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ごまめのごたく:ロシアのもろもろ(4)民族自決の流れ

 今回は、旧ソ連邦における民族自決の流れと、ソ連邦解体に伴う反動的な動きのお勉強。今の所まだ、モンゴル語が専門の言語学者である田中克彦氏の「シベリアに独立を!」をたどっていきます。引用文は『 』にします。

 早くプーチンに登場願いたいのですが、ここでの議論の流れは、ロシアの現状の背景を知るには大切なことだと感じるので(私の知らなかった、歴史の学びのためにも)、やはり要点だけでも書き留めておきます。


概要

 著者の言いたいことを、私なりに咀嚼した言い方をすると、「近代戦以降は、言語の侵略を大きな武器としていて、他民族支配の布石として欠かせない戦術として用いられてきた。それは、今も、ロシアにも中国にも受け継がれている」

民族自決という難題

自決とは

 手元の電子手帳「広辞苑第六版」では、
①自ら決断して自分の生命を絶つこと。自裁。「引責ー」
②他人の指図を受けずに自分で自分のことを決めること。「民族ー」

となっています。
ここでは、当然②の意味ですが、田中克彦氏は、①の意味であれば、「自害」という言葉があり、①の意味が先に記載されるようになったのは戦後であり、自決という言葉自体、明治以降の造語であろう、との考えを述べておられます。

フランスの場合

フランス革命の時の話です。

 『民族という集団をつくるのに、手放すことのできない重要なかかわりをもつものは「言語」である。』
 『フランス革命はその発端から、フランス民族以外の他民族の存在を認めなかった』
 
 フランスには、ブルトン語やバスク語を話す人々がいたにもかかわらず、なぜか?

 『それは、事実として異なる言語が存在しているのに、そんなものは「言語ではない」と否定してしまう。・・・それによって民族の存在も否定することができる・・・といという重宝な「言語思想」である。』

 『まともな言語とは何か、フランス革命時点でのイデオロギーにしたがえば、そのような言語は「理性的で、明晰で」なければならない。
 そして、フランス語だけが、その資格をもっていることを、18世紀のフランスの人文学者たちは全力をつくして証明しようとした。』 

 へー、そんなことがあったのか・・・・
どういう学者がどういう論陣を張ったのかは書かれていません。

ロシアの場合

 前回述べたように、16世紀以降、ロシアがシベリアに進出し、強引に征服していったが、 
『いわゆるヨーロッパ部のロシアを中核としながら、征服によって併合した、本来はスラブのものではない、巨大な地域、すなわち中央アジアとシベリア、極東地域などを擁していた。』
そこには、
 『120から160ほどもの多様な民族を含み、それを一体化するには単純な中央集権は考えることもできなかった。

そして、「民族自決権」の要求にどう対処するかが論じられるようになった。その結果・・・

1920年代から30年代の前半にかけてソ連では数多くの新しい言語が誕生した。それを話していたのは、民族(ナロード)と呼ばれる以前の段階の、小さな、いわば方言的集団(ナロードノスチ)であって』
かれらは、書き言葉を持っていなかった。

 『ソビエト政権は「ことば以前のことば」に文字を与え、文章語を作り出して、言語の自決をうながしたのである。』

ソビエト同盟憲法に反映された民族自決権

 『帝政ロシアの廃墟の上には、連邦制があらわれた。
ロシアの「連邦」は、「民族自決権」をより高等に表現した「同盟(ソユーズ)制」である

 1922年にあらわれたソビエト同盟(1950年代後半までは、こう呼ばれていた。以降、ソビエト連邦という呼称が一般的になったようです。正式には、ソビエト社会主義共和国連邦。以下、著書からの引用ではソビエト同盟で統一されています)は、ロシア連邦、ウクライナ、ベロルシア、ザカフカス連邦、の四つの共和国からなっていました。
 ロシア連邦じたいがその中にいくつもの民族自治共和国から成る連邦であって、ザカフカスも、アゼルバイジャン、グルジア、アルメニアの三つの共和国から成る連邦でした

 そして1922年に採決された第一次憲法は、これら共和国相互の間の同意にもとづく「同盟条約」によって成立し、この同盟を構成する単位は、「民族自決権」の上に成り立つ対等の同盟であって、そのことは、次のように明記されました。

「同盟〔を構成する]各共和国は自由に同盟から脱退する権利を保有する」

ソビエト同盟憲法:第二条第四項

 この規定は、1936年の第二次憲法(いわゆるスターリン憲法)においても、1977年の第三次憲法(いわゆるブレジネフ憲法)でも、わずかな表現の違いを除いて維持されました。

ブリヤート・モンゴルの悲劇

 ここは、要点をまとめておきます。

 モンゴル国に連続した北に、ロシア連邦を構成する「ブリヤート共和国」があります。

ブリヤート・モンゴルは、ハルハ・モンゴル(外モンゴル)と並ぶ、モンゴル族の一支族でしたが、1689年と1727年に結ばれた条約によりブリヤートとハルハは清国とロシアの国境を持って分断されました。
 
 ブリヤートは1923年にバイカル湖東岸と西岸が合体して共和国が成立して以来、1958年までは、ブリヤート・モンゴルと呼ばれていて、モンゴル民族の一支族として、ブリヤート・モンゴル語が用いられていました。

 昭和16年発行の下の地図の上部中央右に、(右から読みます)バイカル湖南岸に沿って、「ブリヤトモンゴル自治共和国」と記載されています。

内閣印刷局印刷発行 週報付録 大東亜共栄圏及び太平洋要図
情報局(週報大238号付録)昭和16年4月30日印刷発行
タイトル画像も同じ

 この辺りは、前回の「シベリアの民族」で述べたように、ちょうどチュルク系民族発祥の地と重なっています

 ブリヤートハルハの言語は満州のバルガ族のことばともたがいに通じ合うモンゴル語であって、1923年にロシア連邦の中に成立したこの「ブリヤート・モンゴル自治ソビエト社会主義共和国」は、文化的にも社会的にもエネルギーに満ちており、ハルハ・モンゴルや満州国のバルガ族、内モンゴル族に対しても、先進的な指導的役割を果たしていました。

 ところが、前項で述べた、ソ連邦で制定された憲法において宣言された民族自決に関する原則にかかわらず、この年、モンゴル語とは別の「ブリヤート語」を話す「ブリヤート人」が作り出され、民族名、言語名までが変更されました。
 ロシアに住む「ブリヤート・モンゴル」は、じつはモンゴル民族とは別の、独自の言語を話す民族であることを証明するために言語学者、民族学者、歴史学者が総動員され、それに反対する者は生存すら許されず、多くの人々が粛清されたのです。

 つまりは、建前は民族自決は認めるが、ブリヤート・モンゴル民族の力をそいで、自決できる民族とならないように大がかりな裏工作が行われたわけです。

 ソビエト当局は、ブリヤート・モンゴルの自決をめざす彼らを処刑しただけにとどまらず、ブリヤート・モンゴル自治共和国を五つの部分に分断し、その重要な部分をロシア連邦直轄領に組み込みました。

 そして、1958年7月7日、ソ連邦最高会議幹部会は、民族名、言語名としての「ブリヤート・モンゴル」の名を追放し単に「ブリヤート」とすることに決定しました。

2020年発行コンパクト世界地図帳
右ページ上部にブリャート共和国、左ページ上部にトゥヴァ共和国 とあります

ソビエト連邦の解体

 『1991年に、ソビエト同盟が崩壊したのは、まず最初にバルトの三国からはじまって、他の共和国が憲法にもとづいて同盟から脱退したために生じたのであって、ソ同盟の解体は、どの点から見ても暴力によって生じたものではなく、憲法にもとづいて、あくまで合法的に行われたのである。

『ソビエト同盟の解体によって、同盟に加盟していた共和国は、・・・それぞれが主権国家になった。
 その中で唯一の連邦共和国であったロシアの中には、16の非ロシア・民族自治共和国があった。
 それらは、それぞれが「自治」の名を捨てて、主権を持つ民族共和国になろうとした。』

 『主権民族国家であることの条件として、その国家が、かつてのように征服者・支配民族たるロシア人の言語、ロシア語ではなく、かれら土着の土人(どじん)の言語で政治を行い、生活を行うことが必用になってくる。』

『とはいえ、長年にわたって、ロシア語が、政治・文化のすべての分野で使用されてきたから、実際にはロシア語なしではやっていけない
そもそも、土人の多くが、すでに父祖の言語を知らない状態になってしまったからである。
 そこで、こうした状態に併せて、ほとんどの共和国は二国家語制をとったのである。』

 国家語というのは、レーニンが1914年に「強制的な国家語は必要か」という論文を書いてから、知られるようになったのですが、それと同時に特定の民族に特権を認めることにならないように「必要なのは強制的な国家語をなくすことである」と結んで、国家語の制定を禁じました

 言葉とその概念を紹介しておきながら、それを禁じるというなんとなく矛盾した論旨であるが、自決のための言語の重要性を認識したうえでの、先手を打った論文だったのだろうと思う。

 それ以来、ソビエト体制のいかなる段階においても、ロシア語を「国家語」にすることは禁じられただけでなく、その語そのものが禁句になった

 それが、ソ連邦の解体とともに、独立をはたした各共和国が一斉に、憲法の中で主体民族の母語を国家語にすることを求め始めたのである。

 1994年に採択されたブリヤート共和国の憲法では

ブリヤート共和国の国家語(複数形)はブリヤート語とロシア語である

ブリヤート共和国憲法:第67条

 と規定され、また1993年に採択されたサハ(ヤクート)の憲法でも

 サハ(ヤクート)共和国の国家語(複数形)はサハ語とロシア語である。共和国の北方諸民族の言語(複数形)はかれらの密集居住地域では公用語である。

サハ共和国憲法

と規定されました。

 『かれらは、ロシアの支配から脱したにもかかわらず、現実にはロシア語をも国家語と認めざるを得なかった。ロシア人は、共和国住民の半数以上、ときには90%を占めるに至ったのみならず、民族語の発展がおさえられていたために、ロシア語なしにはやっていけないからである。』

急進的なトゥバ共和国とチェチェン共和国

 しかし、このような、機能上必要とされる言語は「公用語」というべきであって、「国家語」というべきではない
 そのことを正面きって、憲法の中でも表現したのがトゥバ共和国である。

トゥバ共和国の国家語はトゥバ語と定める。
ロシア語はトゥバ共和国領内では全連邦的国家語として機能する。

トゥバ共和国憲法:第33条

 つまり、ロシア語を「ロシア連邦語」としたわけである。
『トゥバ憲法が他の共和国と比較して際立っているのは、

トゥバ共和国は、ロシア連邦を構成する民主的主権国家であって、自決の権利と、トゥバ共和国の全人民の国民投票によって、ロシア連邦から脱退する権利を保有する。

トゥバ共和国憲法:第一条

と定めていることである。』
 トゥバ国民は、投票によって自分たちの共和国憲法は批准したが、ロシア連邦憲法を否決しました。
『理由は、それが、かつてのソビエト同盟憲法が認めていた「民族自決権ー連邦からの脱退の自由ー」を否定しているからだとしている。』

 チェチェン共和国も同様の立場を取りました。

 『しかし、新しい脱ソビエトのロシアが、こんなことを長く許しておくはずがない。トゥバはチェチェンと並んでモスクワの言うことを聞かない、手に負えない共和国であった。そこで(当時のロシア大統領)エリツィンはチェチェンだけを軍事侵攻したが、本当はトゥバをも攻めるつもりであったという。』

 次回は、いよいよプーチンの登場です。