【掌編小説】トウキョウ
『きょうの地下鉄道の運行は、終了いたしました』
地下へ降りる入り口のところにかかっている木札を、ホリはにがにがしい面持ちで見つめていました。
ーーしまった。地下鉄道の最終電車は、この秋から、早まったんだっけ。
きょうも一日中、根をつめて、はたらいて。やっと仕事を切り上げて帰れると思ったホリは、帰る”足”がなくなった恨みを、誰かにぶつけたくなります。
なたね油の洋燈はまだ灯りが灯されていて、地下へ通じる扉のところでは、人影がゆらめいていました。老鉄道職員が、シャッターを閉める作業をすすめていたのです。
老鉄道職員は、錆びついたシャッターについている取っ手のようなところに、先端がかぎ状になっている棒をひっかけて、体重をかけておろします。ねじでもきしんでいるのか、ぎぎぎぃ、と車のブレーキを濁らせたような音がして、シャッターがだんだんとしまっていきます。はんぶんくらいが締まったのち、老鉄道職員は、ひょい、と体をかがませて、シャッターの向こう側、地下鉄道の駅のほうへと入りました。ホリからは腰の下だけ(鉄道の制服の濃紺色のズボンと、つま先のところに摺り傷が付いた革靴)が見えていました。やがて、そのシャッターもがらがらとまた下がっていき、がしゃん、と最後はいちどだけ軽く跳ねて、シャッターは、完全に閉まりました。そして、がちゃがちゃ、がっちゃん、と無駄におおきな音で内鍵が閉められた音だけがして、しずかになり、ホリは、地上に取り残されました。
ーーいっしょうけんめいにはたらいたところで、べつに、運がよくなるわけじゃあないんだな。
そのときホリは、そんなことを思ったのでした。
***
とにかく家に帰り着かなければと、ホリは運賃車を探して、あたりを見渡しました。トウキョウとはいえど、地下鉄道の入り口は表通りよりもすこし路地に入ったところにあったので、運賃車はなかなか通らなさそうでした。普通に考えれば、表通りに行って、手をあげて、わざわざ運賃車を停めて、高い深夜賃を払って家に帰ることが、やるべきことでした。しかし、ホリはこう思ってしまったのです。
ーーなんだか、癪だな。
ホリには負けず嫌いのところがありました。何か自分の気に入らないことがあったときに、なにかと理由をつけて、起こったことが自分にとって”いいこと”であったと、納得しようとするくせがありました。
ーーせっかくだから、トウキョウを走って帰れないか。
さいわいにもホリは、運動靴で出勤していました(仕事相手と会うときには、会社の更衣部屋で、そそくさと革靴に履き替えるのです)。毎週、屋内運動場に通って、ランニング・マシーンを回す習慣もありました。
ーーこんな夜も、なかなかない。今宵わたしは、トウキョウの夜を走りつくすのだ。
チカチカと、頼りなく点滅する古ぼけた歩行者信号のもと、ホリは勝手に、自分が走ることを決めたのでした。
***
いざ走ってみれば、トウキョウという街は、明りが多くてあたりがよく見えるし、建物が多いから風景も変わるしで、なかなか走るのには悪くない街だな、などとホリは思いました。
表通りに沿って、たんたんと走っていくホリ。数えきれないほどの街灯が、流星系に視界の左右に割れて通りすぎていき、等間隔に並んだそれらは、心拍計のように、走るペースを整えてくれました。
たったっ、たったっ。踏みぬける足音を道路舗装のアスファルトにスタンプしながら。マンホールや下水口のフタを踏むときだけ、ぱしり、とすこし乾いた音がして。しかしそれらの音は、ときおり、ぐおっと追い抜いていく車の走行音にかき消されていき。荒まっていくホリの息遣い。
トウキョウにも、月は出ます(星は、あかるいものしか、出ません)。長く走っていると、深夜の街なみの光の陰影をよく感じるようになり、月は、やさしく、平等に、街のことを照らしていることに気づきました。ホリはいつも、トウキョウの夜は電気と文明が照らしていると思っていたので、月明かりのやさしさに気づいたときには、なんだか物知らずを恥ずかしいような気分になりました。
***
もう、ながく走っていました。
走りはじめたころは、だんだんと、疲れがホリのなかに溜まっていくことがわかりましたが、感覚のどこかが麻痺したのか、やがて疲れを感じなくなりました。その後は気分がずっと高揚していて、頭の中がふわふわしているような感じがして、ずっと心地いいのでした。変わらず疲れは溜まっているはず、なのに。
ホリはしばらくして、トウキョウの中心にある、おおきな公園の中を走っていました。道幅がひろいので走りやすく、その公園はランニング・コースとして有名だったので、やがて何人かのランナーともすれ違いましたし、ホリを追い越すランナーもいました。ランナーたちはみな、自分の走りに集中しているようでした。
やがて、道のわきに、飲料の自動販売機がありました。のどがかわいていたホリは、いっとき休憩を挟むことにしました。自動販売機から水を買って、わきにあったベンチに腰掛けようとします。しかしベンチには、何やらおおきなものが、置いてあるようでした。
「ああ、いまどくよ」
急に声がして、ホリはおどろきます。そのおおきなものは、人間でした。声から察するに、中年の女性のようでしたが、あたりは暗くて、よく女性の顔は見えませんでした。ベンチに寝ていた女性は、ずずずっと起き上がり、ベンチに腰掛けると、腕を出して、自分の横をさしました。
「どうも」
ホリが、やや警戒しながらベンチに座ると、女性が話しかけてきます。
「自分で走って、自分で疲れて、自分で水買って。なにがしたいんだ、あんたたちは。もったいないじゃないか。」
女性は焦るようにして、さらに話をつづけます。
「あたしはね。あくせく動くのをやめてね、こうして路上で暮らしているけれどね、いいもんだよ。ベンチに寝ていると、自然のこえが聞こえるんだよ。こんなトウキョウの真ん中でも、草がゆれる音が聞こえたりね。虫が鳴いていたりね」
ホリは、さっき、月のあかるさに気づいたときのことを思い出して、うなずきました。
「そういうのも、いいですよね。わかります」
女性は話を受け入れられたのに満足したのか、ちょっとうれしそうになったようでした。心なしか優しい口調になって、女性に話しかけます。
「そうだろう、そうだろ。若いのにあんたはものをよくわかってる。かしこいあなたさまは、仕事はなにをしているんだい」
ホリは自分の仕事をそのまま言っても伝わらないと思って、女性に伝わるように簡単に説明することにしました。
「ほかの人のお金をあずかって、もっと大きなお金にして、返す仕事ですよ」
ほう。女性はつぶやいて、さらに質問を重ねます。
「忙しいかい」
ホリは答えます。
「ええ、それはもう。まいにち日付が変わってもはたらいています」
ほう。また女性はつぶやいて、
「たのしいかい」
ホリは答えます。
「たのしい、というわけではないかもしれません。でも、他のひとのお金をあずかって、お金の世界で戦うわけですから、やりがいがあるんです。」
こんどは、女性は沈黙しました。女性の返答のかわりに、風で草がゆれる音と、虫の声が、たしかに聞こえてきました。
「自分をたいせつにするんだよ。それもひつような戦いだ」
女性はそれだけ、言いました。話が終わったことを感じて、ホリは立ち上がります。
そしてまた、トウキョウの夜を、ひたむきに走りはじめました。
***
ホリは高級ブティック街を走っていました。あたりの店は閉店しているものの、ショーウィンドウにはまだ明かりが灯っていて、人がいないのに、街だけは、まだ眠っていないのでした。ガラスの向こうには、高級そうなディスプレイーー水色と緑の水玉のワンピースや、一本のリボンが編まれているようなデザインの靴、きらきらと光る水晶のブレスレットなどーーが飾ってありました。
それぞれのブランドはあざやかな色やデザインで主張を繰り返し、それぞれは確かに時代を先取りしていて、洗練された印象を受けるものの、それらが集まったこの街はあまりにも不格好に、きたなくて。ホリはなんだか、それらにあてられて、不安定な気持ちになってきました。
一度心がくずれると、今まで走れたのがなぜだったのか不思議なくらい、急に徒労感が押し寄せてきました。リズムよく走ってきたホリは、動悸とめまいに襲われます。ホリは、ついには走るのを止めて、肩で息をしながら、ひざに手をついて、ぜえぜえと息を継ぐしかできなくなりました。
すると、うつむくホリの足元に、なにかがすり寄ってきました。それは、一匹の、黒い猫でした。黒い猫は、こちらを見上げるようにして、ひかるふたつの目をこちらに向けてきます。荒い息を継ぎながら、ぼおっと、まるいふたつの球を、ホリは見つめました。黒猫は、何かをホリに問うているようでした。なぜかホリには、その問いの内容が、わかりました。
ーー着いてくるか?
黒い猫は、もう後戻りはできないほどに、遠いところに、ホリを連れて行こうとしているようでした。しかし彼からは、ホリをどこかへ攫おうという悪意は感じませんでした。彼は、むしろ月の光のようにすべてを平等に愛そうとするやさしさから、もうホリが走らなくても、戦わなくてもすむように、誰かが遣わせた使者のようでした。逡巡から、ホリは天を仰ぎます。
そのブティック街は、トウキョウの中心地。立ち並ぶ高層ビルの窓に、ぽつり、ぽつりと、オフィスの光がところどころに灯っていました。星が見えないトウキョウの代わりに、空に光を浮かべているようでした。ずっとホリが見ていると、それらの光は、あの、黒猫の目にそっくりなのでした。ぽつりぽつりと灯る、深夜のオフィスビルの黒猫の目。無数の目に見つめられて、ホリは、黒猫についていくことを、決めようとします。
そして、タイミングよく黒猫はあるき出して、ホリがそれに着いていこうとした、そのとき。ホリの携帯電話が、無機質な音で、夜のトウキョウに鳴り響きました。ルルルルルルルル…。
***
電話はホリの上司から、でした。
「…はい。その件については、もう、資料をまとめています。…はい。…はい。ありがとうございます。…わかりました。今帰宅中で、もうすぐ家に着くので、着いたらすぐにお送りしますね。遅くまでありがとうございます。…はい。失礼します。」
電話を終えたときには、もう、黒猫はどこかへ行ってしまっていました。
そしてホリは、ぐっと足を踏み出して、たった、たった。夜のトウキョウを、また走りはじめるのでした。
この作品は、生活に物語をとどける文芸誌『文活』5月号に寄稿されているものです。今月号のテーマは「はしる」。読んで外に駆け出したくなるような、疾走感あふれる6作品が集まっています。文活本誌は以下のリンクよりお読みいただけますので、ぜひごらんください。
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