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小説 俺が父親になった日(第五章)~誰かのために生きること(1)~
朝ご飯は大事だ。俺は実家を出て以来ロクに食べていなかったが。
一応見た目はまともなものができた。トーストとスクランブルエッグとサラダと牛乳。全く自慢にもならないが、料理のできない俺にしては、よくできた。
最も格闘した結果、一番自信がなかったスクランブルエッグを、キラは割と気に入ってくれたようだった。だが…
「これ、たべたくない」
「えっ?キュウリ嫌いなの?」
「ムニュムニュがきらい」キラは下を向き、テーブルの下で両手をモジモジさせた。
「もしかしてこれも?」俺はくし切りのトマトを指差した。
「うん…」
「えぇっ、なんだよー。キラ、お前何が食べれるんだよ!?」
朝っぱらからただ天を仰いだ。
昔から出されたものは何でも食べる俺にとっては、想定外のハードルだ。
好き嫌いに目をつぶるべきか、意地でも食べさせるべきか。もし、アレルギーなどを持っていたら…昨日までみたいに外食なんてことも、おちおちできやしない。これは、派遣の井戸木さんにでも相談してみようか。
昨晩はテレビで「カーズ2」をやっていた。キラが観てくれている間に洗濯やら風呂やら、できることをやってしまおうと思っているうちに、二十三時を過ぎていた。
遠くからキラの笑い声が何度も聞こえた。声を上げて笑うのを、初めて聞いた。
それは良いことなのだが、子供の睡眠不足の翌朝のことまで俺は頭に入れていなかった。
「起きるぞ、キラ」俺は多少遠慮をしながら、ベッドの右端で眠るキラを、タオルケットの上からつついて起こそうとした。
全然起きる気配がない。スースーと可愛げな寝息が途切れない。
もう朝食はできたぞ。洗濯物も全部干したし、俺ももう着替えたぞ。
俺はキラからタオルケットを無理矢理引っ剥がした。ようやくモゾモゾと身体が動き出した。だがまた動きが止まった。
寝息が再び出る前に、俺はキラの右肩を叩いた。もう起きてくれないと、マズい。
「…んんっ…」両手で目を擦り眠さを猛烈にアピールしてくる。
「もぅ、昨日遅くまで起きてたからだろ…ほら、起きないと…」
ここで屈していては、食いブチを稼ぐことさえできなくなる。俺はキラの肩を揺らした。
だが相手も強烈な一手を指してきた。
「…きょう…やすむぅ…」
「マジか!?俺仕事なのにどうすんだよ!」
一番参るのが、トイレだ。
「お前、我慢してんだろ、おしっこ。出る前に行っとけよ」
「ううん…」
「顔が我慢してんじゃん」
「ちがうもん…」
「もぞもぞする前に行くんだぞ、出そうなんだろ」
「うっ、うん…」
「よし…っておい、あぁっ…もう出てんじゃん!」
おむつを外そうとしているからこそ、用を足すことに関する騒ぎはことさら多い。外出をするとき以外はパンツに代えてはみたものの、そう簡単に上手くはいかない。
こうやって毎日何度も促しても、恥ずかしいのか意地なのか、それとも直前になるまで本当に気付かないものなのか…トイレの手前の廊下で漏らすこともあれば、ズボンを下ろした直後にやらかしてしまうこともある。
それくらいならまだマシだと思う。「だいじょうぶ」の言葉を信じた二、三分後に黙って歩み寄ってきたら、股下がビショビショでリビングに水溜りができていたりすると、相当凹む。
今日はできたと胸をなで下ろしても、次の日は間に合わないなんて、日常のことだ。
初めの一週間…いや週の半ばくらいまで、俺はキラを客人の子供かのように接していた。
遠慮があった。だがしかし、顔を合わせている間中、こんな感じでグズられてしまうと、さすがに遠慮をしている場合じゃなくなる。
ここはキラの生きる場でもあるが、俺の生きる場でもある。
大人になっていつの間にかできてきたことが、簡単にできなくなっていた。
所詮は一人で自分のことをやり、その責任だけしか取れない…それさえ疑わしい人間だった。
つまり、他人と共に暮らすために必要なことを、結婚して我が子までできたというのに、俺はほとんど吸収していなかったということだ。今になって慌てて真似事をしたって上手くいく訳がない。
そんなほぼ丸腰の俺が、人様の子供をどう育てられるというのだ ー 無謀な戦いを仕掛けたと、誰からも思われたのは当然だな。
家族の庇護の下で生きるのがレベル1、パートナーと共に暮らすのがレベル5くらいとしたら、子供を育てるのはレベル20くらい、一人で育てるとなると単純計算で40…そんなところか。難易度が一気に上がり過ぎている。
子供と共に暮らしていくために必要な知識も経験も、俺にはまだ無さ過ぎる。それでもなんとかその場しのぎで応酬していくしかない。
休むとキラが宣った日は結局、途切れないグズり言葉をずっと聞きながら、俺がキラの身支度も着替えもトイレも全部やり切った。
何もする気になれないことも、子供にはあるのだ。
自分もかつてそうだったという記憶を都合よく抹消しているこのボンクラ頭にとって、結構理解し難いことなのだが。
ー つづく ー