なにもないところわざわざ行くということ
京都の北、若狭湾に面した丹後半島の伊根町に行ってきました。続けて3人の方から、伊根町がいい、ぜひ行ってくださいと言われたことがきっかけでした。
伊根町には、舟屋という独特のスタイルの建造物が海岸に沿って建ち並んでいます。遠くから見ると、美しいブルーグリーンの海の上に、ずらりと家が浮かんでいるように見えるのです。この風景を初めて写真で見た時に、無性に惹きつけられました。見たこともない風景なのに、とても懐かしいと思いました。
京都出身の健一くんも知らなかった町ですが、人口2100人ほどの町に、実は年間30万人もの観光客が訪れるそうです。コンビニはありません。スーパーもホームセンターも見当たりませんでした。お魚が美味しい町なのにお魚屋さんも一軒もありません。ほんとうに何もない。何もないけど夜空に星があります、とレストランのポスターには書かれていましたが、私たちが行った晩は雨模様で、星すらありませんでした。
午後に到着し、小学校の前の駐車場に車を停めて、傘をさして散歩をしました。酒屋さんを覗いたり、港にたくさん飛んでいる鳥を見て、あれはうみねこだろうか、カモメだろうか、ジョナサンだよと話したり、湾を見下ろせる展望台に登ったりしてぶらぶらしているうちに、ゆっくり時間は過ぎていきました。
泊まり先の宿からお店に夕食を予約してもらっていました。お店の入り口の戸を引くと、そこは、大きめのおたくの玄関のようでした。靴を脱いで、お邪魔します、といいたくなるお家感。飲み物の注文を取りに来た息子さんらしき人にビールをくださいと伝えると、
「とりあえずビール」と振り向いて、大きな声でキッチンの入り口にいる母さんに伝えている。とりあえずって言ってないのにと笑ってしまった。
食べたい料理を一皿ずつ伝えると、息子さんが、都度振り返って、お母さんにつたえる。お母さんがそれをもう一度大きな声で繰り返すと、お父さんが料理をつくり始めている様子。家族の共同作業のようでした。
一皿目のサラダか出てきた時、えっというくらい普通のお家感満載。ひそかに不安になって健一くんの方を伺うと、一向に気にしている様子はなく、うれしそうにお箸を割っていました。こういうお店の選択には信じられないほど鼻が効く人です。大丈夫らしい。そのあと出てきたお刺身、全力でネギに覆われたへしこ寿司。盛り方におしゃれ感はないけれど、どれもとってもおいしかった。最後に出てきた煮魚は、五十数年間の人生一おいしい煮魚でした。この町に魚屋さんはなく、誰もがバケツを持って長靴を履いて漁協へ魚を買いに行くのだそうです。
翌日宿を出発するときに、オーナーさんと京都市内のお菓子屋さんの話に花を咲かせた後、今日は鳥取のパン屋さんに行くんですと話すと、
それひょっとしてひょっとしてあそこですか?
多分そこです!タルマーリーです。
あー、やっぱり!そこ行きたいと思っているお店です。いいですね。
関東にいる時から、ときたまオンラインで取り寄せていたパン屋さん。京都からだとクルマでいけない距離ではなかったので、目的地に設定しました。ジョギングもドライブも、行き先はいつもパン屋です。到着すると、ネットで見た時はものすごい山の中のお店かと勝手に想像していたけれど、意外と街中にあって、ホッとするようながっかりするような。ところが、一歩お店の中に足を踏み入れると、そこは、一瞬でパンの焼ける匂いに包まれた森の中のお店になりました。外には樹木に覆われた森が広がり、鳥のさえずりが聞こえる。どこか外国の村にあるお店、そんな感覚に襲われました。頼んだあんバターパンは瞬く間に消えて胃袋に収まりました。別のパンを注文しにガタガタと音を立てて席を立ちました。オンラインで買ったパンの100倍美味しい。
ドライブの道中は、わたしがひとりでしゃべる、健一くんはふんふん聞いています。晩ごはんお酒が入ると健一くんがたくさんしゃべる。散歩しながら、景色を見ながら思いつくまましゃべります。トンネルの中は歩きたくないとか、ここの階段を登ろうとか思いつくままを口にする。その日の夜家に帰ってきて、ある言葉が自然にすうっと出てきました。自分の仕事について、言葉にしたかったけれど、言葉が見つからずおなかの中から外に出られずにいた思いでした。