数を示すことを求めることもありますから、その場合には注意を忘れずに。あとは参考文献リストを置く必要があるのですが、詳細は引用に関する項で改めて扱うことにします。
4. 引用について
本項ではレポートに欠かせない「引用」について鳥瞰しようと思います。一口に引用と言っても、実は結構色々なスタイルがありますし、教員によって学生に求めることは異なるでしょうから、一般的なことにだけ絞って軽く触れましょう。
前提として、学問において論拠をきちんと示さないことはその手続きを蔑ろにする行為であり、故に剽窃(Plagiarism)は厳しく罰せられる行為であるということは皆さんも理解しておられることだと思います。さて、引用には様々な決まりとスタイルがありますから、皆さん困惑していらっしゃるこでしょう。しかし、引用をする際に本質的に問われることそれ自体はそれ程多くありません。即ち「どこが引用なのか」「なぜ引用をしたのか」「どこから持ってきたものなのか」です。それぞれ見ていきましょう。
4.1 どこが引用なのか
これは当たり前のことですが、引用箇所がどこなのかが分からなければそれは引用であるとは言い難いでしょう。引用をする際にはその箇所を ①カギカッコ(「」)で挟む ②ブロックにする ③要約する のいずれかの方法でレポートに張り付けます。また、いずれも元の文章を改変してはいけません。下線を引きたいとか、補足や省略などを行いたい場合といった場合には原文を改変することはせず、下線を引いたり [中略] や [後略] などの記号を用いたりした上で、必要に応じて注釈や引用部の末尾でその旨を明記しましょう。例えば(下線は引用者による)といったことを付け加えてやれれば完璧です。また、いきなり引用されても何のことか分からずに混乱を招きますから、「今から引用するぞ or 引用した箇所の意味はこういうことだぞ」ということを本文中で明記するようにしましょう。これは一般的なことですが、固有の名詞や新しい概念などを導入する場合には、その説明をしてやる必要があります。それと似たようなことだと捉えて頂いても結構です。
引用にはいくつかの方法があるのですが、多くの場合、著者の名前や資料が公開された年、書籍の名前、ページ数などを本文中で明記した上で引用部を記載します。いくつかのスタイルがあるのですが、ここに列挙したような情報が記載されていれば大丈夫です。例を示してみましょう。
意味論におけるアフォーダンスの定義を、本多は「ある事物のアフォーダンスとは,その事物がある環境の中でそれぞれの知覚者に対して持つ意味である.」(本多 2006、p.56)としている。
意味論におけるアフォーダンスの定義を、本多(2006)は「ある事物のアフォーダンスとは,その事物がある環境の中でそれぞれの知覚者に対して持つ意味である.」(p.56)としている。
これらの例のようにして引用した文章をレポートの字の文の中に挿入することが出来ます。また、上のように本文中に文献の情報を示す代わりに、これらの情報(著者名、公開年、ページ数等)を脚注で示すことも出来ます。Wordでは「参考資料」のタブを開くと「脚注の挿入」という機能が使えるので、それを用いることで脚注を付けることが可能になります。もちろん、引用でなくとも補足情報などを脚注に示すことでレポートが読みやすくなる場合もありますから、適宜活用するようにしましょう。
また、ブロック引用という方法もあります。これは引用部が長い場合に引用部のみの段落を新たに設けるような方法のことです。左右にインデントを置き(二字分くらい)、前後を一行ずつ開けた上で引用部を導入します。ここではカギカッコで引用部を挟む必要はありません。また、長い引用部をそのまま導入せずに要約する方法もあります。本文の内容を換言した上で記載します。本文をそのまま引用するわけではないのでカギカッコは必要ありませんが、出典の明記は他と同様に必要ですから気を付けてくださいね。
総じて、少なくとも学生のレポートにおいては「ここが引用ですよ」と分かる状態であれば剽窃としては扱われませんから、これらの例を参考にしてそこだけは守ってください。あくまで例であることをお忘れなく。
4.2 なぜ引用したのか
上でも示しましたが、引用部を導入するにあたっての論理的な繋がり、これを引用部の前後で示す必要があります。自分の主張に援用する形で用いるのか、或いは批判するために引き合いに出すのか、他にも様々なパターンがあるのでしょうが、いずれにせよ、それが断片的であってはならないのです。
故に、上に示したような形式的な引用の表記を順守することに加えて、引用した文章ではどのようなことが言われていて、どのようなことを読み取ったのか、その上で自分の議論にどのようにして登場させるかをハッキリとさせてやりましょう。それが恐らく一番目に見えやすいレベルでの、学問的な手続きなのです。
4.3 どこから持ってきたものなのか
引用部にはどのようにしてアクセスするのか、どのような場所から引っ張ってきたものなのか、どんな立場の人が書いたものなのか……とにかく、データの信頼性と妥当性とを、その出所(もっと言うと住所)を示すことで明らかにしなければなりません。上で示したように、通常であればそれらの情報は本文中、或いは脚注などで示されるのですが、加えて「参考文献リスト」を著者の名前の五十音順、或いはアルファベット順でレポートの末尾に設ける必要があります。言語畑の人なら、例えば使用した辞書やコーパス、解析のツールなどを適宜示す必要もあります。これもスタイルが色々あるので説明しにくいのですが、一応フォーマットみたいなものはあるわけで、以下に例を示してみます。
書籍の場合:
[著者名]. [出版年]. [表題], [版や巻数等の情報], [出版社].
日本語の表題は二重カギ(『』)で。英語はイタリック(要は斜体)で。学術誌や論文の場合:
[著者名]. [出版年]. [表題], [掲載されている雑誌名], [雑誌の巻数や号数、ページ数], [出版社].
著者が複数いる場合はコンマ(,)や「et al.」を。表題はカギ(「」)かイタリックで。Webページ等インターネット上の資料の場合:
[著者名]. [公開日 or 更新日]. [ページ名], [サイト名], [URL], [アクセスした日]
上の「インターネット上の資料の場合」の例においてですが、教員によってはこれをレポートに持ってくることを禁止する人が居たり、或いは制限をする人がいたりします。これには「それが一次資料であるか判断しにくい(容易にコピペが可能)」という理由や「信頼性が保証できない」という理由が考えられますが、いずれにせよ、インターネット上の情報の取扱いに注意が必要であることは間違いありません。ですから、インターネット上の資料等を引用、或いは参照する場合にはURLと公開日の他、それが信頼できる資料だと判断できる根拠か、或いはそれを用いることの妥当性を示せる根拠を示せると良いでしょう。例えば、その著者がどういう人でどんな組織に所属しているのか、といったことが分かると判断がしやすいかもしれませんね。
更に例として、以下に先程示した論考(リンクはこちら)の参考文献リストを示しておきます。ちなみに、列挙されている文献には有名なものもありますから、興味がある方には参照することを強くオススメします。特に『謎解きの英文法』シリーズは英語が好きな方には面白いのではないでしょうか。
![参考文献リストの作成例の画像](https://assets.st-note.com/img/1711080963027-TLcsW9WveY.png?width=1200)
これはあくまで例ですから、少なくとも学生の皆さんは上にあるような事柄を、即ち著者名と書籍や論文の表題、出版年、出版社、掲載されている雑誌名といった情報を落とさないようにさえすれば大丈夫です。そうすれば悪意のある剽窃だと捉えられることもないでしょう。しかしながら、確かにスタイルは確かに色々あるのですが、一つのレポートで異なるスタイルを用いるのは推奨されません。そこには気を付けておきましょう。参考程度に以下のサイトや、興味のある分野の論文なども参照してみてください。
5. テーマに悩んだら
レポートを書く作業において、恐らく一番大変になるのは主張を設定することです。「大変になる」などと言うと、なんだかとてもたいへんな労力を要するように聞こえるかもしれませんが、これは強ち間違いでもありません。というのも、ある主張において何をどのようにして扱うのかということは、(論理的に)適切に設定されたものでないと全く文字が書けなくなってしまいますし、場合によっては既にレッドオーシャンで、学生が何をやっても仕方がないというようなこともあり得るからです。ですから、主張以前のテーマ(主題)を設定する能力、これが備わっていないとレポートも何も始まりません。それはある主張「AはBである」のAやBという項のことでもありますし、それらを包括する場のことでもありますし、或いは方法論のことかもしれません。何であれ、ここではそのテーマのより良い設け方、そして書きやすいテーマに関してのあれこれを書こうと思います。もっとも、これには一介の外大生による独断と偏見とが含まれますから、これ以降の記事の信頼性はゼロに等しいと考えて頂いて構いません。くれぐれも真面目に受け取ることのないよう。
冒頭で論じた「レポートは学術的に何かを主張する場である」というのはつまり、レポートが学術的に何かを主張する場でなければならないということです。なんだかトートロジカルですが、実はこれを守ることの出来ていないレポートというのも結構あります。実際に私もそのようなものを目にする機会が過去にあったのですが、あれは何とも筆舌に尽くし難い気持ちに……
この場合によく言われるのが「事実の寄せ集めだ」ということか、或いは単なる感想に過ぎないということです。これは「○○ということに関して分からないことがあったので書籍や論文を読んで調べてみました。するとこんな結果が得られました。(○○に関することを新たに学べて良かったです)」というものです。これは既存の研究に完全に依拠したものでありますし、「良かったです」というのはただの個人の感想ですから、これをレポートの(学術的な)主張であるとみなすことは出来ません(少なくとも私には難しいことのように思われます)。もちろん、既存の研究をなぞるのがダメだと言うつもりは毛頭ありません。サンプルは多いに越したことはありませんし、既存の研究を体系的にまとめることも、学問の世界においてはとても重要なことです。ここでの問題は、その行為に学術的な意味が認められるかということなのです。ですから、少なくとも「このレポートでは○○に関する既存の研究と方向性をまとめて、その意義を論じる。」なら幾分マシになるのではないかと思います(決して良いとは言えませんが)。
具体的な状況を考えてみましょう。例えば講義で教員が触れたからという理由で、「Aとは何か」というレポートの問いを立てるとします。そして調べるうちに、ある書籍で「AとはBである」という解を得られたとします。そこで「よし、○○という人が『AとはBである』と書いていたから、これを引用してAがナニモノなのかが分かりましたということをレポートに起こそう。これでようやく完成だ、今日は友達と飲みに行くぞ。」としてしまってはいけません。これではあなたが○○さんの研究を発見したというだけのことしか分からないからです。仮に「『AとはBである』ということを学べて良かったです。」というあなたの感想を残したとしても、客観的に何が良かったのかはよく分からないでしょう。そうではなくて、例えば「『AとはBである』というのは分かったけど、類似したケースのA'もBであると言えるのかな。色んな人の意見を比較しながら論じてみよう。」だとか、「この理論はCという分野にも応用できるんじゃないか。その妥当性はどうだろうか。」だとか、「この理論を実際にあるケースに当てはめて分析してみたよ。この分析の妥当性も論じてみよう。」だとか……これらはふと思い浮かんだだけの例に過ぎませんが、しかし、学問とは常にこういう活動なのではないかと私には思われるのです。
あなたのレポートが上の例で示したような「事実の寄せ集め」や感想文になるのを回避するためには、テーマを適切に設定することが肝要になります。というのも、適切に定められていないテーマは、例えば極端に広すぎるテーマや既に掘り下げられてしまって何も言うことのできないレベルにあるテーマ、或いは学問として追究するには「遠すぎる」テーマは、レポートに書かれたことを事実の寄せ集めか、或いはただの個人的な感想に変えてしまいかねないからです(これはつまり主張が損なわれるということです)。この「遠すぎる」というのは、例えば人類の深層心理に存在する、個人の経験を超越した普遍的領域のことや、自然言語がどのようにして誕生したのかということ、或いはごく個人的な経験に関すること。これらの論理的に「遠すぎる」問題たちは概して実証の難しい場所にあり、実際どうしようもないことが多いのです。もちろん、これはそれらのテーマが議論されるべきでないとか、全く無駄だとか、だからつまらないとかいうことを意味するものではありません。この問題にアプローチすることで見えてくることもあるでしょう。これはただ単に、少なくとも現在のわれわれにとってはそうだろうというだけのことで、そうでなくとも「語り得ぬものを語る」行為には少なからず意味があります。いずれにせよ、論理的に適切に設定されていないテーマでは言えることが多すぎて、或いは非常に限られていて良いレポートがとにかく書きづらいということが起こります。前者の場合、言えることを連ねることは「事実の寄せ集め」になってしまいますし、後者の場合は恣意的な解釈を多分に含むようになり、個人の感想になってしまいかねません。では、このようなレポートになってしまうのを避けるためには、どのようにしてテーマを設定すれば良いのでしょうか。
まず思いつくのが議論の対象を吟味することでしょう。これは私の手に負えないから扱わない、これは扱っても仕方がないだろうから扱わない、といった調子で分析対象の(論理的な)範囲を限定していけば、自ずと良いテーマが得られるはずです。しかしながら、この判断は専門的な知識の乏しいただの学生には難しいことでしょうし、この消極的なアプローチが様々な議論の可能性を殺してしまうこともあり得ます。そこで(この場合において)より適切なアプローチとして考えられるのが、議論の方法を吟味することです。これは、本稿で幾度となく登場している論理という語を用いて呼称しても良いでしょう(ということにします)。これは即ち、あるテーマ、問題に対してどのように分析を与えるかということを考え、それによって様々な可能性を検証することです。
例えば「英語の時制(tense)」というテーマを与えられた(或いは単に興味があった)としましょう。そこで皆さんが思いつくのは「英語には現在、過去、未来の三つの時制が存在する」ということでしょうが、ここからスタートしてしまうとなかなか書きにくいのではないのでしょうか。恐らく皆さんの多くは学校でこのように教えられたのではないかと思うのですが、例えばこれを批判的に検討してみるようなこと。実際、現在及び過去時制は述語動詞の活用によって示されますが、未来形に当たる活用は英語の動詞にはありませんから、その点でこの言説は誤っていると言えますし、したがって本来英語には過去時制(past tense)と現在時制(present tense)としかあり得ないのであって――実際に述語動詞の形態変化によって示せる情報は「過去か否か」なので(無標:unmarkedであり現在時以外も示せる)、より厳密には非過去時制(non-past tense)と呼ぶべきなのですが――形態的に未来時制という形式は認められないということになります。しかしながら、意味的な「時」としては、未来という概念はわれわれに深く根ざしたものでありますし、助動詞を用いた(迂言的)未来形というのは古くから存在していますから(詳しくはこちら)、この点で英語(の表現)には確実に未来時(時制ではないことに留意)が存在すると言えます。また、「未来時を示す助動詞+原型不定詞」を、ある種の活用のように結合したものであるとみなして、これを未来時制(形)であると言うことも可能ですし、英語(或いは広く外国語)教育という観点から見ても、このような体系であると仮定してしまう方が学習者にとって理解しやすいかもしれません(外国語学習における文法教育と併せて考えてみても良いでしょう)。とは言え、「助動詞+原型不定詞」において未来時を示すwillやshallは、形態的には現在時制であると言えますし(cf. would, should)、また、それらの助動詞の法的(modal)な側面が未だに残っているという点を考慮すると、この仮定は些か性急であると言わざるを得ないでしょう。ともすれば、未来「時」と未来時制は別物であると考えるべきで――しかしながら、これらの表現が未来時制として発展(収斂?)する可能性もあるわけで、例えばCoCAなどのコーパスでサンプルを蒐集するうちにそのような傾向を認めることが出来るようになる可能性も当然あるわけです。もっとも、英語における未来時の表現というのは総じて法(mood)や相(aspect)といった文法範疇(grammatical category)と関わってきますし、意味的な観点から論じることも可能なわけで(例えば歴史的現在:historical presentにおける現在形などのように)、その点で「これだ」というただ一つの解を与えることは難しいのですが……
とにかく、あるテーマにおいて、対象を分析する方法をあれこれ考えることで様々な結果(の可能性)を得ることが出来ますし、それに基づいて主張を組み立てることが可能になります。ただ、この方法だって何でもアリというわけではありません。レポートにおいては、議論は常に学術的でなければならないのです。ですから、(客観的な)論理の繋がりをキチンと見出すこと、これを批判という風に呼んでも構わないのですが、議論ではそれが必要になります。これを敢えてそれっぽく言うなれば、アナロジーという妄想と批判という現実性とを用いて、認識と解釈の(論理)空間を多次元的に広げていく姿勢が肝要だということです。これを身に付けることが出来たなら、少なくともレポート課題程度で困ることなどあり得ないと私は思います。そこで、以下ではその方法論としての精神分析、哲学、心理学、並びに現代思想を簡潔に紹介しようと思います。というのも、詳しくは後述しますがこれらの分野における理論は様々な分野で応用が可能であると言えるからです。
5.1 精神分析
精神分析は19世紀の後半にジークムント・フロイトによって創始された、人間心理に関する理論と治療技法の体系のことを指します。精神分析は無意識と抑圧とのテーゼから、臨床的には主に神経症(ここでは精神疾患と呼んでも構いません)の分析を行い、そして様々な理論を確立してきました。有名なもので言えばフロイトのエディプス・コンプレックスや自我理論、ユングの集合的無意識、クラインの対象関係論、そしてラカン(彼は現代思想の項でも登場します)の鏡像段階や三界(シェーマRSI)などでしょうか。有名な『嫌われる勇気』という書籍で扱われているアドラーも、元は精神分析派の人間です(読んだことないんですが)。
紹介を進める前にひとつだけ覚えておいて頂きたいのですが、精神分析を知る人の中には精神分析の事を、衒学的なだけで実証性に乏しい空論であり、人間の心理的な活動を何でもかんでも性欲に結びつけるだけの哲学だと、或いはディレッタントが愛好するだけの胡散臭い心理学モドキだと捉えている人が少なからずいます。これは必ずしも正しくありません。精神分析は元々臨床に始まった理論ですし、精神分析における様々な理論は、具体的なケースに当てはまることを必ずしも保証されたものではありません。そこには常に例外があり得ますし、精神分析はそれらを取り込んで発展してきました。そして何より、分析家(治療者)達は至って真面目です。われわれは時に彼らの独特の言葉遣いによって惑わされることもありますが、意味するところのものをキチンと捉えなければなりません。そしてこれは、われわれ自身の言語活動にも言えることです。
精神分析の基本である無意識のテーゼは、これは即ち「人間には自我(意識)とは別にわれわれの認識できない心的領域(無意識)がある」という理論ですが、これは現代においては心理学においても一般的なものでありますし、われわれは日常的に「無意識的に~」という言葉を使用するのではないかと思います。しかし、精神分析で言う無意識と呼ばれるものは、普段われわれが「無意識」という言葉に抱いている印象(意味)とは大きく違うと言えるでしょう。精神分析におけるそれは生理的(身体的)な欲求の源泉であり、これは精神分析においては「性欲」と呼ばれるのですが、そしてそれらは自我(意識)と超自我によって、表出しないよう抑圧を受けているとされます。というのも、これらの欲求は社会的に(現実的に)望ましくないとされる欲求であることが多い、或いは親によってそう教えられることが多いからです。また、性的欲求だけでなく外傷体験(トラウマ)なども抑圧並びに他の防衛機制の対象となることもあるのですが、「自我(意識)を脅かすものが抑圧によって深層領域に押しやられる」という意味で、無意識というのは自我に対して非常に大きな意味を持つと言えるでしょう。そして、抑圧を受けた欲求は意識への浮上を何度も試みるとされます。というのも、抑圧されるものは自我にとって望ましくないとはいえ、大きな意味を持つことに間違いないからです。これは例えば失錯行為(言い間違いや読み間違い)などの「妥協した形」で現れることもありますが、時には神経症として現れることもあります。この意味で、無意識はわれわれが思うよりも動的で、そしてわれわれの様々な意識的行為に干渉していると言えます。これは逆に言えば、われわれはわれわれの思っているより無意識の影響を、即ち性欲の影響を受けているということです。
個別の理論にこれ以上踏み込むことはここではしませんが、彼らの理論を応用すれば、その形式においてわれわれの意識的行動に潜む無意識的なものの意志を読み取ることが可能になります。その分析は、例えば彼らが自由連想法を用いたようにして言語事象に与えることが可能ですし、ともすれば文学や戯曲、社会的運動や思想にも与えられるでしょう。これは彼らが夢の分析を行ったようにして行われるかもしれません。そして何より、精神分析の「性」に対するラディカルな態度は現代社会でこそ活きると、私は考えます。
しかしながら、精神分析は実証的な観点から大きな批判を受けています。ここまで議論したことに鑑みれば、信頼性と妥当性に乏しいとされることが多いと言えますし、例えば上で示したエディプス・コンプレックス理論などは、フロイト自身の家庭環境もその確立に影響を与えています。また、物語化の側面が強いということも言えるでしょう。無意識という混然一体としたカオスに、そうでなくとも本来であれば個人が認識することの出来ない領域であるというのに、そこに様々な因果を帰着させてしまうのは分析として性急である可能性が高いと言えます。もっとも、(精神分析の)分析に終わりはありませんし、臨床的には精神医学のようにある精神疾患からの「治療」を目的としたものでもありませんから、ここはよく吟味する必要があるのですが……というのも、臨床としての精神分析というのは、複雑怪奇な人間の精神構造を読み解いていく作業であると言えるからです。ですから、あくまで精神分析を、新しい視点と可能性とを提供してくれるものであると割り切って付き合うのも正しいと言えるでしょう。
精神分析に興味のある人には、入門書としては河合隼雄『無意識の構造』や中山元『フロイト入門』などが評価の高いものとしてオススメなのですが、フロイトの講義録である『精神分析入門』や『夢分析』、『自我とエス』、『喪とメランコリー』(これは弊学図書館にある光文社『人はなぜ戦争をするのか』という書籍にも収録されています)などに挑戦してみるのも良いかもしれません。また、片岡一竹『ゼロから始めるジャック・ラカン』にはラカン派だけでなく精神分析一般に関する言及もありますから、これもオススメです。
5.2 哲学
このような表現で評してしまうのも恐れ多いのですが、冒頭での議論に鑑みるように、哲学とは古来より行われてきた、ある真理を探究する活動のことを指します。それは本稿の冒頭で議論したように、かつて哲学という語が学問そのものを指していたのと同様であるとも言えます。われわれがその真理を発見するに至るのか否かということは、少なくとも現時点のわれわれには「分からない」としか言えないのですが、その捉え方に関しては実に多くの哲学者達が長きに渡って様々な議論を行ってきました。それらの方法論はこれまで学問の様々な分野に影響を及ぼしてきましたし、そもそも哲学が学問一般であったことに鑑みれば、この応用は妥当であるように思われます。少しだけ、その手続きを概観してみましょう。
哲学というと、「人はなぜ生きるのか」という風に厭世的で小難しいことを言うことだと捉えている人や、有名な「我思う、ゆえに我あり」のように当たり前のことを大仰に言うだけの学問(の流行)だと捉えている人も多いことでしょう。それこそ宗教のようなものだと言う人もいるかもしれません。これらは強ち間違いでもないのですが、不変の真理を追究することは即ち「一般的なもの」を追い求めることですから、個々の事物から離れていくことは手続きとして妥当であると言えます。時代によっては、それがイデアであったり神であったり、「コギト」であったり「物自体」であったりしたわけですが、この意味で、哲学の議論そのものは真面目に行われてきたと言えます。もちろん、遡れば古い議論が誤謬を多分に含む場合もありますが、哲学は徹底的な批判によってこれを乗り越え、現代に至るまで受け継がれています。この営みは、例えるならヘーゲルの弁証法であり、そしてこれもまたデリダの脱構築に受け継がれています。この手続きが他の学問の分野に広まった例として、敢えて外大生向けに挙げるなら言語学における生成文法(特に普遍文法論)と認知言語学の系譜などは、まさにこの構造を持っている例であると言えるでしょう。特に普遍文法が「語り得ぬもの」であるとするなら、哲学における議論が学問一般における議論の方法論と対応することにも頷けるような気がします。
「哲学が行うことは真理の探究である」というのは恐らく間違っていないと思うのですが、その割には哲学者の主張することは実に多岐に渡るように思われます。古くは善とは何か、徳とは何か、もっと言うと幸福とは何かといったことも議論されましたし、信仰や救済について、理性について、認識について、もう少し後になると言語に関する議論も活発になりました。これでは真理の究明からだんだんと遠ざかっているような印象を受けるかもしれませんが、哲学的にはこれは大きな進歩なのです。つまり、古くは「真・善・美」が統一的なものであると考えられていた、即ち正しいこと(真)とは善いことであり美しいことであると信じられていたのが解体され、相対化され、絶対的なものへの認識の限界が問われるようになり、果てには絶対的なものそれ自体の絶対性が問われるようになりました。そして、そもそもわれわれにそういったことが語り得るのかということが問題になり……哲学という活動は、一見するとペダンティックで人を寄せ付けない、難解なだけで中身の乏しい学問だという風に思われるのかもしれませんが(実際そうだというのはさておき)、そのテクストが編まれた過程は先人の思考の過程そのものであり、その文脈に続いて編み込まれるテクストも、連綿と続く哲学の営みを絶やさんとする哲学者の挑戦であると言えるのです。絶え間ない批判とアナロジーの応酬の果てに真理を追究せんという姿勢こそ、学問という活動に欠かせないものなのです。
もう少し踏み込んで眺めてみましょう。外大生のために、哲学に言語論的転回をもたらしたルートヴィヒ・ウィトゲンシュタインを例に挙げて考えてみます。言語論的転回というのは、もしかするとコペルニクス的転回という言葉をご存知の方もおられるかもしれませんが、簡単に言えば「言語によって思考が影響を受ける」というテーゼの発見です。ソシュールの「差異」の主張もこれに近いのですが、これはつまり、言語が現実の世界を正しく写し取っているとは限らない、認識の対象(や方法)ではなく使用する言語について考えることで認識について論じることが出来るというものです。言語学を学ぶ人には「言語的相対論」、或いはサピア=ウォーフの仮説という名前のほうが親しみがあるかもしれません。ウィトゲンシュタインは主著である『論理哲学論考』でそれまでの形而上学、即ち人間の認識や経験を超越した先験的(ア・プリオリ)なものを取り扱い、超越論的な原理を解き明かそうとする学問にある解を突き付けました。それが『論考』における命題7、「語り得ぬものについては、沈黙するしかない」というものです。これは裏を返せば、「われわれの言語のシステムは、形而上的な事柄を記述するように出来ていない」というある種の諦観であると言えます(そして伝統哲学の問題は言語の使用の問題であるとも)。また、彼は『論考』で「私の言語の限界が私の世界の限界を意味する」とも述べていますが、この命題は言語によってなされる認識、つまり言語的相対論を見事に描いていると言えます。彼の『論考』は哲学にある種の真理を、これまで追い求められていた真理は描けないという諦観を与えるものであると言えるでしょう。これだけを眺めてみても、哲学の営みが如何なるものなのかが伺えますが、ウィトゲンシュタインの思想は更なる転回を迎えます。それを伺えるのが彼の遺稿集『哲学探究』であり、そこでは言語に関するより鋭い考察が残されています。有名な言語ゲームや家族的類似のテーゼは、今日の認知言語学におけるプロトタイプ理論などの理論に受け継がれています。また、いわゆる理想化認知モデルにおいて捨象される情報に関しても(コノテーション)『論考』とは異なるアプローチで論じていますし、これは『論考』の言語(論理)の扱いを批判するものであると言えます。というのも、言語が最も優れた、最も包括的なコミュニケーションのツールであるということはあり得ず、論理が超越論的であることもあり得ないからです。われわれは経験則的に明日も太陽が昇ることを知っていますが、夜が明ける前に突然物理法則(これも経験則に過ぎません)を捻じ曲げる宇宙人がやってきて太陽を飲み込んでしまうかもしれません。或いは、われわれが(自然/形式)言語より優れたコミュニケーションのツールを突如手にするかもしれません。とにかく、上の例と同様に『論考』に書かれているにも同様に批判の余地があるということです(つまり議論は言語のレベルにまで後退する必要がある)。
ウィトゲンシュタインは哲学者としては少々変わった位置にいる人物ですが(そもそも哲学者は総じて変人なのですが)、彼が(分析)哲学と言語学及び言語哲学に与えた影響は計り知れませんし、それはソシュールが現代思想に大きな影響を与えたのと同様に、外大生にとって非常に面白いものとなると思います。古田徹也『はじめてのウィトゲンシュタイン』などは入門書として非常に良いものであると思いますから、興味があれば是非手に取ってみてください。もちろん、いきなり『論考』に手を出してもいいでしょう(本文はとても短いです)。いずれにせよ、方法論としての哲学が学問一般において非常に肝要であることはお分かりになられたかと思います。
5.21 現代思想
哲学は20世紀以降、ある転回を迎えます。その結果、以降の哲学(Philosophy)は現代思想(Comtemporary Philosophy)と呼ばれるようになり、それまでの哲学とは異なる方向へと向かうことになります。これに対して、それまでの哲学を伝統哲学などと呼ぶこともあるのですが、これらの呼称に関しては何かしら決まったものがあるわけではないのでここでは扱いません。
広義の現代思想には大きく分けて二つの分野が存在します。そのひとつがフレーゲやラッセル、ウィトゲンシュタインらに端を欲する分析哲学という、論理の明晰化を図るために言語を解体し記述と分析を試みる分野で、もう一つが大陸哲学(ヨーロッパを中心とした哲学)の系譜であるフランス現代思想という分野です。分析哲学に関しては、有名なもので言えばラッセルのパラドックスとタイプ理論などがあるのですが、私があまり詳しくないのと、単に「現代思想」と言うと多くの場合フランス現代思想とその系譜を指すことの故にここではこれ以上扱いません。もっとも、分野としては論理学と近いところにあると言えますし、興味がある方は論理学の入門書を手に取ってみるのもいいかもしれません(野谷茂樹などはウィトゲンシュタインの研究でも有名です)。
さて、(フランス)現代思想という名前ではありますが、そう呼ばれるようになる決まった時期があるわけでも、特定の創始者がいるわけでもありません。大枠として、それまでの哲学が腐心していた絶対的真理の追究からはその方向性を変えて、人間の存在(実存)から哲学をスタートさせるような動き(実存主義)があったり、われわれを取り巻いてわれわれに影響を与え続ける社会的、文化的な構造を論じる動き(構造主義)があったり、とにかく弁証法的にはキチンと哲学をやっているわけで、つまりその目指すものの故に「現代思想」と呼ばれているということです。系譜として、現代思想を導いたとされる著名な哲学者の名前を挙げればニーチェ、フロイト、マルクス、ウィトゲンシュタイン、加えて言語学者のソシュールなどでしょうか。もう少し遡れば、実存主義はキルケゴールなどにもその萌芽を見出すことも出来ますし、(伝統)哲学、特に認識論に大きな影響を与えたカントなくして現代思想はあり得なかったでしょう。特にキルケゴールの『死に至る病』は、キリスト教の影響を多分に受けながらも、それまでの哲学並びにキリスト教を鋭く批判し、人間心理を非常に上手く描写した名著であると言えます。もしかすると、このタイトルをオマージュした作品などによって名前は聞いたことがあるかもしれませんね(cf. TVアニメ『新世紀エヴァンゲリオン』第16話)。
現代思想の位置づけはさておき、その思想の体系に少しだけ踏み込んでみましょう。それまでの哲学が目指した絶対的真理からは離れて、それを議論する段階での論理や言語の使用、それを思考する段階での人間心理などのレベルに焦点が当たるようになってから、哲学は様々な方向に分裂しました。その段階で、それまでの哲学におけるキルケゴールやニーチェらの思想を受け継ぐ形で発展したのがサルトル、レヴィナス、メルロ=ポンティらの実存主義、現象学的思想です。有名な「実存は本質に先立つ」の成句にあるように、人間の存在(実存)、他者、そして「何者かであること」を中心に議論を展開する彼らの思想は、われわれの生き方にも何かしらの道筋を示してくれる思想である(かもしれない)と言えます。しかしながら、(自由な)実存を前提にしたこれらの思想の体系は、構造主義による批判の対象となります。これは個の実存を論じる実存主義に対して、それらを取り巻く様々な「構造(社会的・文化的 etc.)」を論じる思想の体系で、その段階で彼らの思想は先にも挙げたソシュールの(構造主義)言語学、フロイトの精神分析(或いは単に心理学としても構いません)、レヴィ=ストロースらの文化人類学、ロラン・バルトらの記号論などの様々な周辺的議論(むしろそれらが主要部であるとも)を巻き込んで発展していきました。それがドゥルーズ、デリダ、フーコーら巨匠の思想であり、「脱構築」であり、精神分析家ジャック・ラカンの「フロイトに還れ」であると言えます。彼らを構造主義者と呼ぶのはあまり正確ではないのですが、そのような思想の系譜にあることは間違いないと言えます(cf. ポストモダン)。
特にこの構造主義の系譜における様々な理論や方法論は、哲学や現代思想に限らず文学(特に批評)や社会学、芸術分野(例えば超現実主義は精神分析の影響を多分に受けています)などにも広がっていきましたし、学問一般の方法論として、或いは学問を超えてわれわれの社会的・文化的諸活動の方法論としても広く受容されています。もっとも、「構造」を語ることに始まるのですから、これは妥当であるとも言えるのかもしれませんが……
もう少し詳しい系譜や思想の概要については千葉雅也『現代思想入門』や、少し古いですが浅田彰『構造と力』などを参照して頂くのが良いのですが、敢えて少し踏み込んでみることが許されるのならば、比較的親しみやすいであろうロラン・バルトの『物語の構造分析』に注目してみましょう。例えば彼の導入する「作者の死」という概念、即ちテクストを<織物>として多次元的なエクリチュールが展開される場であるとする場合に、そこでテクストの作者が死んでしまうという理論は、それまでの作者中心の作品解釈に決定的な転回を与えました。これはつまり、例えば言語というシステムを――その創世記においては非常にプリミティブなレベルであったかもしれませんが、その歴史において様々なレベルの<物語>という情報を内包するようになったシステムにおいて――われわれが自由に使用することが果たして許されているのかということを、テクストのレベルで論じたということです。それは人間が紡いできた<歴史物語>であり、言語がわれわれを取り巻く「構造」であるのと同様に、エクリチュールもわれわれを取り巻いており、したがって唯一の作者なる権力はもはや存在しない、と彼は言います。しかしこれは何も、テクストに自由が無いというわけではありません。敢えて言うなれば、テクストは自由そのものです(或いは全く無い)。ある尺度で読み解かれることのない限り、それはこれまでに紡いできた歴史的な物語(論理)全てを内包するものとなり、そしてそれは現在時をも編み込みつつあるのです。ここにおいて、批評はある事実の可能性を示すだけのツールに成り下がり、それはちょうど状態の重なり合いを壊してしまうような観測であると言えます(そこで初めて「そうでなかった」可能性が生まれる)(これはメタファーに過ぎませんが)。バルトが最初にこれを論じたというわけでもないのですが、やはり、彼が文学や批評の世界に与えた影響は大きいでしょう。もし彼に興味のある方は、写真について書かれた『明るい部屋』や日本(におけるロラン・バルト)について書かれた『記号の国(表徴の帝国)』などに手を出してみても面白いかもしれません。いずれも手に取りやすい長さです。もっとも、読者にあまり親切でないかもしれませんが……
5.3 心理学
先に挙げた精神分析は心理学の一分野として捉えられることが多いのですが、個人的にはその分類が適切であるとは思いません。もちろん、精神分析が心理学の周辺的な位置にあり、相互に関係があることに間違いはないのですが、前提となる意義や理念の相違から、心理学や精神医学と精神分析とは別に考える必要があるように思うのです。というのも、心理学が目指すのは人間心理の一般的な機能の記述であり、そして臨床心理学(或いは精神医学)はそこから人間心理の「健康」な状態を措定し、それに向けて「治療」を行う分野であると言えますし、対して精神分析は、臨床的にはヒステリーの研究に端を発するものであり、主として「きちがい」を分析することで人間の内的な心的構造を問う活動であると言えますから、その点で人間心理を取り扱う方法(アプローチ)が異なるという点には留意すべきだと思います。
広く人間の心的機能を論じる心理学においては、それが人間の心理を取り扱う学問であるが故に、学問の分野を横断する形で様々なアプローチが存在します。心理学は、人間心理の一般法則を追及する基礎心理学と、それを現実の生活のレベルに還元する応用心理学との二つに大きく分けられるのですが、前者では社会(参加)という観点からの分析や生態、即ち現実の世界における環境を起点に人間心理の記述を試みる分析(cf. 生態心理学におけるアフォーダンス)の手法があるほか、言語を起点に人間心理の機能を分析する手法などもあります。例えば英語の学習者が、不規則変化を持つ英語の動詞に活用語尾 -edを誤って用いてしまうことから、言語獲得における(或いはそれに限らず)心理的な傾向を……など(過剰な一般化)。もっとも、今挙げたような例は学際的に扱われることもありますし、むしろ、ある方法での心理学が他の方法で行われる心理学よりも正しい(!)ということは、ある事態への論理的な関係の強弱はあれど、恐らくあり得ませんから、心理学はそのような意味で様々な可能性を提示してくれると言えます(心理学そのものもある方法でしかない!)。
恐らく多くの外大生が教養科目として(便宜上こう呼びます)、特に教員養成課程を履修する人は必ず、心理学に関連する科目を履修しなくてはなりません。言語や文学、言語学を扱う弊学では、心理学的な要素が絡まない科目を見つけることの方が難しいでしょう。だから心理学をやれと言うとなんだか短絡的かもしれませんが(もちろん理由としてはあるのですが)、そうではなくて方法論としての心理学、即ち言語や文学といったことを考える際のツールとして(この言い方はあまり好きではありませんが)、心理学を捉えておいて損は無いと思います。認識論を引き合いに出して、人間の心理は認識のツール/フィルターとしてあるから……と言うのも良いですが、いずれにせよ、人間の心理という、普段は何かしらの形式でしか表出し得ない何かを読み解き記述するという心理学の試みにはきっと面白いものがあるでしょう。或いは、心理学を学ぶあなたに何かを与えてくれるかもしれません。もっとも、それがあなたにとって良いことなのかを保証することは出来ませんが……
6. 終わりに
長かった本稿もようやく終わりを迎えようとしています。正確には「終わるしかない」というところですが。ここまでレポートについて色々と書いてきたわけですが、本稿をほんの少しでも真面目に捉えてしまった弊学の大きなお友達にこれを言わせてください。
こんなものをアテにするなんて外大生失格。今すぐ退学しろ!
私は「神戸市外大ツイ廃同好会」自称するだけの、本当に外大生なのかも分からない狂人です。そんな人間の言うことは真に受けない方が良い、これは常識の備わった人間なら深く考えずとも分かることです。仮に外大生であることが虚偽でないとしても、一介の学部生の分際で学問とは何だと抜かすようなヤツはきっとどこかが終わっています。そして、私が本稿に書き付けたことは教員のガイダンスであったり、課題の説明であったりで懇ろに教えてくれたことばかりでしょうし、そうでなくとも、今あなたの目の前にある電子機器で調べれば書いてあるようなことでしょう。私の駄文なんぞは笑い飛ばして、自分でちゃんと調べてみてください。大学の学びとは多分そういうことです。
そして、本稿を読んでくれた大きなお友達が私に厳しい批判をぶつけてくれることを願います。そうして私に学びの機会を恵んでいただければ、これを書いた甲斐があったというものです。
(追記)
こんなところまで読んで頂いている方の中にはそう感じられた方もおられるのでしょうが、どうも私は文章を書くのがあまり得意ではなくて、取り扱ったコンテンツに偏りがあることも相まって、全体的に非常に読みにくい文章だったと思います。また、ある単語を一般に知られているような意味や用法とは異なる方法で用いるといったこともありましたから、それで困惑を招いたかもしれません。ただ、いたずらに読みにくくしてやろうとか、そういった意図があったわけではありませんから、どうかご寛恕くださいますよう。それでは。