今君に伝えたいこと #8
椅子をひき、座る。蓋はいつも開いている。お客さんが気軽に弾けるように、と太慈がいつもそうしていた。
ふう、と一息ついて両手を鍵盤に置いた。
さっき15分くらい弾いてきたから、指はもう温まっている。よく晴れた気持ちいい5月の平日。夕方が近づく穏やかな時間帯にゆったりとした店内の雰囲気。慧人は軽やかに『子犬のワルツ』を弾き始めた。昔からよく弾いていた曲で、慧人自身お気に入りの曲の1つだ。1曲目に弾くのは、リクエストがない限り耳馴染みの良いクラシック曲にすることを決めている。喫茶店という空間で、どんな人にもどんな時間帯でも違和感のない曲は、やはり慧人はクラシックだと思うからだ。『子犬のワルツ』を弾きながらいつも想像するのは、青空の下、だだっ広い芝生の公演を懸命に駆け回るふわふわのポメラニアン2匹だ。長い毛を揺らし、ぴょんぴょん跳ねてじゃれあって、まるで2つの毛玉のようだ。そんな様子を想像しながら弾いていると、自然と口角が上がった。
曲も終盤になると次に弾く曲のことを考え始める。店内での演奏を依頼されるときは、曲の終わりと始まりをつなげて、2時間なら2時間の演奏を1曲の長いメドレーのようにして弾くのが慧人のやり方だった。音の強弱はつけすぎずに、あくまでそこに流れている空気のように自然なBGMを目指している。らるごの主役はコーヒーであり、店主の太慈であり、来店されたお客様だ。慧人はその空間を少しだけ色付けられるようにと心掛けて演奏をする。そうだ、『ツバメのワルツ』にしよう。そう考えたら口角にぎゅっと力が入るのが分かった。
幼い頃からオリジナルの曲を作っては家族に聴かせていたが、いわゆるお稽古事としてピアノを習ったことはなかったため、慧人のピアノはすべてが自己流だった。楽譜の読み方の基本だけは母から自然と学んだが、楽譜を書くことができなかったので、そのころのメロディーはほとんど覚えていない。たまたま小学5年生のときの担任の先生が音楽の教師で、彼女が一通りの基礎知識を教えてくれた。
「先生は慧人くんのピアノが大好き。だからこそ、知識も身に着けてほしいと思うの。もっとピアノのことを知りたくない?」
と言って、放課後慧人にだけ譜面の書き方や音楽記号の意味を丁寧に教えてくれる特別授業を開いてくれたのだった。それから慧人は、好きなメロディーを見つけるたびに譜面に残しておくようになり、今では30曲以上のオリジナル曲があった。あの先生の名前はなんだっけ。薄情な自分に呆れる。最後に会ったとき、涙を浮かべて抱きしめてくれたあのぬくもりに、慧人は何度助けられたかわからないのに。
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