一切皆空
悲しくて涙を流すのは、残された者たちだ。
逝った者はもう声を出して泣いたり跪いて悲しんだりする肉体はない。僕らがいるこの時空で共に五感を通じて同時空を共有することはもう決してない。
逝った者とのことを回顧するとき何故悲しいのか、それは、共有した記憶が喜びに満ちているものが多いからだ。心から楽しかったこと、深く共感したこと、共に同じことをしながら考えや想いを通わせ互いの時間を互いの為に費やしたことに後悔がないからだ。
人生とは時間だ。それを他者の為に惜しみなく使えるのは、徳であり幸福なことだ。そう想える、そう行える相手がいるということが、人生を豊かにする部品になっている。世界は、そういう小さくて他愛もない粒の集合で出来ているのじゃあないか。少なくとも僕の世界はそういうもので出来ている。
そう想える者が逝ったとき、悲憤しないわけがない。共有してきた有限な時間に喜びがあればあるほど、想いは嗚咽を伴って発せられる。
しかし、自分がそう感じるということは、それだけの共有時間がそこに存在したという証拠だ。その時間はもう二度と戻らないが、存在した事実は依然そこに在り、逝った者の肉体的存在が無くなっても、絶対にそこから消えることはない。己がその記憶を再生する装置を失わない限りいつまでもそこに在り、いつもどんなときも、彼を心内に呼び出すことが出来る。物理世界の常識である距離や時間の壁は、もうここにはない。
悲しみは癒えない。時間が解決すると言うけれども、薄れるだけで癒えることはない。
癒えることがない代わりに、時間を経ることで己が生きるための糧になっていく。彼の分まで彼の代わりに彼の生きるはずだった時間を肩代わりして生きることは不可能だが、彼の生きた痕跡を手に彼の知る自分として恥じない命の使い方をしていれば、悲しみは癒えなくても前を向いて生きていける。
その人を想うとき、その人はここにいる。ここに。