くすのき交換ノート第一弾!
コロナ・コロナ・コロナだ。会社にも二ヶ月近く行っていない。
ここ3週間毎週土曜日の朝にくすのき会のみんなと色々zoomで話している。このnoteは主に中の人たちが読むのがメインだと思っているので、会の詳細は省く。
先週の会で、「交換ノート的にメンバーがそれぞれの思考也を文章に残して、徐々に発信していくのがいいのでは?」ということになり、恐れ多いが、その記念すべき第一弾を担わせていただくことになった。(中原くんのこの記事が第1回目なら第2回めかも笑)
今回は主に2点書こうと思う。
①僕がくすのきに期待すること
大学を卒業して2年間全く顔を出していなかったが、1月に久しぶりに参加した。2年間、社会人として仕事に精を出していたが、なんとなく自分の視野が狭まっているような気がして、いろんな人と話したいという思いからだ。
久しぶりに参加して本当に驚いた。ここに集うメンバーは異次元に聡明で、優秀である。形而上と形而下の双方を行き来し、本質を、未来を捉えようと主体的に誰もが本気で考え、発言している。自分の話したいことだけを話す人はおらず、傾聴し、相手の意思を汲み取り、解いて、広げて、再構築していく。
そんな難しいことをさらっとやってのけてしまうのである。少なくとも今の会社の会議では、このような緊迫と心地良さを兼ね備えた質感は存在しない。それゆえ有意義な議論には発展しないのであろう。
仕事はとても刺激的で楽しいが、忙しさを言い訳に外に目を向け、じっくりと問いに向き合う機会が圧倒的に少なくなっていた。くすのきについては、「同一性からの脱却」「問いへの回帰」が個人的な参加目的であろうか。
- 同一性からの脱却
「同一性からの脱却」は、会社の構成員が社会全体で見たときにかなり偏った層に限定されており、その層と長時間時間共に過ごすと、自然とその特定層の特定の考え方に”毒されている"のではないかという懸念から来ている。
特定の価値観に縛られないためには、意図的に外部に機会を見つけて飛び込まないと行けないし、令和と言う時代は、一つの組織に属して単一的なインターフェースを通して世界と関わる時代ではないと思う。
- 問いへの回帰
「問いへの回帰」というのも、会社にいると、気づけば「如何に収益性を上げるのか」だけが唯一かつ至上命題のようになっていた。
それはそれで大事なのだけれども、その上にある事業の目的、さらには人生の目的って?俺ってどんな人生を歩みたいんだっけ?この世界はどう変化していくんだろう?みたいなところが疎かになっていた。
学生時代はもっと自由に旅をして、世の中に対して問いを立て、向き合っていた気がするのだ。柵から脱し、問いに回帰する。それこそがくすのきであると信じている。
コロナ、少子化、AIの台頭、気候変動、経済成長の限界などなど、我々を不安にさせる話題ばかりだが、そんな時代でも、若者が集い、語らい、力を合わせれば、素敵な未来を築いていけるのではないか。
心からそう信じているし、くすのきにはその新しい時代を切り開いていく人が集まっていると思う。私もその一人となれるよう頑張らねば。
②最近みんなで話し合ったこと
僕が生まれた1995年は関西淡路大震災や地下鉄サリン事件があった年だ。それからも、同時多発テロ、リーマンショック、東日本大震災等様々な危機が人類を襲った。
その時、僕は学生で、なんとなくのヤバさしか感じていなかった。でも、今は一社会人として、コロナという危機をただ外から眺めるだけではなく、主体的に関わり、その後に待ち受ける新しい世界に、希望を灯せる人になりたいと強く思う。
この2020年代、時代の主役は、明確に、若い僕たち自身であり、この社会の行く末に対して、責任を持つのは、僕たち自身だ。誰のせいにもできない。
きらびやかな夢や理想だけを語ったり、古臭い大人たちへの不満をつぶやいたり、そんなのはできません。現実に直面しながらも、理想を強く抱いて、少しでも現実を理想に近づける。その役目を背負う時期が来た。
(byたかはま)
議論している内容はここに書ききれないぐらい多岐に渡るが今回は、ほんの一部特に印象的だった内容を記載したい。
- ポストヒューマニズムについて
ペストが教会中心主義からヒューマニズムへの転換をもたらしたように、今回のコロナはヒューマニズムから次への転換(ポストヒューマニズム)をもたらすかもしれない。
科学志向の資本主義体制下、大量生産・大量消費を目的とし、自然を対象化して開発を続けた帰結としてのコロナ、という捉え方である。
今、このコロナの収束をどう断ち切るかはもちろん大切な課題であるが、根本的にこのコロナを始めとする様々な問題は、自然と人間の歪みから生じてきたものであり、人間の自然への関わり方を見直さない限り、根本的な解決をもたらさないだろうという考えもできる。コロナで資本主義とヒューマニズムは危機にさらされている。
- 経済システムについて
コロナ後は貨幣理論のパラダイムシフトが起こるかもしれない。
コロナ対策で各国中銀が国債を買い入れ、今後更に大規模な財政出動が必要となる中で、今後発生しうる問題はなんなのか。最悪の場合はハイパーインフレを引き起こすようだ。
そうなると自国通貨の引き下げ合いが始まり、ブロック通貨圏をもたらす。そうした事態に対応するために、公共貨幣理論とケインズが唱えたような国際決済手段(バンコール)が可能性として挙げられている。
バブル的に発生する信用創造を防ぐために、発行のために100%準備金を必要とするというように切り替える。同時に、国家間の通貨競争に対応するために、ケインズのバンコール体制がクッションになるのではとの議論があった。
20世紀初頭の世界大恐慌の後には、ケインズ V.S. ホワイトで最終的に後者のブレトン・ウッズ体制が採用されたけど、またコロナを機にケインズ論が復活するかもしれない。
- 働き方・暮らし方について
長期間自粛が続くと、働き方も暮らし方も大幅に変わるに違いない。誰かが言ってたけど、新卒1年目の口癖は”これzoomで良くないですか?”だったりして。笑
東京の一等地にバカ高いオフィスを借りるのも無駄じゃない?という話になるし、移動時間が無駄だし、リモートで労働時間が短くなっている人に関しては、社内の調整業務とか無駄な仕事が多かったんじゃないの、ということになる。
日本人の労働生産性は先進国で圧倒的に低いという。ドイツより162分労働時間が長いのに、一人当たりGDPは日本の方が低いのだ。安宅さん曰く、日本は例外的に非効率らしい。
逆に、対面じゃないといけない仕事はどんなものがあるのか。「体育会的なパッション営業」はオンラインでは厳しいかもしれない。
日本企業は世界的にもここは強みとしているとしてると信じている。ガッツリ資料を作り込んで、移動時間をかけて、クライアントに足を頻繁に運ぶ。あえて汗をハンカチで拭いて息を切らしつつ会議室に入る。そうすることである種、頑張ってくれているんだなあという”同情”を引き出し、顧客をうんと言わせるのだ。
これは本質的ではないかもしれないが、人間は意外とこういう心理的なもので動かされる生き物であり、この体育会的パッション営業がもたらすビジネスチャンスは意外と少なくない。
特に、コモディティのトレードをやっている会社同期曰く、売っている商品も価格もそこまで変わらないので、客は売り手の人柄やパッションで選択するという。コロナでこの武器が制限された今、日本企業の国際的地位はさらに打撃を受けるのではないか、という面白い意見もあった。
3週間は田舎に住んで、次の3週間はまた東京に戻ってみたいな生活も可能になるのではないだろうか。
山口陽平さんは「人間とは分業と取引によって栄え、”違い”と”社会”によって補完し合うことを選択した種」と言っていたが、まさに資本主義はとにかく分業し専門性を高めてとにかく効率的に生産をするということを追求してきた。
それが東京一極集中をもたらし、地方の衰退をもたらしたのではないだろうか。しかし、ホワイトカラーのほとんどがリモートでも問題なく仕事できてしますと分かったので、今後は人が物理的に東京にいる意味が問い直されるだろう。
「生活圏と経済圏の分離」という言葉が印象的であったが、地方への回帰や第一次産業の再興もあるかもしれないし、共同農園という農園の持ち合いも活発になるかもしれない。
佐竹が加賀に住んでいるので、とりあえずみんなで土地を買って農業を始めて見ようということになった。佐竹+メンバー20人ぐらいが入れ替わり立ち替わりでサポートする体制を整え、収穫期には複数人で対応すれば不可能ではないに違いない。めっちゃ楽しみ。
③最後に
メンバーの1人が言った一言がとても印象的だった。大学教授である父が、「国民みんながやっているんだから」と外出をやめるようにアドバイスしたと。
普段は社会科学を専門として、様々な事象に対して批判的に考察している大学教授が、「みんなやっているんだから」というある種非科学的な論拠で、彼の行動を非難したらしい。
コロナの時代において、”みんながやっていること”に合わせること(外出を自粛すること)はきっと正しいだろう。医学的見地からも、外出を抑制し、感染拡大を食い止める必要があるというのは十分理解している。
基本的に、私は、絶対的かつ客観的な真理は存在しないという立場だ。ニーチェが神を殺して以降、神という絶対的な存在と結びつく”真理”は存在しえず、それゆえ人間が積極的に真理をあらゆる関係性の中で構築していく必要があるというフーコーに影響を受けている。
アプリオリに”どう行動すべきか”、は措定できないと考える。
だから正直、みんなが外出をやめているから、という理由だけで、盲目的に自らもそれに倣うというのは避けたい。こういう場面で常に思い出すのは、アイヒマンの凡庸の悪である。普通の人であったアイヒマンが、ホロコーストという巨悪に加担したという全体主義の怖さが目に浮かぶ。
開かれた社会を目指して批判的に思考し続けることをやめてはならない。そう常に自分に言い聞かせる。
これからもくすのきのみんなとは絶対的真理はないと、批判的かつ柔軟な議論を続けることで、真理を追究したいし、欲を言えば実践も伴う集団でありたいと思う。これからも宜しく!!
(サムネはウガンダで雲を見てあまりの大きさに驚いた時のもの)
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