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骨折登山 240914

スパゲティはやけどするほどアツアツに限る。

と、事務所を出て隣のビルの地下へ降り、小さな食堂街のガラス戸を押し開ける。月に1回くらい訪れる、ピッツェリアのランチがお目当てだ。

アンバーな薄明かりの下には、チェックのクロスがかわいいテーブル席があり、壁中にワイン農家のサインがある。オフィス街に忽然と現れた現地の食堂のようなその店の、しっかりと量のあるトマトスパゲティのケレン味のなさにずっと惹かれている。

最近、骨の亀裂が少し狭まったお陰で、カチカチのギプスから、ハイブリッドシーネ(リスト)というマジックテープで取り外し可能なものに変わり、右手をかなり使えるようになった。どこか近未来感のあるビームが出そうな手でフォークを鷲づかみにして、顔中を湯気にまむされながら一気にすすり込む。大胆に入れられたサンマのほぐし身に夢中になるうち、たちまち皿は空っぽになった。

自分には夢がいくつかあって、そのうちのひとつに、アメリカ旅行がある。いつかジョン・ミューア・トレイルを歩きたい。歩き終えたらロードサイドのダイナーで、鷲づかみのフォークでぐちゃぐちゃに混ぜたジャンクフードを食べたい。
前の席で、遠い目をしてマルゲリータをゆっくり口に運ぶ角刈りの男性が、ベトナム帰りの軍人に見えてきた。そろそろ車の運転やランニングならできるかもしれない。着実になおりつつある腕のマジックテープを締めなおしながら、明日は山登りへ行こうと決めた。

・・・・・

校了明けに山が恋しくなる、といえばいっぱしの登山家のようだが、登るのはもっぱら近隣の低山だ。

サーフィンができる海は遠いが、電車で一時間もいけば加減のよい山だらけの関西。低山とはいえ眺望のボーナスはあるし、道中の山寺や鄙びた神社を訪れ、温泉に浸かってビールにありつけば、校了前の苦しみなど雲散霧消してしまう。
「テラッキング」と称していたそんな友人との密かな楽しみはコロナ禍もありご無沙汰になっているが、自分の復帰戦にして息子の初陣ならば、二上山くらいがちょうどいいだろう。

骨折中の不自由な日常に倦んだ身の上、こけたらヤバいという状況に常に曝されてみたいと思った。小学校の遠足で3年間毎年登ったはずなのに、駅の自販機の下に大量の小銭が落ちている光景以外思い出せない、自分の脳内を塗り替えたいとも。そして息子にはじめての登山のすてきを。自分のかわりに、自分とともに。


約1時間半かけて着いた二上山駅は、近鉄電車の無人駅の定型だった。まず雄岳に登り、そのまま尾根を上り下りして、順調にいけば正午ごろに眺望のある雌岳で昼食をとるつもりだ。

ゴールは当麻寺駅に設定する。ちょっと長い下山の道のりを駅前の中将餅で釣る作戦だが、来た道を戻るのが嫌いな自分の性分も関係している。それにしても麓から見ると、なだらかな二上山も結構な巨乳だ。

同じ電車でホームに降り立った大声で喋りまくる年輩グループは山行の天敵なので、トイレを済ませたらいち早く登山口を目指す。
過ごしやすいのは林地帯までで、樹冠が薄くなるほど酷暑の餌食になった。第一の眺望がある六合目から大津皇子の墓までの胸突き八丁を、時に膝に手をやりながらも、汗をふきふき弱音を吐かず着いてくる息子。自分は遊んでいる石を慎重に避けて、動く道しるべに徹する。

土が抉れたU字の九十九折りを進むうちに、なぜか小学校時代からの、歴代の絶交したひとびとの顔が浮かんだ。

何度か身体に電撃が走って胸が締め付けられたのを家族は知らない。山に登って数え切れない誰かが歩いた轍を進んでいると、気付けば追憶にふけっていることがある。軽い熱中症もあったのかもしれない。胸が痛むたびに、白い雲を衝く植林の杉木立に目を遣っていた。

自分は、実は絶交して、絶交されてよかったと思っているところがある。

その時の真摯なやりとりと、それから変わろうとする身振りの切実さだけは、心に残り続けてやがて成長に資する力になると思っているからだ。何より、壊れてしまった関係はどうしようもない。

根雪のように厄介で純白の魂は、いつか溶け流れて音になる。甘くてまるい沢のせせらぎが、気付かないうちに遠ざかっていくように。


初めてにはちょうどいい強度だったと思う。久々にたくさん歩いた妻の表情にも達成感が見える。頂上で食べるカップヌードルに、顔をほころばせる息子がたまらなく愛おしい。首の後ろに溜まる汗を何度も拭いてあげて、がんばったね、と頭を撫でる。

「おーん、これで山はみっつめ!」
雄岳やろ、ほんでこの雌岳、あとひとつは?

「天保山!」

鼻を膨らませる息子、ずっこける自分。
これが骨折登山のあらまし。


追記
骨折登山のあらましは、骨折からの復活ののろし…になればいいのですが。まだ時間はかかりそうです。
ちなみに下山中にモントレイルの靴のソールが両方取れました。下山中でよかったが、ずっと足つぼ状態だった。15年よう頑張ってくれたし同じもの買お。


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