ほとけに名を入れない主義の話

モノを作る人、芸術家など、個人で何かを創造する人は特に、作り上げたものに自分の名を刻むことが多いと思います。仏師と呼ばれる職業の方々にも、自分の名を仏像に刻んだり書き込んだりする方も多くいるのではないでしょうか。

自分は、それを好みません。自分の彫ったほとけには名を入れません。最初のうちずいぶん前には、入れようとしたこともありましたが、或る考えに至ったことで、入れずに納めました。
今も、彫ったほとけには、みえないところに「祈」の一文字と、年月を筆で残すのみです。

その『或る考え』を綴っておこうと思います。

或る考え其の壱 すべてほとけ

ほとけは何処にでも存在し何にでも内在し、気づけさえすればいつでも何処にでもいらっしゃるものだという考えを教えてくださったお坊さんが居ました。東日本大震災からの復興のお手伝いなどでのやりとりを重ねていた際に知り合った、金沢のお坊さんです。
そのお坊さんのお話を聴くことで、今まで自分の中に在りながら、言葉にできずどういったものなのか自分でも解っていなかった朧げなものが、形となって掴めたような気がしてきたのでした。

それは。
態々仏像という象を為そうとするのは、在るものすべてがほとけであるということを、人間が愚かな為にそれに気づけないことが多いからではないか。だから、仏像という体を為したものを拝み祈ることで、ほとけの存在を少しでも感じ易くするために。そういう存在をお迎えするのが『ほとけを彫る』という行為であり、本来彫らなくても木や石は元々ほとけなのだということ。
ならば、迎えたほとけに己の名を刻んだり書いたりするのは、とんだお門違いではないか。自分を拝んでもらうつもりか、と。

すべてがほとけであるならば、最終的に行き着く先では、自分自身もほとけであるはずという考え方もありはするとは思います。しかし、自分はまだその次元には達していませんし、到達するとも思っていません。

或る考え其の弐 滅私

或る意味すべてがほとけであるなら、果ては自分もほとけであり、返せば自分など存在しない、となりましょう。大きな流れ、大きなひとつの塊、呼ぶとすれば世界、そこから自分やみなさん、生き物、石、砂粒までが姿を変えてこの世に出てきている、元はすべてひとつのほとけという世界そのものだ、と考えるとき、彫って迎えたそのほとけに己の名を入れるということ自体が何とも滑稽に思えてならないのです。

また別な言葉にすれば、迎えたほとけが誰の所業でそうなったかということを、自分はまったく気にしません。誰が彫ったものだろうが関係ないのです。そんなことは大した問題ではないのです。それがほとけで、誰かがそれを拝んでいるなら、誰の作でもいいのです。そこに自分という存在は不要なのです。
観る者が【きれいだ】と感じ魅入った『きれいな花』がそこに在るためには、花と、花をそう観る者が居る、ただそれだけでいいのと同じ。誰かが拝むそのほとけを誰が彫ったかなど、大したことではない。
そう、自分は思っています。

こんな想いから、彫ったほとけには名を入れずに、お納めしています。

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