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小説 俺が父親になった日(第七章)~『普通』って(1)~

 先方との打ち合わせが伸びに伸びた。会社に戻るなり全てを明日に残してオフィスを飛び出した。

 初めて降り立つ高架下の駅から、手書きのメモとスマートフォンのマップを頼りに、樋口さんの家へと俺は歩みを進めていた。
 夜の八時過ぎ。店の灯りが残る駅前から外れていく。
 タワーマンションや高層ビルに慣れ過ぎたせいだろうか、背の低い家々は暗がりではどれもこれも同じに見える。いくら目立つ目印だと教えられても、その情報だけでは俺には頼りない。

 五分くらい経っただろうか。困ったら電話を…そうしようと立ち止まると、俺は運よく道の向かい側、アパートの二階の柵に立て掛けられた赤いロードバイクを見つけた。
 幼稚園で何度も見かけたものと同じ。つまりそこが樋口家の玄関ということだ。
 賑やかな声が聞こえる先のドアホンを押すと、誰よりも大きな声で彼が返事をした。

 「まぁ上がってってくださいよ。ついでに夕飯食べていきませんか?」

 園外の樋口さんは一層砕けた言葉遣いだった。扉の向こうから流れ出す暖かい空気も相まって、少しは気を緩めてもいいかと思えた。
 奥さんと二人の子供を紹介された。上の女の子はなんでもキラと同学年らしい。
 「職場に娘がいると、ねぇ」と友夏ちゃんをここから十分以内にある幼稚園に行かせている。ホットカーペットの上で、いつの間にか母親の膝に寄り掛かり眠る彼女。
 一方のキラは柵付きのベッドの端に立ったまま、寝ている赤ん坊をじっと見つめていた。

 これが穏やかな家族の風景というのだろう。俺は不思議な思いで眺めている。
 当たり前のようにそこにあるものを、俺は作れずにいた。

 「お代わりはどうです?」そう尋ねる樋口さんに、俺は不意に思いのままを口にした。

 「何が違うんでしょう…」

 首を傾げ怪訝な表情になるのも無理はない。
 だが彼は動じることもなく答えた。

 「違うのはもう分かったことじゃないですか」

 思わず彼を見返した。もしかすると感じの悪い視線を投げつけたかも知れない。

 「いやいや、そういう意味じゃないですよ。どの家庭も事情は違うってことです」

 俺の受け取り方を敏感に感じたのだろう。彼は慌てた顔をして全力で右手を横に振った。

 彼は目尻を下げつつ向かいの席に座り、黙ったままの俺の視線をしっかりと捉えた。

 「でも、事情はどうであれ、我が子が間違った『普通』を覚えないように、環境を作ってあげないといけないでしょうね」

 間違った『普通』?
 俺はその意図を聞きたかった。俺はその間違った『普通』を、懲りもせずしでかしてしまいそうだったから。

 「はい。あくまでも僕の考え方ではありますが、少なくとも…」

 思わぬところで彼の言葉に少し間が空いた。

 「…少なくとも子供にとっては、特殊な環境であっても普通のものに映るんです。例えイヤだと感じたとしても、異常だとは気付かないし、普通だと信じたい ―」

 意外な返答だった。一瞬論点がずれ始めたように思えて、その意図が分からなかった。

 だが、大人の立場ではないようなその言葉が、俺には何故か彼の叫びのように聞こえた。

 「― だからこそ、他の子と比べたくなります、多分……それでも目に映る今のほうがいいと思えたら、そう子供に思わせることができれば……そう思ってもらえるように、やっているだけです」

 淡々と口にし、彼は僅かに首を縦に動かした。
 自分に納得させるような素振りに見えた。

 ようやく分かった。俺もまた少なからず抱いた感情だ。
 未熟なりに自分の中で感じ、拭い去れない強烈な違和感。
 その感情には間違いなどないのに、言葉にできない。親に通じない。
 語彙力の問題ではない。表現できないものを伝えることなど、大人であっても難しい。
 そしてその感情は、大人になっても消え去らず、むしろ経験で具体性を増してしまう。

 形になったものを口にした目の前の彼が、癒えない傷を抱えた少年のように見えた。

 俺は思わず口を滑らせた。

 「もしかして、自分のようにならないようにと……」

― つづく ―

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