箱舟
2013.05.26 Sunday
そうだ、そうしよう。
一度思いついたことは極力実行する事にしている。
その思いつきには意味があるはずだから。
実行してそれが何の意味になったか判らなくても、
あとでハッと解る時がある。
だから私は、ただ ただ 動けばいい。
フットワークが軽い人に憧れている私は、
大阪でのライブを口実に、ひさびさに訪れる2日間の休みに小旅行を考えた。
思い浮かんだのは、必ず行きたいと思っていた広島でのとある展示。
そして位置関係も知らずに「日本人たるや、一度は原爆ドームもいかなかん。」と追加で計画した。
常に頭がいっぱいだった。
ライブが終わり、私は人が表現する理由について考えていた。
自分をさらけ出す為、理解してもらう為、みんなと楽しむ為、思いを伝える為、喜んでもらう為、生きる為。
私たちは簡単なことや当たり前のことが分かっていなかったりする。
知識だけでなく、それを実感していることが大切だからだ。
だからそのことに気付けた瞬間、感動で身震いする。
ライブの途中で少しそれを体験することができた。
仮眠して、朝靄の高速をとばし辿り着いた広島はキラキラしていた。
川が一番多い都市。
夏休みの登校日に黙祷を捧げた場所。
通りかかる原爆ドームの小ささに驚き、車を止めた。
朝早いこともあり とても静かで、
おそる恐る原爆死没者慰霊碑の前に立った。
白く大きな塊の碑をじっと見つめた。
祈りを捧げる確かな理由に実感がない為、資料館に向かった。
資料館は各国からの観光客と、修学旅行の子供達でいっぱいだった。
ある一文に目が釘付けになった。
それは京都に原爆を投下すると日本と将来仲直りできなくなるので、それ以外の広島になったということ。
私はそこに救いを感じたが、
その後の広島の様子や広島への原爆投下は実験だったことを知り虚無感に襲われた。
存在するのは新しいものへの残酷なまでの執着と忌まわしい欲。
そして犠牲者は日本人だけではなく、世界中に及ぶ。
再度、修学旅行生とツアー客で溢れる原爆死没者慰霊碑の前に立ち祈りを捧げた。
「誰が痛いではなく、みんな痛かった」
かつて原爆ドーム前でそう言っていた彼女の言葉を思い出した。
あぁ、ほんとそうだな。
核が再度問題視されている今、世界中の人が見るべき場所だと思った。
旅の終着点。
今回の旅の目的は、鞆の津ミュージアムに行くこと。
『極限芸術~死刑囚の表現~』
死刑が決まった”人”が描いた300点にものぼる絵が展示されている。
絵を描く理由が私と違うのは明らかで、その世界を感じたかった。
未来には死の存在しかなく、ただその日を待つ。
怯えるのか、怒るのか、悔いるのか、待ちわびるのか。又は、何も感じないのか。
そんな時に一体何を描くのか。
海沿いののどかな町並みにその場所はあった。
蔵を生かした作りの柔らかな和空間にその絵が展示されていた。
紙や画材に制限がありながらも、不器用ながらものびのびと描かれていた。
そう、意外にものびのびと描かれていた。
そして祈り溢れていた。
真面目に向き合っているように感じた。
死刑執行の恐怖と、家族への想い。その先に待つ場所への祈りと犯した罪からくる忍耐。
だけどそれは真実なのか。
死刑になる人はどこまでの罪を犯したというのか。
死刑というものを真面目に考えたこともなく、その後どうなるかも知らない。
背景がありすぎる展示だと感じた。
見たければ来ればいい。知りたければ知ればいい。