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犬は自転車/2025年1月16日(木) 生活者になりたい11

幼少期からずっと、祖父母なり母親が犬を飼ってきた。

そんな言い方をするのも、私は良き飼い主だったとはとても思えない反省があるからで、自分の都合で撫でたり遊んだりしていただけだからだ。

いじめられて帰った日、柔道の試合に5秒で負けた日、合格発表から俯いて帰った日。いつでもわん、と尻尾を振ってくれる仲間がいたのはとても心強いことで、屈折したティーネイジャーの胸のうちを、一番聞いていたのは代々の犬かもしれない。

昨年から、犬を家に迎えたいという気持ちがむくむくと湧いている。妻子に世話を任せるのではなく、家族の一員として迎えようと。でも、過去の自分の行状と家計を踏まえるに、働き方を一新するのが条件になってくる。実際、それを試みもしたのだがなかなかうまくいかず、計画は座礁したまま動く気配がない。

結局、頭に描いている海岸線で一緒に走り回る甘美な映像は、引き出してはまた、戸棚に仕舞い込まれることが続いている。イメージするささやかなしあわせを入れる収納は、もう随分前からいっぱいなのに。

あと、犬を飼うということそのものが、傲慢なのではないかとの思いもどこかにある。同じ哺乳類の生き死にの手綱を、人間が握っていいものなのか。

『文藝』2025年春号に掲載されている対談『犬を書く、犬と生きる』の中で、小川洋子さんはこう話す。

「自分が世話しなければ死んでしまうかもしれない存在を、そばに置くのはたしかに暴力的ではあるんだけれど、そのために自分の時間を捧げるのだという重い責任を背負うことは、私たちの生きがいにつながり、喜びを育んでくれます。」

このコメント自体が人間本位に感じられる節もあるが、長年向き合ってきたゆえの含蓄がそれ以上に満ちている。飼い犬がしあわせなのかどうかははっきりわからない以上、そうした気持ちと愛情を持って接することができれば、それで十分なのではないかと思う。

SNS上で話題の美犬・ちくわちゃんのことを飼った時の気持ちや、飼ってからのあれこれを、岸政彦さんがエッセイ『犬は自転車』で見事に書いている。犬を飼うか悩んでいる自分のような人間のために誂えられたようなエッセイ。
印象的な一文をここに記す。その意味や思いはぜひ、『文藝』を購読して確認していただきたい。

「犬猫は砂時計だ。そこで流れているのは砂ではなく私たちの人生である。」



実家にいた先代犬・セントくん。セントバーナードでもなければオスでもないのにセントくん。
ネーミングは奈良の「せんとくん」好きだった自分である。心優しい犬だった


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