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小説 俺が父親になった日(第五章)~誰かのために生きること(2)~
それでもキラの存在は、腐り切った俺自身を多少なりとも「まとも」にしてくれた。
一人の時のほうがむしろ時間が有り余っていた筈なのに、キラがいるだけで穏やかな時間が流れていた。その中にいる俺もまた、何処かしら穏やかな思いになることが、気付けば増えていた。
十月最初の週末だっただろうか。
西向きの窓からベランダへと風が吹き抜けた。さすがに夕方ともなると冷えるな、とノートパソコンから視線を外して思い切り背伸びをした。
「うおっ、いたの?」
背もたれから逆さまのキラが目に入って、思わず声を上げた。
懐具合が芳しくないので、八月末から家計簿をつけ始めていた。先月の出費を足し算しただけで頭を悩ませ過ぎて、キラの気配に全く気が付いていなかった。
「ん?どうした?」
「ううん、なんでもない」
そう言いながらも、液晶の中をまじまじと見つめているのは分かった。
「なにしてるの?」
「まぁ、なんだな…お仕事みたいなもんかな」
「ふぅん…」
そう言った後歩き出し、キュッと音の出る青いサンダルを履いてキラはベランダに出た。両手で握った柵の向こうを暫く眺めて、急に俺のほうへと振り向き、小首を傾げた。
大人が考えるほどの意味は、多分ない。それでも、そうすることの理由はキラ自身にはある。俺ができることは、この瞬間には何もない。
ベランダから部屋に戻ると、キラはおもむろに窓を閉めた。窓についている何かが気になるのか、それとも窓の向こうの何かがまだ気になるのか。
なんだか猫とか犬のようにも見えてくる。迷い込んだままここを住処にした気まぐれな子猫。まぁ、人間も生き物だから見た目は違えど同じようなものだ。
キラの考える理由を想像してみる。テーブルに肘をついて、そんなことを楽しんでみる。
今度は窓に両手をつけたと思ったら、顔もベタッとくっつけた。微かな息が漏れている。またもや急に振り返ると、窓が曇って鼻と口の跡がついていた。
俺はフッと笑った。それを見てキラも首を傾げてニッと微笑んだ。
「今日はオービィに行こっか」
俺は肩甲骨を寄せるように、身体を伸ばして言った。
「ドルフィンレンジャーかっていい?」
戦隊もののミニカーの付いたクランチチョコレート。今はマリンレンジャーとかいうやつらしい。三つ揃ってあと二つだ。
「えー、またかよ…それなかったら別のお菓子、な」
ドルフィンレンジャーは一番人気なのでなかなか手に入らない。
「えー、今日はあるよー」と、何を根拠にあると言っているのか?
通園のためにと、格好つけの俺がママチャリを買った。籠はもちろん荷台にはチャイルドシートも付けた。おかげでちょっと遠いスーパーマーケットにも行ける。キラを連れて行ける場所も増えた。
仕方がない。そこになかったら二つくらいハシゴをして探してみるか。
さほど意味のない時間が、一日一日を少しずつ、一つずつ、色鮮やかにしてくれる。
意味のないことなんて一つもないのだろう。そう思う。
ー つづく ー