
母を想う。
歳を重ねている母。
母が最近、顔面麻痺になった。
自分はそれを、直接ではなく、母も入っているボランティアグループのLINEで知った。
まぁまぁびっくりな病をまさか、家族が先でなく、他者もいるLINEで言うんだ…という行動はさておき、顔面麻痺について調べてみた。
端的にまとめると、ウイルスが主な原因で、自分の免疫力が下がっていると発症しやすいそうだ。まぁ、つまり母は相当疲れているということだ。
顔面麻痺について調べて、私は、あの母がまさかと思わざるを得なかった。
母という存在=私を縛る鎖だった
ネガティブにも捉えらかねない表現だが、母という存在は、心の奥底で私を縛る鎖のような存在だった。本当に無意識なわけだけど。
これまで「~ねばならない」に囚われていた自分の思考の奥底をたどってみた時、自分の心の中で父を赦すということをしたとき、「ねばならない」ベールをはがされる感覚があったのだが、どうも引っかかっている自分がいた。
上は見えているのに、突破できないガラスの天井のような感じだ。

本当に幼少期の記憶まで遡って振り返ると母の存在というか、私のフィルターで見た母の存在が結果として「ねばならない」に囚われる自分を作りだしてしまっていた。えっ・・・なんで。
母はスーパーウーマン?

三姉妹の長女として生まれ、ちょっといろんな事情に巻き込まれ、自身の母(私にとっては祖母)は、夫と家族と離れて別の男性と駆け落ちみたいな感じで再婚。ちょっとした朝ドラの主人公みたいなストーリーを持っている。
私が生まれてからは、祖母と再婚した男性の仕事を手伝うために宅建の資格を取り、父が脱サラしてからは、父とともに働き、結果として父と母のおかげで私も弟も奨学金に頼らず、大学まで卒業させてもらった。
今もボランティア活動では頼りにされており、地域の民生委員をやるなど、もうパワフルすぎて・・・
弱音を吐くところもこれまで見たことがなく、それが私の母なのである。
この母を私の心の中にいる子どもの頃の自分が赦した時の話はまた今度。
さて、60をとっくに過ぎて、急な病を患って、生きている中で「ちょっと待った!」が突然やってきた母は今、何を思っているのだろう。
娘としては、身体を休めて欲しい思いがあるが、母のことだ、誰かが「休みな」と声をかけても自分から動いてしまう、それが染み付いてる。
数多ある選択肢の中で結果として自分が動くのも、母らしいとは言えるが、本当の本当に待った!な時に、私は母に何を問いかけられるだろうか。
誰もがきっとやってくる「ちょっと待った」
何もない人生なんて恐らくないと思う。
何か立ち止まるきっかけが大小ある中で、人は、私は何を自分自身に問いかけるんだろう。
どんな選択をするのでも、
「あー、あぁしたら良かった」
誰かのせい、環境のせいと言って後悔を抱かないことが大切なのかなぁと思う。
そのような問いかけができるだろうか。
母も、周りも歳をとり、
日々社会も目まぐるしく動いて、
ちょっと待てないこともあるかもしれないけど
それでも繋がりある人が元気で過ごされることを祈りたいし、その時が来たら問いかけたい
「ちょっと待った」と。