[短編小説] 雲底の錠~鬼の舌震(おにのしたぶるい)
国道から県道25号線に入った辺りか、フロントガラスに点々と雨粒が音をたて始めた。
助手席にいるはずの彼女はいない。
こんな憂鬱な気分でここに来るはずじゃなかった。いや、こんな気分なら来るのを止めるべきだったのだろう。俺にも取るに足らない意地があり、それが俺を一人でここに来させたのだ。
昼時を過ぎると山深いこの地の薄暗い雲も、遥か遠い空で風に流される。雨はまた止んだ。
ジッパーを首元まで上げ車を出ようとしたその時、麻美からのショートメールの着信音が鳴った。
「ながれにさからうな そのまままえをむけ」
「はぁ?」
喧嘩中だからという訳ではないだろうが、なんだこの唐突な文章は。
俺は画面を訝しく睨みながら、遊歩道へ降りる階段へと向かった。
中段くらいまで下りたくらいで、また着信音が鳴った。
「あかくうつくしきものをめざせ すべてみえているぞ」
悪戯にも程がある。すべてみえているぞ、なんて。麻美も結局ここに来たのか。
階段を戻って広い駐車場を見回し階段の上から遊歩道を覗き込んでもみたが、それらしき姿はどこにもない。俺の眉間には自然と力が入り、どこにいるのかと麻美へ返信をした。
時にうざったいくらいすぐに返信が来るのに、今日はいつまで経っても応答がない。
待ち合わせした9時過ぎに些細な行き違いから電話で言い合い、怒りに任せてこっちから切った。その後に何があったのだろうか。何かに巻き込まれたか…
「まさか…な…」
不安と罪悪感を無理矢理押し殺した俺は右手で携帯を握ったまま、今日の空と同化しそうな灰色のパーカーのポケットに両手を突っ込み、再び階段を下り始めた。
「あかくうつくしきもの」の意味…赤い何かだろうという曖昧な想定を基に、俺は無意識にその正体を捜し始めていた。
渓谷を縫って吹いてきた湿気を含んだ冷たい風が、散髪したての首筋を横切った。
11月ともなれば、この辺りは一足早く晩秋と初冬とを行き来する日々が始まる。俺は一回ブルッと震えてみて、黄、赤、茶色に彩られた、川側に枝垂れる木々を見上げながら、いつもより速足で歩みを進めた。
眼下の獅子岩の上に、赤、というか赤茶けた楓が一葉見えた。
これか?と思った瞬間、葉は吹き下しの風に飛ばされ、流されていった。
軽く溜息をつくと、ピリリッ……
「あかきものは てにとどくもの あわてることなし まえをいけ」
「チッ」
俺は舌打ちした。隠れて見られているような指摘に苛立たずにいられなかった。
ただ、俺は鈍感だから、その視線を全く感じてはいないのだが。
ふと見上げるとまたひとつ吹き込んだ北風に乗って、大きな鳥がすーっと上空を横切っていった。
舌震橋の欄干に両腕をついて、俺は水瀬を眺めながら繰り返し呟いていた。
「てにとどくもの…てにとどくもの…」
背後を何人か通り過ぎる度に、朱い吊り橋はうぃんうぃんと上下に揺れる。
手に届く…すぐそこに見えていても手の届かない所にあるのならば、赤くてもそれではない。
俺が首を傾げて軽く目を閉じ頭を掻くと、先程の鳥が力強く一声鳴き、一回旋回して飛び去った。まるで俺がヒントを読み解いたことを教えるように。
「…だろ?」
そんな都合のいい解釈をしつつすっかり麻美のことを忘れていた俺は、軽いスキップをして橋をわざと揺らしながら渡り切り「あかくうつくしきもの」を再び捜し始めた。
晩秋の風で、遊歩道の端に立つ細い枝木が揺れている。
俺は振り落とされそうな紅い楓の葉を一枚手に取る。
「あかきもの」のインスピレーションを搾り出す、それだけのための無意識な動作。これじゃない。これでは何の答にもなっていない。
ヒントを心待ちにしていた俺のもとに、次のメッセージが届いた。
「うつくしきものは こわれやすきもの もとにもどせないもの」
手にしたら壊れてしまうもの…間もなく次の着信が。俺はすぐさま画面を見た。
「ふれなければ こわれなかったのだ こわれなかったのだ」
文面の様子がこれまでと異なり、繰り返しの言葉には自責の念が映し出されている。
間もなく、携帯電話から逸らした視線の先に、遊歩道の真ん中辺りか…雨か朝露か何かで薄くはなってはいるものの、確かに赤く小さな点を見つけた。その点は、不規則ながらも道の先へと繋がっていた。
俺はその痕跡を追い天狗橋の中心まで辿り着くと、聞き覚えのある鳴き声が背後から聞こえた。
振り返った目の先には、天狗岩の先端に、やがて来る冬の雪を纏ったような羽に覆われたオオタカ。何処か憂いを帯びた表情、泣き腫らしたような赤い目をして佇んでいる。
そう。少なくとも、俺にはそう見えたのだ。
俺の視線にたじろぐこともなく、むしろ俺のほうに訴えかけるように凝視し続けるそのオオタカに何かしら通じるものを感じたその瞬間。メールの着信音が静かな谷に鳴り響いた。
「あかきものは はかなきもの おもいをとわに ふかくうめよ」
赤く小さな跡は、天狗橋からまだ先に点々と続いている。オオタカの視線に後ろ髪をひかれる思いのまま、俺は再び歩みを進めた。
「はかなきもの」「とわに」…これは血痕なのか。俺はようやくその事実に気が付いた。
巨大なはんど岩の陰に、確かにその主は横たわっていた。
穏やかな鶯色の姿をした、小さなカワラヒワ。血痕は、そこで途切れた。
ふと振り向くとオオタカもまた、小柄で美しいこの小鳥を見つめていた。
「届くことのない恋、か」
彼女の背中には、鋭利なもので突き刺されたような跡。
想いを遂げようとしたからこそ、傷つけ、取り返しのつかなくなることもあるのだ。
彼の切実な想いは、人生の機微もまだ分かっていないこの俺にようやく通じたのだ。敢えて誰かの目につく場所に。彼女をこれ以上壊さないように。息絶えてもなお美しいその姿のまま静かに横たえさせ、そして俺をここまで連れてきたのだ。
そして、俺は彼の想いを遂げた。
雨で柔らかくなった山肌の土を少し掘り、彼女の上に柔らかく土を載せ、パーカーのポケットに入れていた紅い楓の葉を一枚彼女に手向けて、その場をあとにした。
「ピェー……ピェー……」
オオタカが、けたたましい羽音と共に俺の真上を三回旋回し、飛び立った。
「ピリリリリ……」
オオタカからのメール、ではない。電話の着信音。麻美からの電話だ。
「えっと…ごめんね、さっきは…」
「あ、あぁ…別にいいよ。こっちも悪かった、ごめん」
「やっと電話ができたぁ…親と出かけた時に携帯失くしちゃって…交番に誰か届けてくれてたからよかったけど」
「え? そ、そうなんだ…今何処にいる? 昼飯おごるからさ、一緒に食べよう」
麻美のちょっと弾んだ声色を受話器越しに聞きながら、帰りの遊歩道にはらりと落ちた、今日一番鮮やかに紅い楓の葉を手に取った。
冬が近付く湿った空気も、不思議と柔らかく優しいものに包まれているような気になっていた。
俺、もっと頑張って、麻美を大事にしよう…って、何を頑張ればいいのかな。自分自身に呆れてニヤッとした俺は、遠く響く彼の途切れ途切れの鳴き声に背中を押され、駐車場へと急いだ。
前から気になっていたあのお店、麻美は気に入ってくれるかな。楓の葉をダッシュボートに載せ、エンジンをかけた。
完
(※この文章は、作者本人が運営していたSSブログ(So-netブログ)に公開していたものを転記し加筆修正したものです。)