伝えるということ
たとえば。
花を観て何かを感じたとき、その想いを「美しい」という言葉で誰かに伝えたとする。自分ではそれ以上の言葉がないと思って「美しい」という言葉を選んで伝えるが、伝えられた人が「美しい」という言葉に持っている意味情報が自分とまったく同じだという保証はない。寧ろ、ひとつの言葉に対する意味情報が100%同じ人間はいないのではないか。
だから、自分が伝えようとしている情報を相手に100%正確に伝えることがどれほど不可能に近いかは容易に判る。
もっと判り易い例をあげよう。
赤信号の「赤」を、二人の人間がまったく同じ色彩の認識をしているだろうか。水晶体を通して網膜に入る光が信号となって脳に伝わった時に理解する色に個人差はないだろうか。しかし、それは言葉にすると「赤」というたった一文字で伝えられる。困ることはないだろう。伝わっているだろう。しかし「赤」という言葉の持つ意味情報は、二人の人間の間で100%同じである保証はどこにもない。
情報を何とかして伝えようとするなら、様々な言葉を駆使しなるべく多くの情報を相手に伝えようと苦慮することになる。しかし、どれだけの情報量をもってしても、限りなく正確なものに近づいては行くが、完全に正確に伝えることはほぼ不可能と言ってよい。
仏教、特に禅の境地に至るような話では、不立文字教外別伝といって真髄は言葉では伝え切れないものなので心から心へ伝えていくという教えなのだそうだ。こういった考え方に準えてみると、言葉で想いを伝え切ろうと試行錯誤するのは一見無意味なことにも思えてくる。
それでも、こちらが苦慮して並べた多くの言葉から、言葉自体が持つ意味に限られたものではなく、その言葉の群れから、言葉と言葉の間にある隙間に存在する関連情報を相手が得て情報の補完を始めることがある。それが連続して起こると、伝えた言葉以上に相手が多くのことを感じるようになる。
相手の心の中に溢れた感覚が、こちらが伝えようとした想いと同じかどうかは確認しようがない。が、たった一つの「美しい」という言葉だけで伝えた場合とは比較にならない伝わり方をしているのは確かだろう。
物事の本質は、言葉や文字で完璧に伝えることは困難だ。基本的には不可能と言ってもいいかもしれない。しかし、何も使わなければまったく伝わらないし残すことができない。不立文字とはいえ、言葉だけでは伝わらないからこそ言葉を駆使して多くの表現と多くの思慮で多面的にときには逆説的に表現し、その「言葉の持つ意味を超越したところにある本質や真理」を感じてもらおうとする。それらを含めて受信者が感じられれば、本質に限りなく近い状態でそれを得ることができるようになるのではないか。
ここからは思いついた余談だが、そうやって表現しようとする本質というものの場所に、代わりに自己を置くと、面白いことになると思った。
自己を知るという操作において、どのようなことをしたり感じたり思ったりしたらいいかと考えるとき、本質を何とかして表現しようとして様々な言葉を駆使するのと同じように、自己とは何かと問うその答えを、様々な言葉や手法で表現しようと試みる。すると、これまで外にばかり向いていた意識や思考が、次第に内に向かい始める。普段何気なく生きていると、人間の五感はすべて外を向いているせいか、外側のことばかり気になり多くのものが見えすぎてしまい、それらの比較対象で一喜一憂することに心血を注いでしまう。しかしそれは塩水を飲むのと同じで、いくら飲んでも喉の渇きは癒えない。そうすることなく、外へ向かおうとする意識を内へ向け、自己とは何か、自己は何をし何処へ向かっているのか、それを静謐なる心で慮ることこそが、自己を知る手掛かりになるのだと思う。
伝えるということは、根気のいる作業なんだなあ。