凡なる全の中の一は
みんな違ってみんないい、とか、元々特別なオンリーワンとか、色んな解釈をしてどうにかこうにかこんな窮屈で小うるさい世の中に自分の存在意義や存在許可みたいなものを成立させようと躍起になってる感じがして何ともヌーンというか何というか。
誰とも関わることなく、山に籠る仙人のような生き方が実際に出来たとしても、食べ物飲み物は自然からその命だったものから恩恵を受けるわけで、真理として『独りで生きている』生き物は本来いないと思うので、必ず何かとの関わりを背負って生きることになるわけで。
小さく見ていくと、自分は必ず誰か(何か)のために存在していて、その誰か(何か)にとって自分は特別な存在だと思いたい節は誰しも少しはあると思うし、そう在ってほしいと願ってしまうものだけど、少し大きくみると、自分と同じような生き物なんてどこにでもたくさんいるし自分にしかできないことなんてそうそうあるわけではないし大概のことは大まかにしていけば何かで代替できてしまうわけで、自分が特別で他とは違うんだなんてことは実はなかったりもするような気がしてくるわけだ。
けどそれはあくまでも自分が個として独り存在している時点での話なわけで、自分という者を観測している誰か(何か)がいる(在る)ことを認識できたとき、自分という者の存在意義に変化が生じるということは在る気がする。
花は花としてそこに在るだけではただの花だけど、誰かがみつけて「きれいだな」と感じた途端その花は「きれいな花」としてそのみつけた誰かの中に在り始めるのと同じように、特別でも何でもない全の中の一としてありふれた生き物でしかない自分を、何かの拍子で選択した誰か(何か)が発生したとき、自分は誰か(何か)にとって唯一特別な存在になっているかもしれない。いないかもしれないけど。
その選択こそが凡なる者をそうでない何かに変化させるトリガーなんじゃないかと思うんだけど、そうさせるトリガーポイントというべきものがどうやって自分の中に相手の中に生まれていくのか、それがよく解らない。
よく解らないが、選択されたりしたりしたという事実があれば、因果はある。
そんな風なことを、ときどき想ったりすると、やってらんないクソなことも、やさしい気持ちでやり過ごせそうな気が、する。
こういうことを想うとき、だいたいBump of Chickenの詞が出てくる。彼らの詞はこういうときにとてもよく、ぼくの心にポコと嵌る。
"同じような生き物ばかりなのに
どうしてなんだろう、わざわざ生まれたのは"
「月虹」より
こういう疑問がわくときってのが、一定の割合であったりする。自分のことでも、他者のことでも。
でも、そういうときにだいたいにして、正解かどうかは別として出てくるひとつの解が、
"誰の存在だって世界では取るに足らないけど
誰かの世界はそれがあって造られる"
「supernova」より
ということ。こういう解釈ができるのは、そばにそういう誰か(何か)がいる(在る)幸福。
だから、
"あなたが花なら
沢山のそれらと変わりないのかも知れない"
「花の名」より
と想っても、
"そこからひとつを選んだ
僕だけに歌える唄がある
あなただけに聴こえる唄がある"
と続く、救いみたいなものが浮かんでくれば、ほっ、と、するんだ。
特別なんかじゃあなくたって、取るに足らない者だって、
"砂漠の粒のひとつだろうと、消えていく雨のひとつだろうと"
「アンサー」より
ただ淡々と黙々と、生きていることをそのまま受け止め、息を吸って吐くだけだ。