不文律ということ
何だろう、色々なものを解りやすく見えるようにしたことの弊害なんだろうか。
古来、禅の世界よろしく「不立文字教外別伝」などとして、言葉では伝えきれないので体験を通して後世に伝えようとされてきたものがあったらしい。
同じように、「言葉でいちいち表現しなくてもわかるでしょう?わかってよ」というような「不文律」という言い方をしてきたものがある。あった。
誰も口には出さないけれど、これはやったらダメだよね、とか、これはやっとかないとまずいよね、とか。
でも、昨今、そういう「曖昧ではっきりしない、感性や慣習に依存するものごと」は受け入れられなくなってきている気がする。
苦なく、時間を費やすことなく、専門でもない万人が解るように、と、言葉や形にして来過ぎたために、人が己の体を通じて感じ取り、己の頭で思考して己の中に構築していくという作業は省略して、「過程をすっ飛ばしていきなり解を得る」ことが当然の様相となり、既知の物事への実体験があたかも無駄なことのように蔑にされている気がする。
そのためか、暗黙の了解とか不文律といったものへの今の世の理解や扱われ方にも、ある種の影響を与えているのではないかと自分は思っている。
言ったり言われたりしなくても人々が解っていたこと、それで問題なくよかったこと、すんでいたことが、その物事の発祥から本質までへの至りを体感せずその解だけを得てすませてきたために、物事への応用や発展的思考ができず、バカ正直にその解ときっちり同じでないと許せない、はっきりさせないとすまない、明確にならないと認められない、といった判断へつながっていってしまう。
物事を明らかにして来過ぎたために、不明瞭だったり解りづらかったりぼんやりしたものへの自分なりの思考やそれへの寛容な理解がなくなってしまったんじゃないだろうか。
情報化社会が進み、疑問に対する回答も即座にされることが多くなった。時間をかけて調査し理解し解決へ導くといったプロセスも、時間をかけるのは馬鹿馬鹿しい無駄で非効率なことだという考えがスタンダードになってしまっているのではないだろうか。
そのために、腰を据えてじっくりと調べ考え、じっと時間をかけることへの価値と評価が著しく低下している。
不文律が通用しなくなりつつある世の中というのは、物理的にはとても裕福で幸福な世の中のように感じてしまうが、実は、貧相な精神しか持ち合わせない、心の豊かさのない人間が犇めく生きづらい世界なんじゃあないだろうか。