見出し画像

【小説家の仕事】キム・ヨンス インタビュー「面倒でも構わない」①

初出 延世大学新聞『延世春秋』二〇一〇年三月
インタビュアー チョン・ジミン記者
翻訳 金憲子

 「こんなにリアルなケソリがあるだろうか」
 やけに現実味のある「でたらめ(ケソリ)」の話かと誤解せぬよう。これは作家キム・ヨンスが昨年〔2009年〕公開された映画『カールじいさんの空飛ぶ家』の鑑賞後に書いたコラムのタイトルで、その映画には「犬の声(ケソリ)」を人間の言葉に翻訳できる機械が登場するのだ。意味ありげなタイトルでまず惹きつけ、アニメーションは昔に比べてリアルになったと語る内容だった。

こんなにユーモラスな小説家がいるだろうか

 幼い頃からの同郷の友人で同じく小説家のキム・ジュンヒョクと『CINE 21』で交互に連載していたコラム「私の友人、彼の映画」〔未邦訳〕のなかで、作家キム・ヨンスは映画をテーマにくだらない冗談を言ったかと思うと社会や芸術についての真剣な悩みを吐露するなど、彼ならではの振れ幅ある語りを見せる。「いくらエッセイとはいえ、こんなに筆の赴くまま書いていたら『CINE 21』から契約を切られるかも」と正直な不安をさらけ出したり、禁煙の話にからめてこんな自己紹介をしたりもする。

 「私はというと、1年前に突然一切の執筆を中断して禁煙に突入して以来、これまでひるむことなく禁煙という旗印を高く掲げ、肺を病む近所の愛煙家たちにロールモデルとして模範を示してきたのに、他の作家たちからは『あいつ、タバコをやめて書けなくなったぞ』とからかわれている開店休業中の小説家だと思われているが、皆よく知りもせず言っているだけで、タバコをやめてもなお頑張って書き続けている現役の小説家だ」

 「私の友人、彼の映画」は2010年2月、両作家のウィットにとんだコラムを楽しんでいた多くの読者に惜しまれながら1年の連載を終えた。コラムが終了した1か月後、キム・ヨンス氏を訪ねて今の思いを聞いた。


―昨年の初頭にスタートした「私の友人、彼の映画」が1 年の連載を終え、幕を閉じました。二人の作家のウィットあるコラムを多くの読者が恋しく思っているでしょう。キム・ジュンヒョク、キム・ヨンス両作家の文体はどちらもユーモラスですよね。毎回、読んでいて吹きだしそうになる箇所があります。ご本人は内向的で人見知りをしそうなイメージですが、元々冗談好きな面があるのですか。

 実際に内向的ですよ。仲良くなるまでかなり時間がかかります。親しい人といる時はあんな感じで冗談を言いますが、よく知らない人の前では表情が硬くなる。だからインタビューもあまり受けません。でも執筆中は表情が硬くなるような心理状態ではないんです。表には出てこない何かをのぞき込むように書いているので本来の性格が出るようですね。

―作家キム・ヨンスの落ち着いた小説とは全く違った雰囲気ですよね。エッセイ同士を比較しても振れ幅の大きさを感じます。『CINE21』のコラムと違って『青春の文章たち』〔未邦訳〕や『旅する権利』〔未邦訳〕は真面目な雰囲気ですね。

 何を書くかによって違ってきます。『青春の文章たち』は過去の日を思い哀愁を綴るスタイルだったからそうなりましたが、『CINE21』のコラムはジュンヒョクさんとのやりとりだからどうしても真面目にはならない。彼自身が真面目なタイプじゃないので、私なりに努力したんですがだめでしたね。

―『夜は歌う』は中国滞在中に執筆されたものですし、『CINE21』から「私の友人、彼の映画」の連載を提案された 2009 年初頭もスペインに滞在されていましたね。小説を書くためによく外国を訪れるほうなんですか?

 小説の舞台になる場所を訪れず書くことはできないので「やむをえず」行って書いています。行ったからといって特に何てことはないですが。結局どこも同じですが行かないと後悔が残りますから。

―『旅する権利』という著書だってあるのに……、旅行は好きじゃなかったんですか。

 あまり好きじゃありません。旅行記に書いたのはやむをえず行った旅の話です。(一同驚愕)ミッションがあって、それを遂行しに行っただけです。レジデンス・プログラム〔芸術家に特定の空間を一定期間提供して創作活動をサポートする事業〕だとかね。やりたくなくても生き残らないといけませんから(笑)。旅行を楽しんではいないです。特に、パリに行ってエッフェル塔を見たり博物館に行ったりというのは本当に好きじゃないんです。町の飲み屋で酒を飲むぐらいならまだしも。一人でうろうろするのはいいんですが、行った先で人と交流したりするようなタイプじゃないですね。

―好きじゃないとは衝撃ですね(笑)。でも旅行経験は豊富におありですから、行って一番印象的だった場所を大学生に推薦してください。

 人の暮らす場所はどこも同じだと思います。だから都市はあまり好きじゃない。でも砂漠は違いましたね。世界の果てに来たような感じでした。視野が広くなるというか。だから砂漠には是非行ってみるよう勧めたいですね。砂漠ツアーのようなものがあって、40 日ぐらいジープに乗って行くんです。ヨーロッパの大学生が多いんですが、これが実に面白い。それはもう壮観です。遠くもない。ソウルから3 時間もあれば行くことができます。ヨーロッパは行かなくていいですよ。ビールやワインの値段が安いこと以外は良いことなんてない。「大学生の皆さん、旅行なんて行かないで。行ってみたけど大したことなかったですよ」って書いてください。

けれど楽しく生きたい

―30代は気力が衰える前に歴史小説を書き、もう少し歳を取ったらコミカルな小説を書きたいとおっしゃっていました。敬意を持って真剣に小説と向き合っている方が書くコミカルな小説だなんて、何だか想像がつきません。いったいどんな形になるのでしょう。

 特別なものではなく、書いているうちに笑える要素がたくさん入ってくるだけのことです。チャンビ〔韓国の出版社〕に書いている小説なんかはストーリーがかなり重いんです。ある兄弟が迫害を受けたり、愛する女性が死ぬのを目撃したり、そんな話です。深刻な顔で書いていたら到底耐えられないような話です。歳とともに扱うテーマがどんどん重くなっている気がします。でも時が経って分かってきたのは、そんなふうに苦労して生きている人たちの人生にも、たまには楽しいことや幸せなこともあるってことです。人生を全体として見るとつらく悲しいけれど、それが全てじゃない。私はその人生を楽しい記憶として残してあげたいんです。だから所どころ笑いがないと。

―笑える要素をスパイスのように入れても、やはり重いテーマを描くのは心身ともに疲れそうです。書いていてつらくないですか?

 私は「文学をやってるんだ」というポーズが好きじゃないんです。文学といえば苦しみながら書くようなイメージがありますが、そういうのは嫌いです。私は苦しみのなかからインスピレーションを得て書くのではなく、計画を立ててコツコツ書き、終わったら好きなことするタイプですね。できるだけ楽しく生きようと思っています。書く時にすごく苦しそうにする人たちがいますが、執筆のことで周囲の人を困らせてはいけない。こういう人たちは講演や授業なんかを任されるとすごくつらそうにします。つらかったらやるなと言ってやるんですが、そんなふうに言っても喜ばれませんね(笑)。

―ですが、基本的に人間の創造力はつらい状況が土台になるのでは? 身体的に不幸な時ほど創造力がより発揮されるという考えには同意しませんか?

 書く時に、文学とはこういうものだという考えを持たずに書けば必ず楽しめます。文章には不思議な力があるんです。自分の情けなさについて書いていたとしても、毎日一定量を書き、「書ききった。もうこれ以上は書くことがない」と感じたその瞬間にもさらに吐き出すように書いていくと、やがて和らぎが訪れます。執筆とはそういう楽しいものなのに、それぞれ自分が考える文学のイメージというのがあって「文学とは苦しいものだ、貧しくつらい思いをするものだ」と考えがちなんです。こういった人たちは、「深く没頭する」ことは即ち「絶望的なポーズを取る」ことだと思っているようです。毎朝早く起きて日課のように書く人のほうがむしろ深く没頭することだってできるのに。

―とても勤勉なタイプのようですが、毎日一定の時間を決めて執筆するほうですか?

 そうしようと努めていますが、上手くはいきませんね。私の場合、執筆プロセスは二段階に分かれているんです。まずは創作過程、次は編集過程です。創作過程では草稿を書くんですが、これは非常にコントロールしづらい作業です。草稿は一定時間座って書き進めなきゃいけないんですが、それが難しい。計画的にやりたいんですが、今もまだ苦手ですね。草稿ができたあとの編集過程では時間を決めてやるほうが効率よく進みます。でも、いくら計画を立てて進めようが、基本的には情熱が重要だと思います。まず情熱があるところに計画を立てるべきでしょう。それがなければ計画を立てて机の前に座っても意識がよそに向いてしまう。忍耐と情熱を持ち、自分がしていることを大事に考え、そのうえで計画を立てて進めていくべきだと思います。

―年齢を重ね、執筆において悟ったことはありますか?

 だんだん他人にどう見られるかという考えから自由になっていますね。他人のことを必要以上に考えることがだんだんなくなってきています。どんなことも最初は自分のために始めたはずですが、やるうちに色んな人たちと一緒にやっているんだと気づきます。その過程で始めた頃に感じた楽しみはある程度消えてしまう。仕方のないことです。ですが、そのうちまた転換期が来ます。自分が純粋に楽しむことの大切さに改めて気づくんです。そうやって、書くという行為自体を楽しもうと思うようになりました。

小説は小説らしく、
エッセイはエッセイらしく

―ご自分の作品についての評論家の批評は確認するほうですか?

 やはりチェックはしますね。ですが、そんなに気に留めません。実際に評論家の文章を読んでみると、私が作品を書く際に考えていたことと違ったりします。私の意図からずれているところが多いんです。もしその評論家が私の意図を汲んでいたら気にもかけますが、そうでなければ、ねぇ。話が噛み合わないだけだと思っています。

―話が通じないということですか? 他者との「疎通」について深く掘り下げてこられましたよね。「簡単には終わらないであろう、冗談」〔『ぼくは幽霊作家です』に収録〕などの作品を見ると、「理解」に関しては「潔癖」な方なんだと感じます。もしそうなら、他者が見せる理解のポーズに何を思いますか? 例えば小説を読んで同意や感動、理解をした、慰められたといった感想をどう受け止めますか?

 それは言葉によって伝わるものではなくテレパシーのように気持ちで伝わるものだと思います。言葉では全く伝わらない。お葬式のような悲しい場面で友人が見せる行動が一番分かりやすいですね。特に親しくない人やよく知らない相手であれば喪主に対して「心中お察しします」というようなことを言いますが、友達は真っ先にまず抱きしめてくれます。手を握りしめてくれたり……。他者との「疎通」というのは、そんなふうに言葉ではなく行動に現れるものです。文学的な行為ですよね。通常は言語表現という形を取りますが、それでは疎通は不可能で、むしろ言語ではないもの、非言語的な部分に疎通の本質があります。皮肉な話ですね。私は言葉で飯を食っている人間ですが、言葉を信じていません。だから「テキストの真正性(authenticity)〔間違いなく、確かであること〕」といったものも信じていない。テキストを固定のものと考え、まるで聖典のように一文字も変えてはいけないと考える人がいますが、そんなものは形式にすぎず重要なのは内容だと思います。

―ご自身の小説に対する「難解だ」という一般的評価についてどう思いますか? 同意されないでしょうね。

 難しいとは思いません。ただの偏見と先入観ですよ。理解できないという意見も聞きますが、私が最も理解できないのは、同じものを読んで理解できる人も非常に多いという点です。私の小説が読みづらいというのは分かる気がします。読むのに労力がかかるという意味ですが、それなら分かる。あまり改行がなくて文章も長く、描写がずっと続くので、どうしても可読性は落ちるし、読むのが面倒に感じるでしょう。ですが、私は可読性が低いことに対して特に問題意識を感じていません。良い文学にいつも読みやすさが伴うわけじゃない。それに、私が自分の小説を読んでほしいと思っている真摯な読者層は、可読性なんて特に気にしないと思います。「難しい、理解できない」という人たちは架空の読者を想定していて、例えば「百万部売るには、こんな書き方じゃだめだ。皆読まないよ」と言うんです。私にとっては何の意味もない言葉です。百万部売れたら何だっていうんですか。小説を読むという行為は基本的に面倒なことです。手間がかかるから感動がある。小説はそんな面倒で大変なプロセスを経た人にだけ何かを与えてくれる。それを何もかも取り払えと言われても、そんな小説は私が書きたい小説じゃないんです。

―小説とエッセイで違いがあると言いましたが、一方で似た面もあります。文体はいたずらっぽくユーモラスですが、肝心の内容はそれでもなお重みがある。ユーモアは話を伝えやすくするツールということでしょうか。

 それよりはジャンルの差ですね。私が考える小説というのは基本的に散文です。「散文精神〔形式美や浪漫的・詩的な感覚を排除し、出来事を客観的に表現しようという態度〕」というものがあります。途方もなくたくさんの文字がびっしり詰まっているようなイメージですね。トルストイやドストエフスキーの作品のような。こういった本を読むためにはいくつもの夜を本とともに過ごす必要がある。時には何週間も。本当に退屈な作業です。誰かの一生を最初から最後まで一緒に経験するような退屈さだ。ですが、だからこそ最後のページを閉じた時に一人の人生の終幕に似た感動が押し寄せる。そんなふうに読んではじめて、小説を1 冊読んだんだという感覚になります。小説を書く時には、その点を最も念頭に置いています。重厚さや本の厚み、散文精神ですね。エッセイはそういうものじゃない。エッセイはクロッキー(速写)に近いですね。特徴的なことをピックアップし、長く語らず、おしゃべりをするように手短に一つだけ伝えます。小説を書くようにエッセイを書くのは無理じゃないですか? まぁ、エッセイを書くように小説を書くことはできるでしょうが、私が書きたい小説じゃありません。(つづく)

いいなと思ったら応援しよう!