漫画「恋は雨上がりのように」考察
#ネタバレ あります
長い長い雨宿りのお話
というのが、最終話を読んだ後に振り返ったこの「恋は雨上がりのように」という10巻のマンガ作品の印象だった。
初見であの最終話はやっぱり唐突に感じたけど、他の人の考察を色々読んでみてから読み返すと、76話と77話で描かれる店長・あきらそれぞれの視点の「もしも二人が同級生だったら」ifを読み解いていくと少し腑に落ちる。
誰かの考察で読んだけど”店長の夢想の中の同級生のあきら”は「雨がやむのを待っている」のに対して、”あきらの夢想の中のあきら自身”は「雨も悪くないな」と思ってる。
この76話と77話が実は一番切なくて二人の心のすれ違いを端的に表してる。
(関係ないが、あきら視点の店長はあくまであきらの妄想の産物なので実際よりも若干言葉遣いが荒い、とか細かい)
何がしんどいって、76話の店長は「このまま雨がやまなければ」と願ってるとこで、店長の無邪気な本心は実はあきらと一緒にいたがってる。
そして、あの時点の店長はその気になればあきらをずっと雨の中に閉じ込めておくことも出来た。
でも、そんなタラレバを吹っ飛ばして彼は大人としての役割をまっとうする。
店長は最後まで徹底的に自分をあきらの”雨宿り場所”として線引きし、
雨がやんだのに雨宿りを続けようとするあきらに「雨がやんだよ、君はもう走り出せるよ」と背中を押す。
(最後は自分の役目をあの日傘に託したようにも見える)
店長、アンタ漢だよ
「俺」と「僕」、店長の一人称
最終巻で数箇所店長の一人称が「僕」になっている箇所があって、「父親」でも「大人」でも「店長」でもない彼の本音みたいなものを話してる時だけ一人称が「僕」になっているのかな?などと深読みしつつ読むとまた切ない
「文学」と「陸上」、お互いの聖域
店長のアパートの書斎っておそらく彼の「捨て切れなかったもの」の象徴で、はじめて家に行った時、あきらは隙間越しに覗き込むのみで、直後に店長に「君が俺の何を知っているの?」と拒絶されてしまうけど、最終話ではすごく自然に店長の書斎に入ってる、店長も、自分がもう一度文学に向き合うきっかけをくれたのがあきらであることは自覚している。
この「書斎に入れる」=自分の「聖域」にあきらを招き入れるというのが上記の一人称の変化とあいまって店長があきらに心を許している証拠にみえる。
そして、あきらもかつてシフトの件で「バイト以外に”やりたいこと”があれば(シフトを融通する)」という店長の提案に「他にやりたいことなんてありません!」と突っぱねるが、店長としてではなく一人の人間としての近藤の「君にもあるんじゃないか?置き去りにした季節の続きが」という言葉に「走りたい」と本音を告げる。
一度はつっぱねた、お互いの聖域に最後はもう一歩深く踏み込むことで二人の関係は終わる。
この「お互いの心の一番柔らかい部分に相手を招き入れる」って(こう言っちゃなんだけど、)めちゃくちゃエロくないですか?
この「恋は雨上がりのように」の眉月じゅん先生って、もともとオゲレツレベルの露骨なエロが武器なのはこの作品の中でもうすうす感じられるし、次作「九龍ジェネリックロマンス」ではより明確なんだけど、「恋は雨上がりのように」の中では店長とあきらの間に肉体的な接触がほとんど描かれていないのがさらにこの”精神的な繋がり”のエロスを際立たせていると感じる。
ツバメ
終盤ツバメが重要なモチーフとして何度か登場するけど、「巣立ち」の象徴と同時に「雨のまえぶれ」でもあるのか、読み返してるときに気づいたけど最終巻の裏表紙、あきらが店長にお土産で渡したツバメのしおりからツバメが消えてるのに気づいた時は「おお、、、」となった
読み終わった後に、まるで自分も恋愛と失恋を経験したような大きな喪失感を感じる、「後から効いてくるタイプの毒」という感じの作品だった。