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本当に「好きの理由」を言語化する必要性はあるのか?

これからしばらく、わかったようなわからないような話をしたい。お付き合い願えたら嬉しい。あと、文中の写真に特段の意味はない。

サッカーにしろ、音楽にしろ、その他のあらゆることにしろ、自分が愛好する何かについて書く時に、いつも悩んで、というか困っていることがある。それは……

本当にそれらの「好きの理由」を言語化しなければならないのか?

……ということだ。

えっ、おまえ何言ってるの?それが言語化できなきゃ好きなものを世に問えないじゃん

……確かにそうだ。世に問うて賛否どちらにしろ得るためには、その物事について、如何に自分が熱狂し、愛好しているのかを、できるだけ詳細に言語化した上で流暢に説明できる必要があるだろう。
ビジネス的に言えば、愛好するための理由、つまりエビデンスを世の人々に上手にプレゼンテーションできなければならない。

しかし、私は一方でこうも考えている。

そんな大袈裟な理由なんてねえよ。「好きだから好き」で良いじゃん。

……と。

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例えば、サッカーのガイナーレ鳥取やSC鳥取ドリームスにしろ、湘南ベルマーレにしろ、フットサルのポルセイド浜田にしろ、以前活動していたところではデッツォーラ島根ECにしてもそうだ。
あるいは、音楽で言ってもローリング・ストーンズにしろ、オフコースにしろ、その他多くのミュージシャン、バンド、グループなどにしろ一様に同じことだ。
無論、それら以外の愛好するものについても等しく言えてしまうのだが、それらについて、私が愛好する理由を書いてくれ、と言われると、いつも困ってしまう。
その理由を、他人様に明確に説明できないことが多いからだ。もっと言うならば、好きという確固たる理由がないため的確に説明する言葉を持たない、というべきかもしれない。
確かに私はそうした物事を言語化するのは苦手、というより下手なのだが、それはあるとしても、私自身の「好き」は、漠然とした概念の上で成り立っていることが断然多い。

スポーツ関係の著述が多い玉木正之氏が、その著書「プロ野球大辞典」の中に於いてシェイクスピアが名付けた言葉として紹介していた「ウーマンズ・リーズン」というヤツだ。
(但し、この語や概念の発祥が本当にシェイクスピアなのかどうかは、私の調べ方が悪いのか、確認できかねたことを申し添えておきたい)

とても平たく言えば「(愛好する対象が)好きだから好き」という、論理もへったくれもない概念のことだ。
私はこれで何もかも丸く収まると思っているばかりか、好きに理由を求めてはいけない、とさえも思っている。

異論も多々あると思うが、あくまでも以下を個人的な思いとして述べておくならば、理由のある好きはたぶん本当の意味での好きではないのかもしれない、と考えている。

たぶんこれだけでは確実に誤解を招くと思うので、もう少し噛み砕こう。

私も恐らく過去には、自分の愛好するものについて、それらを愛好する理由をあれこれと並べたことがあるはずだ。
いや、間違いなくやっていると言い切る自信がある。それらを理解してもらうためには、やはり言葉による説明は、下手なりにもどうしても必要だと考えもするだろうから、それ故に言葉を連ねてしまうのだろう。

ただ、昔はそういうことを厭わなかったが、私も歳をとり、大きな病気もして、考え方もだいぶ変わってきた。
従来のように、他人にその対象を好きな度合いの強さを説いて回るよりも、自分がより深くその対象を好きでいることの方が重要なのではないか、と考えるようになってきた、ということだとお思いいただきたい。

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例えば、とある女優Aがいるとしよう。

今までなら、自分はこのAがどれだけ好きで、出演作の「X」や「Y」で演じた役柄の魅力などについても語れることを、ファンとしてのディープさと思っていた。
つまりかつては「Aをどれほどの度合いで愛せているか」という話に重きを置いていた
たぶんその前提に、愛好する対象への義務感や使命感、それらを根源とする忠誠心のようなものがあってのことだったのかもしれない。

これに対して、今でもAのことは好きなのだが、その熱狂を他者にお披露目するよりも、先ず自分自身がAを好きでいるという事実を重視したいと思うのだ。
Aのことは、自分が勝手に熱を上げている、という前提になってきた。義務や使命。あるいはそれらに由来する忠誠心と言うより、それらに囚われない自分の意思が大事だと思うわけだ。

私はここ最近特に、何かを応援する時は、「私はそれをどうあっても応援しなければならない」という義務などではなく、「私はそれを勝手に応援したい!」と意思を重視するようにしている。

義務が先に立つと、たぶんいろいろとおざなりになってしまうような気がするが、自分の意思が先に立てば、行動にしろ何にしろ、自発性が生まれてくると思う。

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何だかんだとわけのわからないことを列挙してきた。いい加減強引にでもまとめよう。

私は別に、私の好きを無理に言語化する必要はないと思っている。それをしても、本当に理解できる人はいないだろう。感覚的には何となくわかったとしても、詳細はたぶん本人以外の誰にもわかるまい。

自分が本当に好きなものを好きである理由なんて、自分だけがわかっていればそれで良いものと違うか。
それをわざわざ第三者に告知する理由がわからない。いくら理由を並べてみても、最終的には、それを聞いた他者が理解できて、共感できるかどうか。

だったら、無理矢理に言語化しなくても、自分にだけわかるようにしておけば良いだろう。もう、それで良いことにしよう。

無駄に哲学的な話をしてきたが、結局私は何を書きたいのか自分でもよくわからない。私はこのような時の言語化能力が著しく低い。説明下手、プレゼン下手というヤツだ。
こういう時にもっとうまい言い回しで、概念を説明できたら良いのに、といつも思っている。

でも、結局、こういう疑問に辿り着いてしまう。

本当に好きなものを言語化する必要ってあるのか?」ということに。たぶんこの問いは、いつまでも私の中につきまとい、残り続けるのだろう。それほどまでに、深く広く困難な問題と言えるかもしれない。

基本的に他人様にどうこう、と偉そうに提示するような文章ではなく、「こいつ、馬鹿でぇ」と軽くお読みいただけるような文章を書き発表することを目指しております。それでもよろしければお願い致します。