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その屋形は「白鳥おどり」の熱狂を50年間見つめてきた......! 超高額の踊り屋形を作った駅前商店街ルーキーたちの熱い挑戦

日本中の誰もが知っているあのお祭り、あのフェス、あのイベントにも、その成功や発展の裏側には数々のヒーローがいたはずだ。彼/彼女が表に立つ人であれ、裏方であれ、等しくヒーローであり、誰もが後世に語り継がれ得る資格を持っている。今回、インタビューするのは、岐阜県郡上市白鳥町の盆踊り「白鳥おどり」を支えたヒーローの一人である。

白鳥おどりには2つの側面がある。神社の拝殿を舞台に歌の取り合いしながら踊られる昔ながらの「拝殿おどり」、そして町中で三味線や太鼓などの鳴り物を伴いながら賑やかに踊られる「町おどり」だ。7〜8月の祭りシーズンを通しておよそ7万人の来場者を呼び込み町を活気付かせる「町おどり」だが、その原点となる「拝殿おどり」も1996年に白鳥町の重要無形民俗文化財に指定されるなど、近年になって保存・復活の動きが進んでいる。

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「町おどり」にあって「拝殿おどり」のないものは何か。1つ挙げるとするならば、踊りの輪の中央にある「屋形」だ。屋形とは、三味線や太鼓、笛を演奏する囃し手と、盆踊り唄を歌う音頭取りを載せる山車のことである。いわば踊り子たちを先導する”サウンドシステム”の役割を果たすだけでなく、それ自体が踊り子たちの輪の中心点となる。「盆踊り」という時間と空間のイニシアチヴをとるのが屋形であり、「町おどり」の象徴とも言える存在だ。

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完成からおよそ50年。実はこの屋形ができた背景には、地元の商店会の若者たちの奮闘があったことは、現在あまり知られていない。当時は「家一軒が建つ値段」と言われたこの屋形がどのようにしてできたのか。今回、屋形完成に尽力した「ジュニアいかす会」の創設メンバーであり、当時の実業を知る数少ない人間の一人、白鳥観光協会会長の寺田澄男さん(御年82歳!)にお話を伺うことができた。寺田さんは白鳥おどり会場の1つである駅前通り商店街の「寺田書店」を経営されており、商店会の立場から長年祭りを支えてきた人物だ。

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白鳥駅前の200メートルある商店街。白鳥おどりの会場の1つ。奥に見えるのが美濃白鳥駅。

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寺田書店。

また、今回のインタビューに当たって、地元白鳥町出身の切り絵作家・草太さんにも同席いただいた。草太さんは2019年の白鳥おどりの公式ポスターを手がけられているだけでなく、数年前から地元の仲間同士で「郡上っていいんなー。」という地域活性のグループを立ち上げ、白鳥町の情報を発信し続けている。また草太さんのお母様は「寺田書店」と同じ駅前商店街でスナック「コタン」を経営されている。

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2019年の白鳥おどり公式ポスター。(画像提供:草太さん)

同じ白鳥を想う「現在の若者」と、「かつての若者」の対話から、地元を盛り上げる新しい推進力が生まれるのではないか、勝手ながらそんな期待を抱きつつ。「実は、寺田さんとちゃんと話したことがないのでドキドキしますね」、取材前には緊張気味だった草太さんだったが、話は弾み話は白鳥の「過去」から「未来」に発展。結果的には、16000文字の超ロングインタービューと相成った!(長いです!)

取材・文=小野和哉
撮影=渡辺 葉(注釈のあるものは、筆者が撮影)
聞き手=草太(切り絵作家)

「警察官」から「町の本屋」さんに

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ーー寺田さんはこちら(白鳥町)の出身ですか?

寺田 僕は隣の大和町の出身です。大和の明建という、古今伝授の里の近くですね。昭和37年にここへ来ました。

渡辺 明建神社、行ったことあります。知り合いがいて。

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寺田 七日祭とか、桜のトンネルとかが有名ですね。僕もあそこを自転車で通りました。郡上高校に通ったんです、3年間。

※七日祭(なぬかびまつり)......毎年、8月7日に郡上市大和町の明建神社に奉納される神事である。祭の起源については、確証はないが、元禄6年(1693)村役人が奉行所へ出した祭礼執行の儀式書が残っている。現行のものは、ほとんど変わりがない。(岐阜県公式サイトより)
※桜のトンネル.....桜並木や樹齢700年以上の大杉がそびえる明建神社の参道に、約250mにわたって大小100本あまりのヤマザクラ・ソメイヨシノがほぼ同時に咲き誇り、飛騨・美濃さくら33選にも選ばれているそう。


渡辺 郡上高校まで、遠いですよね 。

寺田 すごい遠いですよ。あの頃は、汽車に乗り遅れると自転車で往復やったんですね。天気がいい日は、トラックが通ると砂埃が舞って、学校入る前に脱いでバーっと払って入ったものです。まあ、そんなことは、あの頃は誰でも体験しました(笑)。そういう生活でしたから。

ーーちなみに生まれの年は。

寺田 昭和12年の2月15日です。

ーーということは、戦前ですね。

寺田 生まれたのはそうですね。終戦は小学校2年生やったと思いますけど。学校は大和の分校で、小学校1年から中学校3年まで過ごしました。分校でも小学校や中学まで220人くらいまでおりましたね、あの頃は。今では分校なんてものはないくらいで……。

草太 分校は、うちの母親とかの世代がギリギリかもしれないですね。六ノ里の。僕、母親が六ノ里出身なんです。

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切り絵作家の草太さん。

寺田 そんなとこで、大和の百姓の三男坊で生まれたんですね。それから野山で駆けずりまわってよく遊んで(笑)。懐かしいですわ。

ーー畑をやられていたんですか?

寺田 ええ、畑とか。父親が養鶏をやってましたので、そのお手伝いもしていました。ひよこを買うっていうと、美濃加茂の方にひよこを育てる、今でもあるんですけど、後藤養鶏場とか、そういうところでひよこを買って。”チッキ”って言うんですかね、汽車で送ることを”チッキ”で送るって言ったんですけど。いわゆる貨物便みたいなもので、ひよこが来るんですよ。

※チッキ......英語の「チェック」が変化して、「チッキ」となったらしい。鉄道などが旅客から手荷物を預かって輸送するときの引換券。手荷物預り証。転じて、手荷物として輸送すること。また、その手荷物。(デジタル大辞泉参照)

ーー想像すると、かわいいですね(笑)

寺田 生まれたばっかの。餌付けはしてないんです。それを受け取りにリヤカーを引いて、行くときは親父に乗せてもらって、帰りはえんやらこらって引っ張って来て。それで、自宅で餌付けするんです。春といえども温度をかけないかんもんですから、あの頃は電球で温めて、こんな箱みたいなとこで、五十羽とか育てました。

ーーそこから中高と進んで……

寺田 はい。それから、自分から進んで行ったという覚えはないんですけど、名古屋で就職するんですよ。あの頃、昭和30年代はすごく就職難だったんです。なかなか就職先がなくて、僕らの同級生は東京に出た同級生はおるんですけど、いきなり東京はこんな田舎から出れんもんですから、一旦名古屋とか岐阜に就職して、東京へのステップにしようとしました。

ーー名古屋での仕事は。

寺田 父親が国民小学校を出た後に名古屋に出て、裁判所の書記官になりたいって、松坂屋の近くにレコード屋があったでアルバイトをして、夜は二階に泊めてもらって勉強しとったそうです。書記官になんか、なれっこないんやろうけど(笑)。そんなことをなんとなく聞いていて、そんなら僕も(名古屋で働こうと)、皇宮警察と、愛知県警を受けたんですね。皇宮警察は見事に落ちました(笑)。愛知県警は受かって、昭和30年の4月に入ったんですけど、まあそんなわけで警察官をやっとったんです。

ーーしばらく警察をやられていたのですか?

寺田 警察学校1年と、交番勤務を1年半と、機動隊を3年半、間に一年間の休みを挟み、合計7年間、勤めました。一年間は、体を痛めて国立療養所に入ってたんです。ちょっと自分には警察官という仕事が合わないかなとモヤモヤしていた時に結婚の話があって、すっかりその気になってまって。あの頃、警察は危険職ということで13年やると恩給がついたので親兄弟も全員反対でしたが、そんなのを押し切って白鳥に来たんです。結果は良かったは悪かったか。まあ、棺桶に入ってみないとわからんですわ(笑)

ーーそれで奥さんの家がやっている白鳥の寺田書店に来たんですね。

寺田 当時は古本と文房具を売っていました。結婚したのは昭和37年の4月だったんですけど、その年の7月でしたかね、暑い夜でした。父親(義父)が青い金庫と、仕入れ帳と、売り上げ帳、要は金銭出納帳ですね。明日これ全部お前に渡すで(店を)やれって言われて。ええ〜。武士は食わねど高楊枝ってわけにはいかん、弱ったな〜ってことで。しかも、新婚でホヤホヤしとるのにねえ(笑)。その時はなんてひどい親やと思ったんですけど、今では感謝ですね、いろんな面で。私の義父ですけど、父親は本っ当に尊敬しても足らんくらいの立派な人間やったですね。

大人は拝殿おどり、子どもは神社の境内で「びゃいとう」

ーー寺田さんが子どもの頃の盆踊りはどのような感じでしたか?

寺田 私はもともと大和の出身でしたので、白鳥とはちょっと違った踊りがあったわけですね。でも拝殿おどりっていうのは大和にもありました。

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岐阜県郡上市白鳥町、長滝白山神社の拝殿おどり。

草太 大和にもあったんですか?

寺田 ありました。特に戦後ですけど、青年団っていうのがありまして、青年団の人たちが、お盆の準備になると大きな提灯を張り替えするんです。そして絵を描くんです。

草太 どのような絵でしたか? 何か決まった絵柄があるとか。

寺田 自由やったと思います。切り絵作家からすると「え〜」かもしれないですけど。

草太 いやいや(笑)

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写真は大和ではないが、岐阜県本巣市根尾の拝殿おどりで使用されている提灯。大きな提灯に愛らしい絵が描かれている。

寺田 そんな感じで青年団の人が描いてるのを垣間見てましたね。提灯の中に電気を入れて、その下で拝殿おどりをやる。僕たち子どもは境内で、暗いところでねえ、まだ少年だったんで恋心はなかったですけど、陣取りとか、かくれんぼとか、喧嘩したり。思い出としては、「びゃいとう(枇杷葉湯)」ってご存知ですか? ちょっとコカコーラみたいな味だったんですけどね。茶色のね。

草太 (スマホで調べて)びわの葉のお茶ですかね。

寺田 そうそうお茶です。それにちょっと砂糖を入れて甘くてして、一杯10円か10銭やったか知りませんけど、売ってるんです。それが楽しみで。おじさんが来てね、こういう四角い筒を担いでどーんと立てるんですね。ほのかな明りがついている。それをみんなが「びゃいとうを買って飲もうか」みたいな感じで。

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『江戸年中風俗之絵 』より枇杷葉湯売りの様子(国立国会図書館蔵)。枇杷葉湯とは、ビワの葉を乾燥させて肉桂・甘草・莪蒁(ガジュツ)・甘茶などを合わせて煎じたもの。暑気あたりや下り腹などに用いたそうだ。江戸時代には図のような枇杷葉湯売りが町を闊歩したらしい。寺田さんの話だと、戦後間もなくにもこのような物売りがいたことになる。
(参考:季語にもある、かつての夏の風物詩「枇杷葉湯売り」

ーー一方で大人たちは拝殿で踊っていると。

寺田 うん、そうですそうです。ほんでやっぱり、今と一緒で、歌の上手い人が、歌の奪い合いっこして。で、(前の人の歌が)終わるか終わらんかのうちに、すぐ「あ、源助さん、源助さん〜」って取り合う(笑)。それで声のいい人でいい男は、モテたもんだそうですよ。

※源助さん......白鳥おどりの最初に踊られる代表曲。『白鳥踊り五十年史』(五十年史編集部会 編、白鳥踊り保存会五十周年記念事業実行委員会、1997)によると、愛知県の製糸工場で流行った唄を女工さんが故郷白鳥に持ち帰ってきて、後に白鳥おどりに取り入れられたらしい。比較的、時代の浅い曲。元は福井県から来た女工さんが踊っていたようだが、当地ではもう残っていないということで、現在では白鳥由来の唄という扱いになっている(越前に「伝助さん」という踊り歌があるが関係性は不明)。また、郡上八幡でも「源助」が踊られていたようで戦後間もなく郡上踊保存会が郡上紡績工場長宛に「源助踊は厳禁したいと思います」と依頼状を送った記録も残っている(郡上おどり史編纂委員会 編『歴史で見る郡上おどり』、八幡町、1993)。当時は郡上郡内全域で流行っていたのかもしれない。

ーーそれは何歳くらいの時ですか?

寺田 僕が3年4年くらいですね。13歳前後ですね。それで、お聞きになったと思いますけど、拝殿の暗がりが男女の唯一の出会いの場やったそうです。よく今でも出会い出会いっていいますけどね。今でも白鳥おどり、明るいところでも出会いがあるんだと思います。まあ、僕はわかりませんが(笑)

ーー寺田さんは拝殿では踊られなかったんですか?

寺田 いや、まだ若かったですから。それで時代がちょっと進んでくると、大和の場合はお寺の境内と、学校のグランドで盆踊りを踊りましたね。あの頃は「郡上のな〜」(郡上節)やったと思いますけど。「月が出た出た」(炭坑節)も踊っていたかもしれません。

ーーレコードをかけて。

寺田 いや、歌っとった。マイクで。お囃子も全然なしに。

ーー生歌ですか!? しかし 戦争の後も、盆踊りは盛んに踊られていたということですね。

寺田 これが不思議ですけどね。戦中でも隠れて踊ったということですから、禁止令が出ても。拝殿おどりの発祥祭がありますわね、7月の9日ですかね。あれは、298年くらい前に藩から(盆踊りの)禁止令が出てるんですね。ほれでも聞くところによると隠れて踊っとったっていう話ですね。六ノ里なんか特に、目が届かんですから(笑)

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近年の六ノ里での拝殿おどりの模様。

寺田 いま六ノ里の方で拝殿おどりが復活して、草太君の在所では三箇所か四箇所で踊りがあるようですよ。六ノ里は声のいい人がおるもんね、やっぱり。多少、拝殿おどりのDNAというか血を引いてるかもしれないですね。

「拝殿おどり」から「町おどり」へ

ーー戦後、昔ながらの拝殿おどりから、お寺や学校で踊られる盆踊りに変わっていったというのは、まさに時代の過渡期という感じがしますけど、現在行われている町中の「町おどり」はどのようにして始まったのでしょうか。

寺田 その経緯はあまり知らないんですけど、(始まったのは)僕が白鳥に来た昭和37年以降やと思ってたんです。それで地元の娘で私より2つ上の家内(昭和10年生まれ)に聞いたら、「いや、私が成人になった頃にもやっていた」と。白鳥神社の縁日が、あの頃は19日〜21日の三日間って決まってたんです。お祭りの後に、駅前の三叉路でお年寄りたちが、浴衣でなしに単衣物かなんかを着て踊っとった、それを見たっていうんです。となると、終戦が昭和20年ですから、25年から30年頃には町中で踊ってたんではないかと思うんです。これ想像ですけど。

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白鳥神社の秋の例大祭。この日の夜に拝殿おどりも行われる。

ーー白鳥神社ではまた拝殿おどりをやるじゃないですか。あれとは別に道で踊ってたんですか?

寺田 別に。町で目立ちたがり屋みたいな感じで踊ってたかもしれないですね。

草太 自発的に始まった感じですかねえ。

寺田 そうそうそう。それに関連したことでいうと、9月に行われている「白鳥の駅前通り 変装おどりコンクール」が今年で73回目を迎えたんですけど、なぜ「駅前変装おどり」が始まったかというと、白鳥神社の縁日の日に、青年団の人達が太鼓叩いたり、天狗やったり、オカメやったりして、祭りに参加しとったんですね。その一番最後の21日に衣装じまいといって、祭りの衣装を片付ける作業を青年団が受けよったらしいんですよ。その作業の後にお酒が出るのですが、衣装があるもんですから、それを着て拝殿で踊っとったのが転じて変装踊り(の原型)になったんじゃないかなと。

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「源助さん」の演奏に合わせて、ステージを歩く参加者たち。変装おどりでは、ハイクオリティの仮装大会が繰り広げられる。

ーーああ、それで「変装おどり」は、踊りシーズン(7〜8月)とは外れた9月にやってるんですね。

寺田 それで、オイルショックの昭和48年前後やったと思うんですけど、青年団長がうちに来てくれて、「寺田さん、青年団もこれ(お金)がなくて、変装踊りの運営はできんと。なんとか商店街で(引き受けてくれないかと)。あの頃は商店街は急成長ですからね、いけいけどんどんですから、おおよしよしってなもんで、受け取って変装踊りを始めたんです。それで戦後すぐの年から青年団は変装踊りをやっとったそうなので、終戦の日から数えて「第○回」とつけたんです

※「白鳥踊り保存会五十年史」掲載の年表を参照すると、「昭和26年9月20日 白鳥神社例祭協賛変装踊り(駅前)」という形で、初めて「変装踊り」の開催が記録されている。

ーーなるほどなるほど。「変装踊り」が「町おどり」の原点的な部分もある可能性もあると。

寺田 そうですね。やっぱり年代が若くなってくると目立ちたがりですから、若者たちから明るいところで踊りたいっていう雰囲気が出て来たということと、商店街としては1つのまつりごととして「町で踊らんかい」と、両方(の意向)があいまって「町おどり」になったんでないかなと。商店街は元気あるもんですから、「それ、宮で踊っとらずに、うちの町来て踊らんかいよ」と。僕が昭和37年に来た頃は、しっかりした盆踊りを町中で見たことがあまり記憶にないんです。多分、町おどりはあるにはあったけど、盛んになったのは40年頃やと思うんです。

地元のために立ち上がった二世たち

ーー「ジュニアいかす会」はどのようにできたのでしょうか。

寺田 白鳥の春祭りって今も5月にあるんですけど、前は4月29日が春祭りだったんです。それが、毎年必ずって言っていいくらい29日が雨降ったんです。ほんで日にちを変えまいかっていうことで5月に持っていった。ほいたら連休が続いて来て、あの頃はまだ大型連休なかったからねえ、大型連休に春祭りということになった。その中で、37、8軒あった商店街で上田楽器店の上田くん、たから屋の宝くん、大阪バーバーで家具と床屋やっとった篭原くん、それで僕と4人で春祭りの時に神輿を作って、子供会で出たんです。でも店をやると忙しくてなかなか、(周りから)手伝ってもらえなかった。そして、今なくなったけど博寿司の前の広場、あそこの建物、農協やったんです。

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農協があった建物の跡地。

草太 ああ、そうですねえ、昔。僕はわからない時ですけど、そう聞いてます。うちの母親、結婚式そこでしたって言ってました。

寺田 うん。でまあ4人がそこの地下のレストランに寄って酒飲みながら、こんなことでは来年の神輿はやれんぞってことで、こら若者で会を作らんかよと、いわゆる二世会をってことで話がまとまって、その年に「ジュニアいかす会」ってのを作ったんです。18人くらいで。

ーーそんなにいたんですか。

寺田 いたんです、若者が。

ーー「いかす会」という名前の由来は。

寺田 うん。あの頃ね、裕次郎の「いかすじゃないか~」って唄が流行ったの。「いかす」って言葉が盛んに流行ったの。40年から42年代にね。

ーーそこからとったんですか?(笑)

寺田 そうなんです。最初は「ジュニア会」だけやったけど、「そらあ、今の時代の言葉を入れんかよ」って、「いかす」。「ジュニアいかす会」ってなったんです。そらあ、総会なんか盛り上がりましたよ、随分。

ーー盛り上がったというのは、当時の若手たちが?

寺田 そう若手ばっかです。その頃いわゆるオヤジたちは、「君たちがそういう風にやることについては何があっても全面的に応援する」と。金が足らなければ本会から金を出すとかね。「全面的」とか聞いて、余計に元気がついてまってね。もうメチャクチャなことやった(笑)。それで事故が起きたり、こういう屋形が作れるようになった。優等生ではこういうことはできんですよ。今の子は優等生か、みんな? どうなんやねん、草太くん?(笑)

ーーどんなメチャクチャなことをやったんですか?

寺田 最初は学校に横断歩道の黄色い旗を寄贈したりね。

ーーめっちゃ、いいことしてるじゃないですか。

寺田 あとはみんな店から物を持ち寄って、農協の三階で、結婚式場があったんです、そこで赤札市をやったり。

ーー赤札市って何ですか?

寺田 例えば、自分の店では100円の売値だけど、赤札市では80円で売るとか。

草太 なるほど、バザーみたいな。

寺田 そう、バザー。これがすごく流行って。「夜明けのスキャット」って曲、ご存知ですか? 

ーーなんか聞いたことあるような……

寺田 「る~るるる~」って、由紀さおりの。あれを宣伝カーでね、大和、高鷲をぐる~っと廻って。「お馴染みの駅前商店街でございます、今月の何日から何日まで赤札市を開催します、皆さんお誘い合わせでお越しください」って喋って。録音でなしで、生で喋ったんですから。その間に「夜明けのスキャット」を流しながら。ふふ(笑)

渡辺 選曲が渋いですね(笑)

寺田 それからダンスをやって。その頃、劇場がこの町に2つあったんです。映画劇場。それが古くなったというか、見る人が少なくなって廃屋になっとったんです。それを借りて、掃除をして。もうかび臭かったけどね、オーデコロンをまいて、そこでチケットを売って儲けるんです。

ーー地元の若い人が来るんですか? 画期的ですね。

寺田 画期的です。もう亡くなってしまったけど、堀越って人がおって、その人がダンスのベテランだったんです。その人がうまくリードしてくれた。そして、いまエイトビルってあるけど、あの3階に、よく借りれたと思うけど、会議室の広いところがあった。できたばかりのところで、ダンスパーティーをやりましたね。

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若者たちがダンスに熱狂した?エイトビル(撮影:小野和哉)

ーー他にいかす会でやってたことはありますか?

寺田 これはまた話すと長くなるんですが、神社に先祖の霊を迎えるっていう踊りのキリコ。そのキリコを、長老から「昔はキリコの下で踊ったもんや」ってことを聞いたんです。その一言で「それって何ですか?」って言ったら、中へろうそくで火をつけて、薄明るい元で踊ったもんやって言われて。それって作れんかな?って言ったら、「作ったるよ」って見本を作ってくれた。あの、寺田写真のおじさん。

草太 そうなんですね。

寺田 それを作って「『きりこ祭り』をやらまいか」ってことになった、いかす会で。

草太 それまではキリコっていうのをみんな知らなかったんですか?

寺田 知らなかった。

ーーということは、その時点では拝殿踊りがなくなりかけてた?

寺田 そうですね。以前はキリコを作って踊っていたところもあったと思いますよ。ところが途中で途絶えて。

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草太 今では白鳥おどりといえばキリコっていうくらい、シンボルマークになってますよね。

寺田 そんなええものがあるんだから「きりこ祭り」をやらまいかってなったの。きりこ祭りって言っても、一宮に「七夕まつり」ってあるでしょ、仙台にもありますけど。一宮の七夕まつりを見に行かないかと。それを参考にしようって言って、役員で行ったんですよ。

草太 その話、聞いたことあります。

寺田 そしたらね、今から50年前ですけど、アポロ11号かな、入り口に実物大のアポロがデーンと飾ってあったんですよ。それで役員も惚れ込んでまって、これを何とか譲ってもらいたいと。もちろん、金だいたんですよ。2万円か3万円をだいたと思いますが。それを買ってきて。 

草太 買ったんですか(笑)

寺田 買ってきた。ほして青竹を切ってきて、トンネルみたいに作ったんです。そこへキリコを作って吊って。そしたら、その年に雨が降ってねえ、大変だったんです。雨が降るとね電線に引っかかったり、電話線に引っかかったりして「電話聞こえん」って(笑)。国鉄からもバスが通る邪魔になるって叱られて。

草太 それが最初の「きりこ祭り」だったんですね。

寺田 「きりこ祭り」っていうのが定着してきて、お盆の期間、例えば今年の7月24日が(白鳥おどりの)発祥祭としますよ。そこのキリコ祭りのスタートやったんです。そして白鳥おどり発祥祭というのは前はなかったんです。ただ日程的に例えば7月24日から8月20日まで踊りましょうと、その期間を「きりこ祭り」というふうに決めたんです。

草太 なるほど。「きりこ祭り」が、後の「白鳥おどり」になったんですね。

「白鳥踊り保存会五十年史」によると、きりこ祭りがスタートしたのは昭和41年のこと。「きりこ祭りと白鳥郡上踊り」(白鳥区・商工会・中日新聞社共催)という名前で、7月22日駅前、23日橋本町、24日郵便局前で踊りが開催されている。さらに、同年の8月1日〜9月20日にかけても、町中を舞台に12夜、踊りが行われている。踊りの規模が現在のように拡大化したのは、この年からのようだ。なお、同書によれば徹夜踊りが始まったのは、前年の昭和40年とされている。

きっかけは「プロレス」だった

ーー現在も「町おどり」で使われている踊り屋形も「いかす会」さんが尽力されたと伺いましたが、どのような経緯で出来たのですか?

寺田 ある年、キリコの設営中に事故がありまして、裁判沙汰になったんです。あれはえらかったなあ。そうこうしているうちに、年が明けて裁判のお金が決着した頃に、名古屋の医薬品卸の総合商社、株式会社スズケンの初代社長、鈴木謙三さんが、高鷲の鷲見の別荘へ渓流釣りに来て、一週間くらい逗留して見えたんです。ほして、その鈴木謙三さんが自分で頭洗ったり、調髪せなあかんということで、白鳥駅前の大阪バーバーっていう床屋さんへ見えたんですね。そこで店の親父と仲良くなって、いろいろ話しておったら、駅前でそんなに元気のある若い者がおるなら、プロレスをやらんかって持ちかけて来たんです。

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大阪バーバーのあった場所は現在、喫茶店になっている。

ーー急にプロレスですか。

寺田 いかす会の旦雄(あさお)、この男が床屋の長男なんですけど、親父さんから「プロレスの話がきとる、やらんかって」ことで、僕たち役員に話がきて。そんなの絶対できんできん。そんな恐ろしいことはできんわって断ったんです。そしたら、またしばらくしたらスズケンの社長がやっぱりあれやらんかって来た。床屋の親父さんもプロレスが好きなんですよ、話乗ってまったんや。その息子が「また親父がやれって頼まれてるぞ」って言うもんで、寄ってね。それじゃあ一回サイン会をやってみるかと、プロレスラーの。そこでさっき言った農協の三階、結婚式場でサイン会をやったんです。サンダー杉山、グレート草津なんか3人きとったんですが、200人近く集まったんやないかな。これに意を強くして、「もしかしたらええかもしれないぞ」ってなって、プロレスの話も乗ってまったんです。

ーー大盛況ですね。

寺田 プロレスやるなんてことはとんでもない話で、最初は7つの商工会全部にチケットをここに200枚、ここに200枚と頼んだ。一週間経って電話したら、全然売れてないんです。これはいかんぞってことで、今度は毎日二人宣伝カーを仕立てて「こちらは国際プロレス興行の宣伝カーでございます」なんて呼ばってて(笑)、郡上郡中を、七か町村を回ったんです。昼間は田んぼで全然会えないので、夜に訪問して「あの~寺田の本屋です」「なんや本屋か、何や」「実はプロレスが……」「あ~わかったわかった、二枚置いてけ」ってこんな感じでチケットを売ったんです(笑)。それが三十何万も儲けが出たんです。面白かったなあ、今思うと。

ーー楽しそうですね。

寺田 翌年にスズケンの別荘へお礼に行ったんです、どうもありがとうございましたと。ほしたら非常に喜んでくださって、お前ら本当にようやってくれた、こんな田舎にこんな若者がおるとは思いもせなんだって、褒めてくださって、それでまた調子にのってまって「社長さん、白鳥にもお盆に踊りがあるでぜひ来てください、徹夜もあるんですよ」って言ったら、「おお、そうか、八幡ばっかでなしに白鳥にもあるんか」ってことで、ほんなら行くわってことになったんです。それで僕が「そやけど、みんな。あの屋形ではちょっと恥ずかしいなあ。来てもらっても」って言ったら、それを目ざとく聞いてくださって「その屋形っていくらくらいでできるんかね」って。前は鉄骨やったんです、屋形は。青木鉄工所ってところで作って。お粗末なもんでビニールの屋根でね、白と青のこーんなのがかけてあるだけで、寒くなるような感じの。

ーーそういう屋台だったんですか。

寺田 「どうやろ。60万くらいありゃできるんじゃないか」って言ったら、「おう60万かね、なら今年の夏に間に合わせよう」って言ったんですよ。それが6月の時点だったので間に合うはずはないのですが、「そうですか、なんとかします」って飛んで帰って、その当時の保存会長が大工の棟梁に近い人だったので相談したら宮大工さんが見えて、せっかく作るんなら鉄パイプじゃなくて木で作らないかんってことになった。お願いしますって頼んだら11月頃に見積もりが来たんです。そしたら90万の見積もりですわ。そうやけどな、せっかく木でつくるなら銀行で借り入れまいかと、十六銀行へある人を通じて借りることになって、金はなんとかなると90万の予算でスタートしたんです。それでずーっとやって来て、最終的には320万やったかな、スズケンの社長からもらえることになったんです。

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取材をした寺田さんの事務所でお出迎えしてくれた、飼い犬「ルーク」くん。まだ1歳ほどでとても人懐っこく、取材中も「遊んで、遊んで」としきりに近寄ってくる。

ーー最終的には、費用を全部社長が負担してくれたんですね。しかし、最初の60万という見積もりは何だったんだ……。

寺田 (90万の見積もりをもらった時に、直談判で)これはスズケンの社長に本社で会わないかんって(役員三人で)行って、本社の玄関の前でじーっと、あれ6時半、7時やったかな。三人で待ってるの。ぜーんぜん社長は9時になっても出て見えんで、業を煮やして受付行ったら、「今日は社長の出社予定はありません」って言われて、ガクーンと。おい弱ったぞってことになって、その頃、下請けの会社の亀井って社長を知っとったものですから、近くだからそこ行かまいかって行ったんや。ほしたら西尾って秘書がおって「いや社長は今日四国に行って、おりませんわ」って、またガクーンときて、弱ったな~って。西尾さんに「ちょっと(スズケン社長の)自宅に電話してみてくれんかね」って。「わしみたいな下請けの会社、そんなことようせん」っていうんです。ほんなら、篭原くんが、電話かけてもらったら僕が受話器をもらうって言って。ほいでもらって、もしもし実はこういうわけで屋形のことで来とりますって言ったら、そんなら自宅に来てくれってことになって、行ったんです。そしたらスズケンの社長がいて、二日酔いで休んでだと(笑)。まあ上がれ上がれって言われて見積書を見せたらジーっと見て、やっぱり眼光の厳しい人やったね。ポイッて書類を放って、「家が一軒建つね、まあ君んたに任せたから作ってくれ」ってこんな感じや。ははははーって三人が福助みたいになってまって。

ーー当時の貨幣価値では「家一軒分の値段」だったんですね......。

草太 歴史が変わった瞬間ですね(笑)

寺田 立派な屋形だったので、見る人によっては「これは800万から1000万かかるな」っていう話やったですよ。なぜ安くできたかっていうと、僕たちは労力はみんな持ち出しですから。飲食費なんか一切見てないでね。夜は飲んで元気つけとった。

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ーーなんで、スズケンの社長さんはそこまでしてくれたんですかね。

寺田 やっぱり誠心誠意(社長に接したことかな)。雪の少ない年に石徹白の檜峠まで行って、小さいトラックに積んで塩もかけたりして、名古屋まで持って行って、三箇所にだるまを作ったんです。そういうこともえかったし、スズケンの社長がアマゴの遠火焼きっていって、こんがり焼いたのを好きってことでね、みんな寄って夜中の12時頃までにね、コンクリのU字工でアマゴを焼いて、次の朝持っていったり。ほいでから、お孫さんにってことで、蛍を前谷の谷へ行ってとってきて朝届けたりね。ずいぶん、ゴマ擦ったんですよ。

ーー誠意と熱意が伝わったんですね。しかし、屋形に書いてある「スズケン寄贈」って何のこっちゃ、とは部外者として思ってました。

草太 あの屋形にそんなドラマがあるとは、白鳥の人も多分あんま知っとる人はもう今は少ないんじゃないですかね。

寺田 これを語れるのは僕しかおらんな。最初に「いかす会」を作った四人のうち、三人は死んでまっとるんよ。18人くらいいたメンバーも、僕を入れて生き残っているのは三人や。

”地方消滅”時代の「町づくり」と「白鳥おどり」

ーーこれから白鳥おどりはどうなっていったらいいんでしょうか。

寺田 はい、私も長いこと観光協会会長をやるってことにはいかないので、色々と心配しとるんですけど。今、大廃業時代っていうのが来ていて、これはすでに20年前に大型店舗法っていうのが改正されて、日本全国どこでも大型店舗ができることになったんですね、これはどういうことをクリアすればいいかというと、まず交通対策、ゴミ対策、騒音、この3つの点がクリアされれば、そこの町長なり市長がすぐ判を押さないかんっていう法律になっとった。それによって、大型店舗が来た時点からバタバタと商店街の大廃業時代が始まっとる。もう20年前からはじっとるんです。そういった状況の中で、草太くんやうちの息子たちが事業承継をある程度って状態であれば、廃業を迎えずにも済んだんですけど、例えば給料が30万、35万とかとれる商売でなければ、どっか行かなあかんのです。で、みんな自分の店を捨ててよそに行ったんですね。

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ーー全国的な問題ですね。

寺田 地方の消滅でないけども、そういう時代に突入して、今度は商店街、発展会がものすごく力がなくなった。ほんであの屋形を引っ張るのに、最低6人、7人おらんと出し入れができない。途中は車で引っ張っていくけどね。そうなると、徹夜踊りの4時過ぎに、商店街の若者が4時から5時におらないかんです。あるところによっては商店街の力がないもので、踊りに来た人に手伝ってもらってやっているというのが現状。商店街が衰退してくると、踊り自体がやれなくなる。

ーーそこは繋がってますもんね。

寺田 繋がってる。そこで今僕が提案しとるのが、発展会もいわゆる町内会・自治会も一緒になって白鳥おどりを運営すること。そうしてもらわんと、たちいかない状態になってる。それで、これをある程度自治会に移譲したとなると、商店街の人はこれ幸い、踊りは自治会、町内会に任せたで、わしんたは知らんよ、ってなることも可能性もある。

草太 本当は一緒になってやったらいいんですけどね。

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寺田 うん、そうなんやけども、商店街は力ないもんやから、町内会が受けてくれるとなるとスーッと手を引くような気がする。小売業っていうのは本当に今、厳しい。でも、ご存知のように飲食店は残っとる。飲食店が残っとるだけでもいいんですよ。今、観光協会としては、白鳥には割合美味しいものがあるってことで、これをなんとか拡大して「白鳥はグルメの街」であることも表明していかないかんと思ってます。

草太 それこそ八幡から白鳥に食べに来たいって人もおるくらいで。飲食は昼も夜も盛んですよね。

ーー昔の商店街はもっと活気があったんですか?

寺田 それはもうー、言葉で表せないくらい元気やったんや。金で表してはいかんけど、今の9つ商店街があるんですけどーー前は11くらいあったんですけどーーその中で自営業の人が200〜300万借りる人がどれくらいあるかというと、もう皆無に近い。元取るのに時間かかる。以前は200〜300万は五年もあれば楽に返せたのに。

ーー昔はお店を新しく始めてすぐに資金を回収できたけど、今は……

草太 飲食ならまだ、もしかしたら夜の居酒屋とかやったらメドが立つかもしれないけど、他の商売で駅前でやろうと思ったら、これ果たして採算取れるかっていうのは、今の現状を見ると難しいですよね。人口も減っていくってなると、これから先はやっぱり拍車がかかってみんなネガティブになっていくっていうのはあるかもしれない。国道沿いならまだしも、駅前商店街ってなると、結構難しいって思っちゃうかもですね。

ーー昨年から、町内の来通寺さんというお寺で、ちょっと今までにないようなおしゃれな雰囲気の地域密着型イベントが始まりましたね。あれはどういった人たちがやってるんですか?

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画像提供:草太さん

草太 あれは、それこそ来通寺の前の角の「渡辺パーマ」の娘さんが、主婦の人たちのつながりでなんかやろうという話になって。発展会とかそういう枠とは違って、千登美さんが独自に何かやりたいなってことで、じゃあみんな集まってやろうよって、そこに僕も切り絵パフォーマンスで声をかけてもらったんです。

寺田 ああいう人たちが出て来るといいねえ。

草太 そうですねえ。そういう垣根を超えた集まりがもっとできるともっと面白くなるかなと思うんですけどね。

寺田 あれは若いお坊さんも協力して見えるし。そういう、渡辺さんとか新しいグループが狐火みたいにポンポン出て来るといいかもしれないね。

ーーそれこそ、踊りに惹かれてやって来た外部の人を巻き込んで催しをやるというのもいいかもしれないですよね。

寺田 (町おこしという観点で言うと)実は、いかす会の時代に白鳥おどりを発展させようという動きが起きたのは、踊りに来た人に民宿に泊まってもらおうという狙いがあったんです。あの頃はまだ民宿が残ってたんですよ。道路もできていなかったし、交通機関もあまりパッとせんかったですから、踊りに来た人が一泊して、そこで飲んだり食べたりしてお金を落としてくれればいいってことでが、そもそも始まりなの。

ーー民宿に泊まってもらうっていうのが始まりだったんですね。

寺田 はい。そもそもの目的は民宿に泊まってもらって、八百屋や肉屋で肉を買い物をしたり、お客さんが来るってことで地元の人がいい服を買ったり、パーマをかけたり……ところが世の中が変わってまって、高速道路ができたから。

草太 高速道路が出来たら、もう通り道になっちゃって。

寺田 僕がいう立場じゃないけど、草太君のところのように飲食の人たちがもうちょっと連携して、10軒なら10軒団結して(何か取り組みをするとか)。

草太 もうちょっと(観光客を)歓迎するような体制を作るといいですよね。

寺田 これを言うのはちょっと無責任なことやけど、食べ物は短い通りに5軒、6軒、屋台村みたいにあってもお客さんはかえっていいんです。北海道行けばススキノいこかってくらいになければいかんね。競争はえらいけど、競争があるから栄える。

草太 飲食店の人も個としてはちょっと他のライバルできるのは、って思いがちですけど、白鳥全体が盛り上がれば、大和の人も高鷲の人も、白鳥行こうかってなりますしね。

寺田 理想的にはそう思うんやけど、ほしたら僕(寺田書店)の隣に本屋ができたらそれは困るけどね(笑)

ーー本屋は2軒あると過剰かもしれないですけど(笑)、食べ物屋は固まっていた方が、お客さんとしては選択肢があるからいいですよね。

寺田 郡上八幡で「秋の夜長のはしご酒」(郡上市商工会)という企画があったけど、あれはなかなかいい。 チケットを買ってそれで3軒くらいまでいけるんよな。17軒が固まって。飲食店が協力しあって。

草太 あれは白鳥でもやればって話がありましたね。白鳥なんか合ってると思いますけどね。勝手にお店をはしごする人が多いですからねえ(笑)

寺田 ぜひ、そういう企画も期待したいですね。

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白鳥おどりの屋形はどういう経緯で出来上がったのか、そんなエピソードを聞くつもりが、地域活性のために奮闘した若者たちの話から、「町おどり」誕生の経緯、そして白鳥という町の現在とこれから、という意外な話題へと発展していき、目からウロコの取材となった。

宗教性や地域の娯楽的性質を帯びた素朴な「盆踊り」が、戦後の高度経済成長によって人々の暮らしや街並みも劇的に変わっていくという時代の要請によって、より観光的な色彩の強い「お祭り」へと変化して行った。めまぐるしく移り変わる時代の象徴として、その「屋形」は今も熱狂的な踊りの渦の真ん中で、踊り子たちを見守っている。しかし50年も経つとさすがに老朽化も激しく、修理が必要であると寺田さんはいう。これからの祭りや地域をどのように変えていくのか、そんな大きな課題を屋形は問いかけてきているような気がしたのだった。

寺田書店
住所;岐阜県郡上市白鳥町白鳥969














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