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ひらくということ

橋本和弥、花と作品と(寄稿)

2019年、橋本和弥の作品展は福島県内3箇所で開かれた。
ボタニカル・コンポジションによる作品展という形で作品を他人にみてもらう機会をつくったのは2019年からのことである。

展示会場では多くの人が会場であたかも花畑にいるかのような花の存在感に溢れていることを感じ、喜び、愉しんでいた。

そして郡山にある開成柏屋での、その最初の作品展がきっかけで福島テルサに招かれて展示する機会を得た。
そして郡山駅エスパルでも、ある店舗のオープン記念展示の一環で展示された。

「花は、人に次の一歩を踏み出すよう力を与えてくれる。動かしてくれる存在である」。とは彼の持論だが、そのようにして最初の個展をきっかけに、後の2つの作品展はその展示を見た人たちに、花が動力を与えて実現していった。

50年近く、花を見て、花を商いにし、花をいけてもきた彼が「自分が見ている花を、人にも写真で見せたい」と始まった花の撮影は、誰に撮ってもらっても「自分が見ているような花に見えない」という素朴な「なぜ?」から始まっている。

以前に自分でいけた花やアレンジした花を自己流で撮ってはみたが、「自分のものではない」という感じがし、橋本にとっては記録写真以上の感慨は持てなかったという。
何名かのカメラマンにも撮ってもらったが、彼らの見方で撮った写真世界という感じがし、橋本が「見ている」花のリアルからは程遠く感じた。

いずれも、自分自身が見ている「この花」とは別物だと感じた。

ダリア

ある時、さるプロカメラマンから花の「切り抜き写真」を見せられて、自分自身でも「切り抜き写真」を試行錯誤するうち、花の切り抜き合成によって「花を」表現することには大きな可能性を感じた。これが橋本がボタニカル・コンポジションという方法に行き着いた最初のきっかけだ。

橋本の作品を見る多くの人は、それらが1点1点切り抜かれた花や枝葉といったパーツ毎に撮影された写真の組み合わせによって作品になっていることに気が付かない。

無論、そういった画像合成に携わっているデジタルデザインのクリエイターなら気づくかもしれないが多くの人は、橋本がいけた花の集合を撮影している、あるいはいけた花の複数のアレンジを組み合わせている、という感じで見ているように思う。

だから展示会場で「これはどうやって撮っているんですか?」とか「どうやって作っているのですか?」という質問は結構あった。

後日、橋本が作品展の作品制作のメイキングプロセスを紹介した動画をYoutubeにアップした時、フラワーアレンジやいけ花に携わる同業者が「こんなにも手間かけているの!」と驚いたらしい。

ひとつひとつの花、実、枝葉が数十ものレイヤーで重なりあいながら作られている。
だから枝に咲いている花の姿を撮って、そのまま作品に組み込み単純にイケていることはほぼない。

だから同業者が驚くのも無理はない。

橋本は花の向き、形、大小関係、全体の中でのバランスを見ながらひとつひとつ個別に配置している。
では、そのように緻密に編まれた構成物は「完成された作品」というべきなのか?

橋本の答は「否」である。
そして、また「完成」を求めてもいない。

「花は、人に次の一歩を踏み出すよう力を与えてくれる、動かしてくれる存在」だと橋本が言うように、橋本自身も作るプロセスの中でイケた花たちから次の行動を促されて、手が動く。

橋本は先に書いたように「花を」表現したいのであって「自分を」表現したいわけではない。「花」を表現しようとした結果、橋本の癖や、橋本のスタイルが出ることはあっても、あくまでも「花を」表現し「花」を見てもらいたいのである。

だから言葉も文字も持たない花という存在の、代弁者、代筆者として、声なき花の声を聞くべく花を見る。
その視線で、ひとつひとつの花を画面にイケる。

連載作品を持つ漫画家や作家が、書いているうちに、書いているキャラクターが勝手に動き出し、しゃべるという。
たぶん、それに近い。

花をイケるのは橋本だが、橋本は花に動かされている。

では、人を動かす、人に動きたくなる力を与える花とは、いったい何者か?

橋本の作品作りのアプローチや考え方の話を聞いていて「ひらく」存在として花。
という事を、ふと思った。

花は「開く」。

ひらくということグラフィック2

咲き「開く」ことで人は美しいと立ち止まり、その姿を愛でる。

人だけでない、蝶や蜂といった受粉に必要な働きをもつ昆虫たちをも、花を咲かすことによって誘い出す。
咲き「開く」ことで蜜を求める蝶や蜂も寄ってくる。

橋本は花が咲き始め、満開になるまでの、咲く途上の姿に一番惹かれるという。

植物が長い時間をかけて花を咲かす。

その咲こうという力が最も強く働き、生命力に横溢する時が、咲き始め〜満開に至るまでの、その時間だろう。
この、これから咲いていくぞ、という花の勢いや生命力に満ちた姿が好きだという。

そして花は咲くことによって、誰もが美しいと認知するに至る姿を現す。
満開の桜に心踊らせ、花見に憂さを晴らす日本人の春。

心が浮き立つのは、春に多くの花が咲くことと無縁ではないだろう。
花が咲き、色とりどりの美しい姿に心和ませるのは、洋の東西を問わず共通する。

花摘みに、花見に、人は外に出る。

「ひらく」ことは他なるものとの交流を、交通を生み出す。

開港、開放、開店。
そこには自ずとコミュニケーションが発生する。

花は「咲く」ことによって、その存在を認識するものとのコミュニケーションをとる。
蝶や蜂、そして人と。

花は「咲く」ことによって「ひらく」ことがもたらす「さいわい」を教える。

「ひらく」ということがもたらす「流れ」や「勢い」や「開放感」をも。

花とともに生きてきた人であれば、それらがもたらすポジティブな力、陰陽、織り成す自然の営みの、陽の持つ力の発露とでもいうべき力が花には備わっているのだろう。

橋本は「私の作品を見ることで、花を感じてもらって、次に何かをしたくなる、動き出したくなる、そのようなきっかけになってもらえると嬉しい」と言う。
そのような動力が橋本の作品に備わっているとしたら、それは「ひらく」力に溢れた時期の花が多数、作品の中にイケられているからだろう。

花が潜在的に持つ「ひらく」力、「活くる」力が橋本の作品の中に横溢している。

それを見る人は、無意識にその力を感じ、自身の活力、動力として受け取る。

「ひらく」存在である花が、人に活力、動力を与えうるとしたら、見る人も開かれている必要がある。
コミュニケーションは一方通行ではなく、心開いた双方同士の交通であるからだ。

敵対する両者の間に花を置く。

花は対立する両者を仲介し和ませ対話させようという力を持つ。と橋本は語る。

ホームセンターの苗ポットを物色していて見ず知らずの他人から「この花、きれいねえ」。と、声をかけられた経験を持つ人は少なくあるまい。

花を媒介にして見ず知らずの他人同士のコミュニケーションのきっかけが生まれる。
「ひらく」存在である花が、人の心をも「ひらく」ことの一例だろう。

「ひらく」とは「開く」であり「平く」でもある。

心に壁が無い状態。

平たくなった心同士の者がオープンコミュニケーションを取ることができる。
上下の隔てなく、互いの心の門戸を開いた状態。

橋本の作品は「完成された作品」ではない。

完成されることを望んでいない作品とでも言うべきか。

橋本がイケた花たちとの対話によって構成したように、橋本が開いてアウトプットした作品を見た人の意見や、感慨や、そこから波及し、次の一歩を踏み出したい人たちとの対話によって、また次のかたちが開かれることを望んでいる。

花が開いたその花弁に蝶を受け入れるように、それらの対話によって新たに生まれるものを待ち望んでいる。

植物たちの絶え間なき、いのちの循環に、自身の生を重ねている。

デスマスクとしての作品には興味がない。
花は、今も、常に、咲き開くことにいのちを費やす。

花のように生き、花が咲くように作品を残す。

残った作品は、花のいのちを宿した一粒の種にすぎない。

それは花咲く未来を夢見ている。


寄稿:エディター・表現技術批評 盛屋照也 Moriya Teruya Hallelujah

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