どうでもいい話

今回はどうでもいい話をしよう。どうでもいい話は座談の場で持ち出しても、手応えはあまり芳しくない。「ふぅん」とか「へー」とか、そっけない反応を示されたのち、違う話題へと移って流されてしまう。自分の話し方が悪いのかもしれない可能性もある。だからnoteにおいて語ろうと思う。ある程度整理できた上でどうでもいい話を語れるし、強制的に他人に聞かせる忍びなさを感じる必要もない。

どこから話せばいいのか……。
私の生まれ育った土地は福岡県にある北九州だ。多くの人々にとっては治安の悪い場所、ないしはやんちゃな人間の在る場所として、記憶されているのではなかろうか。そんな北九州に住んで20年目の春の話である。当時はまだ大学生だった。北九州には喫茶文化があまり根付いていなくて、最も栄えている小倉駅でさえ数軒の喫茶店のみであった。一番人気はCAFE DE FAN FANである。店名は映画俳優のジェラール・フィリップの愛称から取られている、モダンでおしゃれな喫茶店だ。店内も広く、若い客層が目立つ。若い頃からそのてのはしゃいだ雰囲気が苦手であった為、あまり近づかなかったように思う。

自分は専ら紫留来へ足を運んだ。紫留来はこぢんまりとした客席も少ない喫茶店。なのに喫煙可のため、誰かがタバコに火をつけると、途端に煙が充満し、辺りが煙たくなる。タバコ嫌いの人間が多い昨今では物珍しい喫茶店と言えよう。平日などは特別客人も少なく、ゆえに居心地が良く思えて、足繁く通うようになった。窓際の席に腰をおろして12時過ぎから2時まで読書に耽った。あの日も平日だった。いつものように窓際の席に腰をおろして読書をした。読んでいたのは、エドガルド・M・レイエス『マニラ-光る爪』(以下、マニラと表記)だ。小さい島に住む青年が恋人を探してマニラに上京する、というシンプルなストーリー。何度も何度も読んでいるが飽きないのだ。1時間ほど集中して読んだせいか、疲労を感じた。テーブルの上に本を置いて、すっかり冷たくなったコーヒーを口へと運ぶ。ふぅ、と一呼吸すると隣席の女性が声をかけてきた。
「あのー、もしかして『マニラ』読んでますか?」
女性は緊張からか、強張っているように見えた。
「ええ、その通りです」
「やっぱり!」とその女性は言い喜びを感じさせたた。
「私もちょうど読んでいて……。表紙が見えましたから、もしかしてと思いました」
「あなたもお好きなんですか、この小説が」
「初めてお読みしてますから好きというわけではないのですが……」
私は思った。平日のうらぶれた喫茶店にたまたま居合わせた男女が、決してメジャーとは言えない文学作品を読んでいる。偶然の一致、という言葉があるが、こんなときに使うべきなんだろう。偶然の巡り合わせが私たちを引き合わせた。せっかくだからしばらくのあいだ話したい。そう思い引き留めた。彼女も了承してくれて嬉しかった感情を、今でも鮮明に思い出せる。会話は専ら文学と音楽の話題だった。ふっと窓の外を見ると、夕陽が傾いていた。アインシュタインは「可愛い女の子と1時間いると1分しか経っていないように思える」と言ったが、その感覚を理解できた。
「そろそろ帰りましょうか」と私は尋ねた。どこかで「まだ話しましょう」という彼女の返答を期待しながら。みなさんご存知の通り、人生とは思い通りにはならない。彼女はあっさり同意したのだった。小倉駅までは一緒だった。取り止めのない会話をしながら歩いていく。やがて改札口が見えてきた。いよいよ別れのときだ。名残惜しいけれど仕方ない。
「では、この辺で……」と私は言い軽く会釈した。
彼女は「あの……」とためらいながら口を開き、「もしよろしかったら静かな場所に行きませんか?」と告げた。
思いがけない提案に固まってしまった。"静かな場所"に行く。悪くない提案ではある。気まずい沈黙が流れた後、口火を切ったのは、彼女だった。突然、私の手を掴み、歩き出した。行き先は明白だった。"事"に関して詳らかには語らない。というよりか、全員知りたくないと思う。結局のところ彼女とは一度切りの関係で終わってしまった。名前すら存じ上げない。連絡先を聞いた方がよかったかもしれない、と思わないこともない。だけど、野暮のように感じられて尋ねることができなかった。


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