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小説 俺が父親になった日(第六章)~あいつの思いと俺の事情(2)~
新宿駅の改札を出た直後、何度も咳込んだ。
ここ一ヶ月ずっとこんな感じ。煙草のせいかも…だが、ここまで辛いのは初めてだ。
マスクの上から口を手で押さえながら、混雑を避け駅の柱の前にようやく辿り着いた。
広告が刻々と入れ替わるサイネージの傍で、苦しさのあまり胸を両手で押さえ、咳き込みながら暫くうずくまった。
「お前、煙草止めたら?いつまで経っても治らないぞ」
東通に面した屋外の喫煙所で、同じ営業一課の沢木さんが眉間に皺を寄せる。キラを預かるまで俺が猛烈にやってきた仕事を、上手く振り分けてくれた五つ上の先輩だ。
「いや…これ止めたほうが、むしろやってけないんで」
心身のやつれ具合を無残に晒した俺を見て、彼はデスクで決して見せることのない呆れ顔をした。
「やり過ぎなんじゃねぇの?相変わらず…まぁ、前からだけどな」
自分でも分かる。苦笑いにさえ覇気がない。
「せっかく周りに振ったのに、ちょっかい出し過ぎなんだよ。手柄取られたとか未練とかあるんだろうけど」
「いや、前やったことが少しでも役に立てばと思って…」
そう言うと、口を尖らせてこう返された。
「へぇ、お前にもそんな情あったんだ。意外意外」
俺は相当冷血な人間だと思われていたらしい。余計に滅入ってしまった。
「いずれにしても、今のままじゃ持たないぞ。何かやり方変えないと共倒れになるぜ」
「はぁ……」
やり方を変える…仕事を変えるという選択肢はない。充実しているし人にも恵まれているし、このまま続けたい。
現実的な話、収入を下げたら全てが立ち行かなくなる。
キラを見捨てるなんてあり得ない。そうすると ー
ー 気付けば荒木課長も壁の隙間から顔を覗かせていた。
「課長、こいつに何とか言ってやってくださいよ」
沢木さんは思い切り俺を指差し、苛立ったニュアンスが通じるような言い方をした。
「えっ?そろそろ俺の出番か?」
自分自身を指差して、荒木課長はコソコソ声でそう言った。
俺が言葉にしなくても、俺の苦境はすっかり周知の事実のようだ。
「中島。全部手に入れようなんて思うなよ。お前はいつもそうだ」
「はぁ…」
体調のせいか気力のせいか、言葉が全然頭に入ってこない。空返事ばかりが俺の口から垂れ流されている。
「諦めも肝心だ。何かを切り捨てることで上手くいくことも…って、おい、中島?」
どうも俺は立ったまま眠りそうになっていたらしい。顔がぼんやりと熱いのは気付いていたのだが。
「はいはい、そんなんでオフィスに居られちゃ迷惑迷惑。もう今日は帰れ。そんなんじゃ貴羅くんの迎えもままならんじゃないか」
課長は強めに背中を叩き、帰るようにと俺を促した。
「いや、でもまだ仕事が…」
「今日そんなに大事なもん、残ってたっけ?」
「はい…昨日のダイマツさんの報告書が…」
「そんなのそのうちでいいいい。上手くいったのは昨日の連絡で分かってるから。下手におかしなこと書かれるほうが余計に困る。まずその熱治してから帰ってこい」
課長はあっち行けと右手を何度も振った。気遣ってもらえているのか、ただ辛辣なのか、今の俺にはよく分からない。
「病院には絶対に行けよ」
トボトボとふらつきながら歩く俺の背後から、割とシリアスな沢木さんの声が聞こえた。
現状が白日の下に晒されたお陰で、張り詰めっ放しの気持ちが緩んでしまった。
一旦小休止しろということなのだろう。
やはり風邪をこじらせたらしい。
熱は三十八度二分になっていた。気管支炎にまでなっていた。二週間分の大量の薬を鞄に詰め、幼稚園最寄りの小さな駅ビル内のカフェで、お迎えまで時間を潰すことにした。
ソファ側に座って解熱剤を水で流し込み、頭を垂れて目を閉じた。
「何かを切り捨てるって…切り捨てるもの…切り捨てる…」
頭の中でそう言葉を巡らせるうちに、俺は眠ってしまったようだ。
目を開けた時にはもう、カフェラテの湯気はすっかりなくなっていた。
手を繋ぎ合って駅ビル内のスーパーマーケットへと向かう母子が目に入ってきた。
母親の余裕のある…俺には少なくともそう見えた…そんな表情を見た瞬間、俺はふと思い付いてしまった。
正しいのか間違っているのか、判断もつかないような状態で。
ー つづく ー