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小説 俺が父親になった日(第六章)~あいつの思いと俺の事情(4)~
ん? 一瞬その言葉が理解できなかった。
一時預かりって…ここで預かってもらえているのに、何処のことだ?
戸惑いに視点が定まらない俺の目を察して、樋口さんは語気を少し落として説明した。
つまり、帰りが遅くキラが最後の一人となったら、彼が自分の家に連れて帰る。俺はその日は保育園ではなく彼の家に迎えに行くという話だった。
「いや、いくらなんでもそれはご迷惑にも程があります…」
「一度に解決できる問題じゃありませんから、まずは負担を少なくする方法を考えましょうよ、ね」
体調が悪いことがいつも以上に俺を恐縮させている。多分それも彼はお見通しだ。
「そうすれば私の帰りも早くなりますし、保育園にとってもよいことです。ね、園長」
園長先生は呆れて苦笑いだ。
「言ったじゃないですか。深入りさせてもらいます、って。時間外はあくまでも個人的な家族間の付き合いってことで。これなら納得できますよね?」
体調が悪いせいだろう。彼の発する「ね」がやたらと気になった。
だがそれ以上に、この樋口という人は何故、俺やキラのことをここまで気に掛けてくれるのだろうと、不思議で仕方がなかった。
樋口保育士に強引に押し切られるような形で、一旦話は収まった。
キラはこの保育園に留まり、その間に俺は根本的な解決策を講じることとなった。
もうすっかり暗くなっていた。キラにも小さなマスクを着け、いつもより早い時間に手を繋いで二人は保育所を出た。
黄色い灯りのコンビニを通り過ぎた辺りで、再び俺は咳き込み出した。
マスクの上から覗く目は、いかにも辛そうにしかめていたのだろう。
「くるしくない?」
俺を心配そうに見上げるキラが、そんなことを俺に言うものだから
「う、うん、ちょっとな…でも病院に行ったからもうすぐ良くなるよ」
つい強がってみせた。
俺がこれくらいの頃、こんな風に大人に気を遣ったことあっただろうか。
マスクの下で思わず下唇を噛んだ。気が付けば俺はキラの頭を軽く撫でていた。
「なぁキラ。はるとくんと遊ぶの、楽しいか?」
「うん!」
これ以上聞くのは止めることにした。
眼下から見上げるキラの嬉しそうな瞳を見てしまった以上、例えばの話をすることなど、意味のないことだと思った。
この日は雨は降っていないが、電車を乗り継いで帰った。ふらつく身体で自転車など漕げる筈もない。
府中駅を降り並木道を横切って、マンションに向かって歩く俺たちは「馴染みの」不二蔵へと入った。混み合う店内の小さな二人掛けのテーブル席に、ようやく辿り着いたといった風情で、俺は立て付けの悪い椅子へと腰を下ろした。
「おっ、遂に風邪引いたか兄ちゃん!」
威勢のいい声は今日のような日は疲れる気もするが、それもこの店らしくていい。
親父さんの声に黙って頷くと、女将さんが「伝染されたの?」と聞きながら「お子さまディナー」といった感の先付をキラの目の前に置いてくれた。ポテトサラダはキラの定番おかずになっていた。
俺は梅のお茶漬けだけを注文し、自分だけ風邪をひいたのだと、ごく簡単な手振りだけで伝えた。言葉が出ない程疲れ果ててしまっていた。
小さく切られた「生姜焼き定食」をキラがパクついている間に、既に食べ終わり多少気力が戻った俺は女将さんに一応聞いてみた。
「この辺りの保育園とか幼稚園、やっぱり一杯なんですか?」
答えは渋い表情と傾げる首で大体分かった。
どうしよっかなぁ…浅く腰掛けてだらしなく背もたれに寄り掛かりながら、多分脂身を噛み切れずずっと頬張っているキラと視線が重なった。
俺の大事にしたいもの、必死で守らないといけないものって…切り捨てられる、諦められるものって、どれなんだ……
それに気付く時は、割とすぐに訪れた。
ー つづく ー