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風食の楽園で詠む詩/2023年12月3日(日)晴れ



紀伊水道から吹く北西の風が止んでいた。朝ぼらけの海に屹立する海中展望塔をさざ波が洗う。

断崖に面した一室の窓から、冬らしからぬ凪いだ鉛山湾を見つめる。快晴なのに沖に漁船はほとんど見えず、未明に我々を叩き起こしたフィリピンの地震を原因とした津波注意報のせいか、はたまた単純に日曜日のせいかとぼんやり考えていた。


この部屋の目と鼻の先に、外国船が船首を突きつけて座礁したのは昭和六十年のことだ。

海中展望塔を薙ぎ倒して磯に留まった船は、その大きさゆえに解体も進まず、一年後には全体が錆び付いて幽霊船のようになっていた。当時五歳だった自分にとって、その不気味さは「原風景」などという牧歌的な響きではなく、白砂青松の楽園・南紀白浜の現実を突きつけられたようにその時は感じられたのだった。

でも、入りから白良浜やパンダが前景になかったことで、毎年のように家族旅行で通うほど、日本書紀のみぎりから続くこの湯治場の持つ磁場に惹きつけられるようになった。

海岸線を縁取る県道から一歩外れると、階段混じりの細い坂道が縦横に巡り、どうやって建てたのかが想像もつかない住宅群が張り付いている。そこには観光地を支える生活の匂いが確かにあって、歩いていると、突如蔦と錆に覆われた旧遊郭街に彷徨い出たりする。

でも白浜は、高度経済成長期に関西の会社の保養地、近場のリゾートとして賑わったかつてに寄りかかっているようにはあまり見えない。高速道路が延伸してアクセス容易になった現在は、外資系のホテルが続々と進出し、レトロな街並みを視覚的に楽しむ若者が多く訪れるようになっている。

時代につれ役割を読み替えられながら、渋太く観光客を集め続けているのはさすが日本三大古湯のひとつだと思う。ポスト・リゾートを考える研究対象になるのも頷ける。そこらのリゾート地とは歴史が違うのだ。

40年ほど前、大型貨物船が目の前で座礁した


そうして今日もまた、目前の海を定点観測することで、大阪の疲れを癒やしている。父が勤める会社の保養所として借り上げられたこの一室に通い続けて四十年以上、仕事も含めれば五十回は白浜に来ているが、「展示」が目的なのは初めてのことだ。

保養所から徒歩十分ほどにある展示会場は、アパレルブランド[MUYA]の拠点となる四階層のビルで、カフェやホテル機能も備えている新名所。白浜が地元の撫養さんご一家がUターンして作り上げた、どこを切り取っても絵になる空間に美学が滲む。

新田さんは撫養さんの前職時代から、自分もかねて面識があった。
『プールサイド』のリリース前から心を寄せてくださった彼らの血が通った空間で、写真と文章の展示をさせていただくことになったのだ。

在庫がほぼなくなったこともあり、これを『プールサイド』最初で最後の単独イベントと位置付け、気合いを入れた我々は夜な夜な打ち合わせを重ねた。

新田さんが自身初となる写真館の開催をブチ上げれば、私は経験豊富なトークイベントを提案。内容を詰めて告知しながら、フライヤー代わりに作ったポストカードに直筆でお誘いを書いて送る。

さらに勢い「[MUYA]さんならではの即興制作を」と自分の首を絞める提案をしてしまったものだから、一抹の不安を抱えて金曜日の午前中に白浜入りすることになったのだった。夕方からの展示準備を前に、町を巡って創作するしかない。

そもそも日記から抜粋した文章の展示という生後初の試みに不安なところへ、即興制作である。夕方にはお互いの家族も白浜へやってくるし、早めの勝負を⋯⋯と焦る心に詰まらぬ構想。見たことがないスピードでシャッターを切る新田さんに界隈を案内しながら、写真の機動力をただ羨ましく思うのだった。


制作しながらの設営は深夜までかかってなお終わらず、展示開始日の二日も朝から総出で取りかかり、何とかオープンまでに準備を間に合わせた。

それからは[白浜COFFEE STAND!]の展示で来白中だったオオヤミノルさんを皮切りに、手紙に呼応してくれた大阪の友人たちや白浜の方々が続々とやってきて、展示だけでなく写真館やトークイベントも楽しんでくれた。

夜は友人たちも加わって大いに飲み語らい、強風が掃除した夜空を星が埋め尽くすまで、楽しい時間は続いた。
この展示で、フリーランスの仲間とようやく目線が揃ったのかもしれない。水平線を頼りに細い坂道を降りて、[MUYA]に泊まる新田さんと別れ、親友のMと断崖の一室に戻った。冷凍庫からポケット瓶を出してハイボールをつくり、潮騒を聞きながら明滅する灯台をいつまでも見ていた。

新田さんの即興制作は浜辺のタコ公園だった


 不思議と二日酔いはなく目が覚め、冒頭のように海を見ていたら、新田さんからLINEが入った。黎明の湯崎港の写真。朝六時半集合で釣りをする予定だったが、津波注意報が出ているからひとまず様子見ましょう、というこちらの連絡を見ていないのだった。

満潮は十時、解除されてから竿を出してもなんとかなるという目算はあったが、お互いの息子にとって一番の楽しみなイベントがこの釣りゆえ、道具を持ってきた自分が動かないことには始まらない。迷ったけれど、初日に買っておいた餌と仕掛けを持って、湯崎港へ歩いて向かうことにした。

狙いは小アジ。とくれば、仕掛けはサビキで餌はアミエビだ。一家三人とMで連れ立ってシーモア横の坂道を下る。錆びついた行幸湯の温泉櫓が、そこら中に湯の花を咲かせながら勢いよく湯気を吹き上げていた。硫黄の匂いが苦手な息子が鼻をつまみ、「ひとはへもおはへんな(人誰もおらへんな)」と漁船が係留された堤防を素早く指差す。昨日までの強風が嘘のような凪、透明度は底まで見えるほど高く、時折ベラやフグの黒い魚影が目視できた。

条件は悪くない。
仕掛けを用意していると対岸にウキウキと小躍りしながらやってくる新田家の一団が見えてきた。仕掛けをひとつ作って、急かす息子に手渡す。五人の大人と三人の子どもが、堤防の先にひしめいて準備する様子を、撒き餌に誘われた一羽のカモメが滑空しながら見つめていた。


準備の間に津波注意報は解除され、海底の魚影は着実に濃くなっているようだった。新田家の次男くんの元気な声を号砲に、煌めく水面に竿を垂らす。「つれたー!」とすぐさま息子が歓喜の声を上げる。向き直った竿に付いていた十センチオーバーの小アジは、全身をよじって自ら針を外し、堤防に横たわってやがて静かになった。

時合いはそんなに続かないだろうという予想はいい方に外れ、それからサビキ竿は入れ食い状態、三十匹を超える爆釣に、「きょうはみんなてんぷらやな!」と小さな釣り名人の鼻はすっかり膨らんでいた。

自分はひたすらアジを針から外してサビキカゴにエサを詰め込み、歓声を聞きながらこの展示で出会ったさまざまな家族のかたちを思い返していた。

昨晩遅くまで飲んだSさんは、独り身になってしばらく経って、今は同じバツイチのパートナーと、急逝した友人が飼っていたという保護犬の、二人と一頭で幸せな毎日を送っているようだった。

小さな娘さんと若いスタッフを抱えながら、全力でサポートしてくれた撫養家。自分が進みたい方へ、目指す未来へ手を抜かない推進力に感銘を受けた。「やりきったれ」という亡き父上の言葉を体現しているのだろう。

お年頃の子ども二人を親に預けてまで来てくれた夫妻は、写真館での、久々のふたりきりの写真に顔をほころばせていた。

共働きで、家事育児を日常にしている新田さんの父親としての姿は、家事育児が、そうでないつもりでもどこか非日常になってしまっている自分にとって、ほんとうに向き合うべきことを改めて考えさせるに十分で、自分がこの二泊三日で得たものは、思ったより多そうだった。


即興制作した展示物は、新田さんと相談して撫養家にプレゼントすることにした。最近お気に入りの場所である番所山公園の磯から見る断崖の地層、数え切れないほど往復した海岸線の風景を、白浜が積み重ねてきた時間軸に落とし込んだものだ。

・・・・・

波に洗われ、風食を受ける海岸線。
自然と人工物の間に寄生する錆び付いた温泉櫓。
海沿いの食堂から少し上がった坂道の途中にある、
夫妻の営為が結実した建物は、可能性の風景に見える。

海沿いにラインを描く県道を走りながら、
白浜の地層と、時がもたらした調和の秘密を考える。

そんな一人ひとりの場所へのまなざしが、
この楽園の景観をまた作っていくと思う。

・・・・・

十八日まで展示が続くこの建物と撫養家、訪れて読む人それぞれに未来を託した。

最後に悩んでから置いた「楽園」という言葉。
大阪へ帰る夜道を走りながら、その選択に間違いはなかったな、と思った。


どの写真もとても好きだった


いつかまた

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