自己紹介と私とクイズ
自己紹介
名前:YOH
生まれ:1979年の年末頃
趣味:クイズ(下記参照)
ボウリング(パーフェクト経験あり)
野球(暗黒時代以前からの阪神タイガースファン)
競馬(東京、中山、福島各競馬場に年数回出没)
私がクイズと出会ったのは、小学2年生の時の「第11回アメリカ横断ウルトラクイズ」を見た時になる。その時はクイズというよりも旅行番組として見ていた。日本の外にはこんなに凄い場所があるのか、と思ったのを覚えている。今までのクイズ番組はTVスタジオで収録をするものだったけど、ステージ毎に今までと全く違う景色とクイズをするのがとにかく楽しかった。泥にまみれたり大声を出したり問題をばらまいたり湿原でエアーボートに乗ったりと、何もかもが違う番組に心が奪われた。もちろんクイズの内容は全く分からなかったが、挑戦者が被る早押しハットがとても格好よく見え、俺もこれを被りたい!と思ったのがクイズを始めたきっかけになる。
その時はそれで終わってしまったのだが、翌年も同じ番組があるという事を親から聞き、その年の秋を楽しみに待っていた。この年のウルトラクイズは南北アメリカ大陸を横断(というより縦断)したので、昨年よりもスケールが大幅にアップして食い入るように見ていた。当時母親が本屋で働いていたので、翌年夏に頼み込んで買ってもらった「第12回アメリカ横断ウルトラクイズ」の本が、私が人生で最初に買ったクイズの本になる(もちろん今でも持っている)。そこから学校の勉強そっちのけでクイズ番組に出たいと思いながら、ビデオテープを擦り切れるくらいウルトラクイズを見て勉強をしていた。見すぎで父親によく怒られていた。実際に出た高校も大学も地元の人間じゃないと分からないくらいの、特に頭がいいわけでもない普通の学校である。
クイズに完璧に嵌ったのは小学5年生(だったと思う)の時、社会の授業でアメリカの国旗が出てきた。その時にアメリカ国旗の星の数と赤白の横縞の線の数とその意味をクラスメイトの前で話したら、先生から褒められてクラスメイトから歓声が上がった。教科書に載っていない事を覚える快感に目覚めた瞬間でもあった。
そこから子供なりにとにかく「ウルトラクイズに出たい!」の一心で毎年出るウルトラクイズの本を見て勉強をして、当時放送していた「FNS1億2,000万人のクイズ王決定戦」や「史上最強のクイズ王決定戦」を見て、そのクイズ王に憧れながらクイズを続けてきた。他にも当時は週1のクイズ番組が多く、今も続く「パネルクイズアタック25」や「クイズサクセス」「クイズの帝王」「クイズ赤恥青恥」「100万円クイズハンター」「クイズミリオネア」にも出たいと思っていた。
しかし中学2年生の夏、今年はウルトラクイズがないという情報を聞かされた。最後まで信じずに秋の放送を待っていたが、何もなかったのを目の当たりにして絶望してしまった。そこからクイズの熱が一気に下がって当時入部していた部活(運動部)に熱を入れるようになった。でもどこかでクイズが好きというのがあって、私の心の中で燻っていた。
高校生になってクイズ熱がまた上がった。もちろん「全国高等学校クイズ選手権」があるからである。もう1つの憧れた番組に出られる!と思い、中学からの友達2人(私と違ってクイズは好きだがクイズの勉強はしていない)を誘って西武球場(当時)に2年連続で同じメンバーで行った。2年連続というのは、高校1年生時(第15回大会)は都合で参加できなかった。これは本当に絶望した。満を持して高校2年生時にクイズ番組初挑戦を果たした。当時は関東大会だけで2万5,000人の参加者がいた。でも絶対県代表になると気合を入れたがこの時は2問目で負けてしまい、3年生時は1問目で負けたので、高校生の間ではYES-NOクイズ1問だけが私の正解したクイズになる。正解した問題は覚えていないが、確か当時行われていたアトランタオリンピック関連だったと思う。高校3年生時は部活の引退大会よりも高校生クイズの予選を選んだので余計に悔しかったし、当時部活でペアを組んでいた友人に申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
大学生になり、クイズ熱は高まっていた。やっと大学のクイズ研究会に入れるからである。今まで周りに私と同じくらいのクイズの熱量を持った人間がいなかったので、同じ志を持った仲間ができると思ったからである。しかし入学後のサークル案内の冊子に「イントロクイズがメインでほのぼのやっています」と書かれていたのを見て、見学に行く気が失せてしまった。やはり私は早押しクイズがやりたかった。早押しクイズのために見学に行きたかったのに、それがないと思うと(今考えれば早合点だった)行く意味はないなと思ってしまった。
しかし大学1年生の時にいきなりチャンスが目の前に現れた。「アメリカ横断ウルトラクイズ」が復活すると実家から電話があった。私はすぐに日本テレビに葉書を送り、無事に挑戦権を得た。登録番号が01642だったが挑戦者が5万5,000人集まったので、先着順で登録番号が貰えたのならかなり早い段階での応募だったと思う。その後の話では2万人以上が東京ドームに入れなかったとも言われているので、本当にラッキーだった。1998年8月30日の始発で実家から水道橋へ向かったが、当時行き方がよく分かっていなかったので、1つ前のお茶の水で降りてしまった(乗ったのが総武線ではなくて中央線なので、水道橋には止まらなかった)。そこから歩いて水道橋へ向かったが、道にも迷ってもしかしたら間に合わないかもしれないと泣きながら走った記憶がある。無事に東京ドームについて菅谷大介アナウンサーと柴田倫世アナウンサーを見てまだ始まっていなかったと安心したが、福留功男アナウンサーがいなくて頭に?が浮かんでいた。しかし言われるがままに東京ドームの中に入ったが、同じ思いを持った人がこんなに多いのかと思った。憧れだった「ニューヨークへ行きたいかー!」「オー!」ができただけでもう感無量だった。その日は自分の席で〇と×の札を上げる、第1回と同じ形式で行われた。そこから4問正解したところで福留さんから「グラウンドに降りませんか」と言われて人工芝を踏む事ができた。人数の移動に時間がかかったので、長い間人工芝を踏んだり寝そべったりしていた。第5問目の問題が出題されたが、残った挑戦者の9割が×に向かった。私は問題を聞いた場所(たまたま〇ゾーンだった)から足が動かなかった。緊張で動かなかったのと、もし正解が〇だったらドームを突破できるかもしれないという邪な考えがあったからだ。答えは×で私の最初で最後のウルトラクイズの挑戦は終わった。負けた事は悔しかったが、それ以上に「ウルトラクイズに参加できた」という満足度のほうがはるかに大きかった。ウルトラクイズに関しては、完全に記憶のみで書いている。それが証明していると思っている。因みに私が間違えた問題は「タイガー・ウッズは寅年生まれである」。
結局大学生時代はそれ以外にクイズの活動をする事はなく、学校の講義とアルバイトで終わってしまった(大学は4年で卒業したし、アルバイト仲間とは今でも繋がっているので後悔はない)。その中でも1人暮らしをしていたアパートの周りに古本屋がたくさんあったので、クイズ本を集めるのは続けていた。情報センター出版局が発行した「クイズは想像力(理論編)(応用編)(問題集編)」「能勢一幸のクイズ全書Ⅰ・Ⅱ」「水津康夫のクイズ全書」「永田喜彰のクイズ全書」「RUQSのクイズ全書」とウルトラクイズ全大会の公式本(クイズ王の本を含む)を全て集められたのは自慢である。
社会人になっても特に地元のサークルとかに参加しようとせず(今でこそたくさんあるが、当時はほぼなかった)、クイズ番組を見て勉強したり挑戦できる番組の予選に行ってみたり(「アタック25」に1回、「連続クイズ!ホールドオン」に2回)したが、TV番組デビューは出来ずに今に至る。
いわゆる「クイズ冬の時代」に高校生大学生時のど真ん中を生きてきた私には考えられなかったが、今はYou Tubeでのクイズチャンネルや「abc」や「勝抜杯」を初めとしたオープン大会が盛況に行われている事は、とても嬉しく思う。そんな中で面白くて見ていた「東大王」(鈴木光さんを見たいというのもあったし、伊沢拓司君や水上颯君は高校生クイズの頃から知っていた)の中の「東大王クイズ甲子園2021」で優勝した笠井虹来さんがクイズバーというところにいると何かで聞きつけた。会ってみたいなと思い2024年5月6日にクイズバースアール池袋の門を叩いてみた。目の前に笠井さんがいたのも感動したが、何より目の前に早押しボタンがある!という感動も大きかった。「QuizKnock」等で見ていたものが目の前にあって、ウルトラクイズで見た出べそ型ボタン(クイズは創造力での呼び名)をこれを押せるのか!と思うと興奮が抑えられなかった。あの時のイベント「お試しスアール」に参加した人間で、確実に私だけ熱量が違っていたと自分でも思う(当時の参加者の皆様、問読みのももさん、ホールのにこさん申し訳ありませんでした)。そこからクイズの熱量がもの凄く上がって、6月に1回、7月以降は週1以上で通って現在に至るという感じである。スアールに通うようになって、私と同じくらい(それ以上)にクイズ熱を持った方が集まるので、あの場所は本当に楽しい。もう強仕も過ぎた人間だが、趣味の人生の中では自分が求めていた場所だと言える。
なので私のクイズ歴は、クイズ番組視聴歴37年でボタン歴は3か月(2024年8月現在)という非常にアンバランスな人間である。実力は全くないがこれからも関東のスアールには通うので、同席されたら変なおっさんがいるなと思いつつも、仲良くしてくれたら嬉しいです。スアールスタッフの皆様、スアールで同席された皆様、今後とも宜しくお願いします。
最後までお付き合いいただきまして、ありがとうございました。