物語における語り手の正体 第1弾
物語の語り手とはその存在が実に不明瞭に見えるが実際どうだろうか?
大学で文学を学んでいる僕なりに「語り手とは何か?」をちょびっと解明していく。今回はそんな記事です。(3分ほどで読めます。カップラーメンの待ち時間にどうぞ。)
まず前提として物語には内容がある。これを物語内容と呼ぶ。骨組みとなる台本のことだ。それを読み手が知るために物語言説がある。語られる物語、素材である物語内容をいかにして言葉で語るかという意味合いだ。
小説を読んでいる時を思い浮かべてもらいたい。物語世界、登場人物の存在、物語の進行状況、これら全ては語り手によって語られる。まず分かるのは登場人物は物語世界内に所属する人物たちだ。では語り手はどこに存在するのか?
それは語り手の種類による。
1 物語世界の外から物語を語る語り手
2 物語世界に所属しながら物語を語る語り手
1の語り手は物語世界には干渉しない。つまり物語には登場人物として出てくることはない。物語世界という枠組みの外から物語世界を傍観して存在しながら、その役目は読み手に物語を伝えることだ。文学ではこのような語りの視点を「神の視点」と言われている。天から物語世界を見ているというイメージだと分かり易い。物語世界の情報全てを知っているので、主人公が知らない物語の情報さえも語ることが出来る。何でも知っているから何でも語れてしまう。かといって何でもかんでも語るわけではない。
2の語り手の場合、よくあるのが物語世界内に所属する主人公が語り手になっている物語。読み手はこの主人公の語りから物語を知る。つまり主人公の視点という小さなフィルターを通してでしか知ることが出来ない。物語言説で言うところ、物語をどう語るか全てはこの主人公次第なので、読者を騙す語り=騙りを平然とする語り手だって存在する。あえて大事な点を語らないことで、読み手の解釈に任せることもある。語らないことで語るということだ。
どちらにせよ読み手は語り手の「語る」という行為を介して物語を把握する。
媒体を介して物語を把握するシステムは小説に限った話ではない。映画もこの類に当たる。例えばあなたが映画館に行って映画を見るとき映画の中の物語世界を把握する媒体とは何か。映画館のスクリーンだ。より正確に言えばスクリーンに映る映像だ。
小説と映画の最大の違いは、表現媒体が文字(記号)か、映像かという違い。映画の場合、画面を見た瞬間に情報を把握できる。小説の場合、文字を自分で読んで、そこから自分の脳内で物語世界を想像する必要がある。映画はただ見るだけで勝手にスクリーンが物語を教えてくれるが、小説は自ら読むという行為に取り組んで、自分で考えなくてはいけない。簡単なことではないので、小説を読むなんて苦痛だと言う人の意見には心底同意する。
語り手の存在位置について1と2のパターンがあることを説明したが、応用でさらにそこから語り手の種類を分類することが出来る。(それに関してはまた別の記事で話そうと思う。)
物語を論理的に考察できるようになれば、小説を読むのがもっと面白くなる。
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