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お金の価値は1つの数字で表せない――専門家が見る「間接税」の錯覚

消費税は間接税と言われているけれど、「間接税」は錯覚であって実際には存在しない、ということを、こちらのノートで説明しました。その重要な意味は、消費税は所得税や法人税と同一の財源だということです。消費税を強化したところで、社会保障も財政収支も改善しません。私たちが消費税で苦しんでいるのは、まったくの無駄なのです。

同様の内容を専門家に伝えたところ、次のようなやりとりになりました(実際には専門用語を使っています)。

私:ある商品(リンゴとする)の売り手に10円の税が課され、リンゴの価格が100円から110円に上がったとき、リンゴを買うことができるお金の量は100円から110円に変わっている。これはリンゴを買うことについてお金の価値が下がったことを意味していて、以前の100円と今の110円が等価である。買い手がリンゴを買うときには、以前と等しい価値のお金を手放しているだけだから、税として余分に払ってはいない。10円を余分に払ったように見えるのは、「以前と今とでお金の価値は不変であり、今もリンゴの価値は100円である」と考えるために起きる錯覚(貨幣錯覚)である。

専門家:リンゴという個別商品の価格変化は物価とは関係なく(影響はきわめて小さい)、お金の価値の変化は物価の変化によって起きるものだから、この場合、お金の価値は(ほぼ)不変である。だから100円のお金とリンゴは価値が等しく、10円は余分な支払いであり、それは課税のせいだから、買い手は10円の税を払っている。

なお「貨幣錯覚」とは、お金の価値が不変だ(言うなれば「1円の価値は常に1円である」)と無意識に思うことで起きる錯覚のことで、私たちが普段、お金を使って価値を考えることに慣れているために起きるものです。

さて、この2人の食い違いは、太字で強調した部分で起きています。お金の価値は、個々の商品を買うことについて決まるのか、それとも物価で決まるのか。

このノートでは、この専門家がどこで見誤っているかを説明します。

物価とお金の価値

私たちは普段の生活において、さまざまなモノを所有し、交換(売買)し、消費します。そのようなモノの価値を表す絶対的な尺度は残念ながらありません。リンゴがどれだけ価値を持つかは、人によって違います。リンゴが好きな人にとっては価値が大きく、嫌いな人にとっては価値は小さいでしょう。

ただ、私たちの経済は貨幣経済なので、お金を基準として、モノの価値を表すことができます。お金がいろいろなモノと交換できるため、あるモノと交換されるお金の量で、そのモノの価値を表せるのです。例えばリンゴの市場価格が100円なら、そのリンゴは100円というお金と等価だ、と言えます。

「所有され、市場(しじょう)で交換される物」という意味では、お金もリンゴと同様、モノの一種です。しかし、あえてお金だけを特別扱いし、その価値を基準にして、リンゴなど他のモノの価値を測っているのです。

私たちの法律体系もこの価値の測り方を使っています。例えば他人のモノを壊した場合の損害賠償額は、そのモノの市場価格が基準になります。税金を土地で物納したときには、その土地の市場価格だけのお金を納めたことになります。どちらにおいても、モノの価値は、それと市場で交換されるお金の価値と等しいと見なされています。

経済に関しては、実質所得という考え方がこの測り方によるものです。給料が2倍になったとき、やったー給料が増えた!と喜ぶのは早計で、そのとき物価が2倍になっていたら、給料は実質的に増えていません。なぜなら、同じだけのモノを買うには以前の2倍のお金が必要で、給料もちょうど2倍になっただけだからです。

物価が2倍になるとき、同じだけのモノを買うには、2倍のお金が必要になります。モノの価値を基準にすると、お金の価値が1/2になったことになります。このためよく、「物価がN倍になるとお金の価値が1/N倍になる」と言われます。冒頭の専門家の話はこれに基づいています。

物価と実質所得

お金を基準にすれば、それぞれのモノの価値は、それと交換されるお金の量で表せる。だから市場価格は、そのモノの(この意味での)価値を正確に表せます。では、お金自体の価値はどう表せるでしょうか。

絶対的な価値の尺度があればそれで表せばいいのですが、あいにくそれはありません。そこで、お金を基準にして他のモノの価値を(相対的に)表すのと同じ方法で、逆にお金の価値を、モノを基準にして表します。これが先ほど書いた、実質所得の考え方です。同じモノを買うために必要なお金が2倍になったら、お金の価値は1/2になったと考えます。200万円という金額の所得(名目所得)は、物価が2倍になれば、以前に比べて実質的に100万円になる(実質所得)という考え方です。

ここで、比べる対象となる基準が必要なことに注意して下さい。この場合、物価が上がる前を基準にしています。その時の200万円に比べて、今の200万円はいくらに当たるか、と考えています。

ところで、「物価が2倍になる」とはどういうことでしょうか。すべてのモノの価格が同時に何倍になったり何分の1になったりするなら、例えばリンゴの価格だけを見ても、物価が2倍になったとか1/2になったとか言えますが、モノの価格はそれぞれ勝手に変わります。リンゴの価格が2倍、梨の価格は変わらず、桃の価格が2/3になったら、「物価」はどれだけ変わったのでしょう?

このような変化が起きた場合、名目所得が200万円とすると、リンゴだけを食べる人は、買えるリンゴの数が1/2になるので、実質所得は100万円になります。梨だけを食べる人の実質所得は不変で200万円、桃だけを食べる人は、買える桃の数が1.5倍になるので、実質所得は300万円になります。このように、それぞれの人が具体的に何を買うかによって、現在の所得が以前のいくらに当たるかは変わってきます。

これでは経済全体を見通せないので、平均的な消費者が一定期間に買うモノの集まり(「バスケット」といいます)を仮定して、それを使って実質所得を計算します。例えば、1年間にリンゴ1個、梨1個、桃1個だけを消費者が買うと仮定して、去年における価格がリンゴ100円、梨200円、桃300円(これを(100, 200, 300)と書くことにします)、今年が(200, 200, 200)なら、去年のバスケットの値段は100+200+300=600円、今年は200+200+200=600円で、不変なので、去年と今年で実質所得は変わらないことになります。

この結果は当然、バスケットとして仮定するモノの種類と数によって変わってきますし、すべての消費者がバスケットにあるモノを毎年必ずその数だけ買うわけではない――というかむしろ現実には、バスケット通りに買う人は多分いない――ので、実質所得は大雑把な近似にしかなりません。

つまり、物価を用いてお金の価値の変化を表すのは、近似でしかないということです。

私たちは今、誰が税を支払っているか、言い換えると、誰が税を負担しているかを円単位で検討しようとしています。近似にすぎない数字を使って、税負担を正確に表すことができると考えるのは無謀でしょう。

お金の正確な価値は?

では、お金の価値を正確に表すことはできるのでしょうか。絶対的な価値の尺度がない以上、お金の価値も相対的に表すしかなく、その比較対象は他のモノしかありません。リンゴの価格が2倍になり、桃の価格が2/3になるとき、お金の価値は何倍になるのでしょう。リンゴだけ買う人にとっては1/2になり、桃だけ買う人にとっては1.5倍になるのを、何倍と言えばいいのでしょうか。

ここにはひとつ、思い込みがあるようです。それは、「お金の価値は1つの数字で表せる」というものです。

実質所得はたしかにそれを目指しています。しかしすでに見たように、バスケットが万人に当てはまらない以上、それは近似にすぎません。それを、お金の価値を1つの数字で表せたと考えるのは危険です。

一度、出発点に戻りましょう。モノの価値を価格で表すのは、それと交換される量のお金の価値と等しいと考えるためです。お金の価値を基準にして、モノの価値を表しています。

そうであるとともに、お金も市場で交換されるモノの一種です。普通はお金とさまざまなモノが交換されますが、物々交換もできないことはありません。所有物を自由に交換できるのが自由市場というものです。例えばリンゴとお米を交換することもできます。このときの交換比率が、お互いの相対的な価値を表します。例えば1個のリンゴと50グラムのお米が交換されるなら、それらの価値は等しくて、お米を基準にするなら「リンゴの価格は(お米にして)50グラムである」と言えます。

このように現実の市場では、お金とリンゴの間や、お金とお米の間だけでなく、(お金を含めた)すべてのモノの間に交換比率を考えることができます。リンゴの価格、つまりリンゴと等価なモノとその量は、例えば(お金なら)100円であると同時に、米50グラムであり、小麦粉400グラムだったりします。お金も同じで、お金1円と等価なモノとその量は、リンゴ1/100個、米2グラム、小麦粉0.25グラムだったりします。もしもここでお米の値段が2倍になって、お金1円が米1グラムと等価になるとき、他のすべてのモノとの交換比率が変わらないとしても、それは値上がり前のお金の価値と正確に同じではありません。なぜならもう、お金1円で米1グラムしか買えないのですから。

つまりお金の価値は、それと交換されるモノとの交換比率すべてで表されるものであり、1つの数字では表せないのです。リンゴ、梨、桃を考えた場合、それらの価格が(100, 200, 300)である、というのがお金の価値を表しています。価格が変化し、(200, 200, 200)になったときには、それがお金の価値を表します。何倍になったなどという1つの数字では表せません。数学的に言えば、お金の価値はスカラー(1つの数値)では表せず、べクトル(数値の並び)で表すことになります。

お金の価値やその変化を1つの数値で表せると暗黙に前提してしまうのは、私たちが普段、お金以外のモノの価値を価格という1つの数値で表すことに慣れているためではないでしょうか。だとすればこれも「貨幣錯覚」の一種だと言えるでしょう。

税負担は「転嫁」されない

100円だったリンゴが課税によって110円になって、買い手が買うときのお金の価値は、他のモノの価格はいざ知らず、リンゴに対しては110円が等価です。なぜなら、モノの価値は、市場でそれと交換されるお金の量で表され、よってその量のお金とそのモノは等価だからです。買い手はリンゴと等しい価値のお金を手放すだけであり、税として価値を手放した分はありません。

よって、税負担が売り手から買い手に「転嫁」されることはなく、「間接税」は存在しません。

この結論は実は、早々に出ていました。「商品の価値はそれと交換されるお金の量で表される」という前提から、市場での売買は常に等価なお金とモノの交換であり、それ以外に――例えば税として――手放す価値は売り手にも買い手にもない、と即座にわかるのです。(ちなみにこの前提は、税がなくリンゴが100円だったときにリンゴの価値を100円と見なすというかたちで、件の専門家も使っています)

専門家は、お金の価値が物価で決まる(1つの数値でその変化を表せる)と考えたため、商品に対するお金の価値を正確に表す、個々の取引で交換されるお金の量を見過ごしてしまったのだろうと思われます。

実際に起きるのは次のことです。売り手が課税されて、ある商品の価格を引き上げるとき、その商品に対するお金の価値が下落します。買い手は、価値が下がってしまったお金をより多く払うだけで、それは商品と等価であって、税は払いません。商品と等価なそのお金を受け取った売り手は、税を払い、税額分だけの価値を手元から失う、つまり税を負担します。

ただし買い手は、お金の価値の下落による資産や所得の目減りを被ります。これについてはノート「『間接税』は錯覚です。」を参照して下さい。

(2019-10-23 例示の説明を少し修正しました)
(2021-11-11 誤字を修正しました)

ありがとうございます。これからも役に立つノートを発信したいと思います。