挑戦
憤怒相を彫ったことがなかった。
ほとけを彫ろうと志したころから、所謂お地蔵さんから始まり、観音さんだったりお釈迦さんであったり、そういう優しい慈悲に満ちた相ばかりを追って彫ってきた。観て触れる方もそうかもしれないが、彫るこちらも、そういう相の方が安らぐし癒されることは確かなんだ。
世の中には、慈悲で十分救われることと、それだけではどうしても救われないことがある。ように思う。少なくとも自分には、そう感じられる。慈悲だけではどうにも片付かない何かが人にはどうやってもあるから、だから、空海や偉いお坊さんたちは、明王という怒りの形相を持ったほとけを唐から連れてきたのだと伝え聴いている。
憤怒の相を以て叱咤激励し煩悩を叩き斬って救ってくれるほとけ。そういうものを自分が彫れるだろうか。十数年前に思い立ったが、とても彫れる気がしなかった。
一昨年と去年にかけて。彫れる気がすることなどずっと来ない気がした。待っていても彫れるようになるわけがないと思った。彫ろうとしなければ迎えられるわけがない。ほとけは既に木の中にいる。ここそこに居らっしゃる。それは、明王にしても同じこと。
彫ろうと思った。彫って自分の未熟をまず知ろうと思った。まずは彫って叩きのめされようと思った。
叩きのめされた。
まだまだなのだということだけがわかった。
でもそれは、自分にとってとても大きく有意義な恥だった。自分の腕がどれだけ未熟稚拙か思い知った。
ところが。
そんな不動明王をみて、自分が彫る明王をほしいと言ってくださった方が現れた。眼を疑った。恥ずかしくなった。そして、嬉しかった。
やらなければやれるようにはならない。最初からできる者はいない。そんなことは知っていた。だが、知っているだけで、解っていなかった。欲しいと言ってくださった人は、自分にそれを解らせてくださった。
穏やかに、優しく、ゆっくりと吸って吐き、凪の水面の如くの心を以て、怒りのほとけを彫れる者に、近づいていきたい。そういう、挑戦。