ベートーベンの第九「歓喜の歌」の周辺
今年は、ウィーンでの「第九」の初演(1824年)から200年、日本での日本人による初演から100年という節目。
そこでベートーベンの交響曲第九番と、その曲構成を支える、第4楽章の合唱「歓喜の歌」の解釈の変遷のごたくです。
はじめに 違和感
日本で、年末の恒例になっているのですが、聞くだけなら、歌詞の内容に踏み込むことはあまりないと思います。
一般的なイメージとしては、世界中の人々が、人種や思想、信条を乗り越えられることを信じて、天空の高見から人類はみな同胞であることを高らかに歌う、という感じでしょうか。
一万人の第九に参加したおかげでドイツ語の歌詞逐語訳を追うことができたのですが、その中で、多くの人が戸惑う次の歌詞があります。やはり戸惑いを乗り越えて理解に進みたいのは当然ですが、なんとなくあやふやに進んでしまいます。
こういう歌詞です。
「この世にただ一つでも、これがわが魂だと思えるものを得ることができないものは、ひそかに泣きながらわれらの集いから去るがよい」
人類みな兄弟、という前提の歌詞であるならば、心の伴侶を得られないものであっても、心を癒して、一緒にやっていく道を探るべきではないか?
歌詞のその前のフレーズでは、「虫けらにも快楽が与えられ」 と言っているではないか。と突っ込んでしまわずにはいられない。それに、実際のところ、虫けらも快楽を感じる、という発想は、当時よく広まっていた考えなのだろうか?
などとご託を並べていると、歌の成立の経緯を知りたくなります。
ベートーベンの時代
よく知られているように、シラーというドイツの作家(1759~1805)の詩「歓喜に寄す」に、ベートーベンが交響曲第九番の合唱パートとして作曲したものです。ベートーベンが作曲に取り掛かったのが1815年頃。
ちなみに、フランス革命が1789~1799年。
1804年ナポレオンが帝位について第一帝政を開く
1812年ナポレオンがプロイセン・ロシア・オーストリア連合軍に敗れ、14年退位してエルバ島に流される。
1815年ワーテルローの戦い
ここで、歌詞の成立についての歴史のごたくを並べるより先に、私が見た第九やベートーベンに関する映画やステージDVDを紹介します。その方が、楽曲の解釈についてのイメージ、バリエーションが見られて興味深いと思います。
「バルトの楽園」は前回紹介しました。ここでは、歌詞内容に立ち入ったことは触れられていません。
ベートーベンの人物像
一番最近見たのが、数年前にレンタルショップ閉店セールで買ってそのままになってたDVD。
「敬愛なるベートーベン」(Copying Beethoven)という2006年のイギリス・ハンガリー共同製作の映画です。
とりあえず、映画のトレイラーを見てください
第九初演の4日まえに、合唱パートの譜面がまだできていないベートーベンの所に、アンナという若い女性の採譜者が送られてきます。
そして、初演の日、耳の聞こえないベートーベンのために、観客から見えないところから彼女がベートーベンに向かって指揮をすることで、初演を乗り越える、という物語です。
えっ、そんなことがあったんや、見終わってから、そう思ってざっとレビューを見てみたら、これはフィクションとのこと。
でも、第九初演の後の、ベートーベンが周囲の人々と会話するシーンでは、まったく難聴、いわんや耳が聞こえない、などとは思えません。
こういう所に目をつむると(一度気が付くと難しいのだが、ともかくいちいち会話帳で筆談する描き方などでは、娯楽映画としてはまどろっこしいので、こういう表現をしたと、割り切って)、そこそこ楽しめる映画です。
しかし、もっと奇異に感じたのは、ベートーべンの描き方です。
身なりかまわない性格で、しょっちゅう暴言を吐き、他人の作品に対して、ぶしつけで乱暴な表現で批評します。
ベートーベンの知り合いは「野獣」と表現し、アンナに「粗暴で下品でな人だ」と言わしめています。
僕は残念ながらベートーベンの伝記は読んだことがありません。
と、この段落を書いているときに、昨日のことです、たまたま近くの小さな書店で、すごく関連のある本を見つけたのです。
「ベートーヴェン捏造―名プロデューサーは嘘をつく」かげはら史帆 河出書房新社 2023年11月(2018年に柏書房より刊行された同名本を加筆修正して文庫化したもの)
読み始めたところなので、今は詳細を書けませんが、どうも、ベートーベンの人物像は1977年を境に大きく変化したようです。「敬愛なるベートーヴェン」は、この変化した、より事実に近いと考えられている人物像に基づいているようです。
元へ戻って、「敬愛なるベートーヴェン」で描かれていた、シラーの歌詞を合唱曲にアレンジするシーンですが、
どうも、この映画では、「ただ一人の心の友も得られないものは泣きながら去れ」というところは、「私の作品に、神の与えた喜びを感じ取れないものは、残念ながら私の音楽を聴く価値のあるものではない」と解釈して作曲しているように感じます。また、「虫けらにも快楽を与えた」という歌詞では、「耳の病や他の欠点を抱えた虫けらのような俺にも、天からの啓示を受けた音楽をこの世にもたらすという快楽を与えた」と解釈しているようです。
始めて聴いた第九
私が、ベートーベンの第九に親しんでいるのは、まず、最初に聞いたクラシックLPがベートーベンの第九だったことです。もう、紛失して見当たりませんが、解説に、最初の楽章から、第四楽章を想起させる通奏低音?を潜り込ませている、というようなことが書いてあったと思います。
そう思って聴いてみると、歓喜の歌の「ミミファソ、ソファミレ」の上昇音部「ミミファソ」と下降音部「ソファミレ」などが、変奏されて繰り返されているような気もします。
第九と舞踏
熊川哲也
次は、2008年5月にWOWOWで放映された、K-バレエカンパニー、熊川哲也演出振り付けの「ベートーベン第九」
しっかり録画して、DVDに落として、何回も見た。結構飽きない。
熊川哲也というバレエダンサーであり演出家のオリジナル振り付けではあるが、イメージが曲によく合っている。
地球という惑星における生命誕生と進化をテーマに置いていて、各楽章ごとに引き込まれます。
第一楽章 大地の叫び ライト、衣装の基調色が赤、マグマのイメージ
第二楽章 海からの創生 青、海底で海の精が生命をはぐくむ
第三楽章 生命の誕生 白の衣装に植物の緑、海から陸へ、植物から動物への進化をアダージョで表現
第四楽章 母なる星 白、歓喜のメロディーが始まるまでは、たぶん人類への進化を、舞踏なしの序曲として表現する。歓喜のメロディーが始まると、創造主(神)へのあこがれが表現され、しばらくすると、熊川哲也が神の翼または天使ケルビムの象徴?として降臨する。喜びに包まれる中、争いが絶えない人類を目覚めさせる、新たな進化の予兆が、赤子(熊川哲也の息子)の眠りからの目覚めとして表現される。
第九は、第4楽章合唱のシラーの詩から、曲想のイメージが膨らみますが、3楽章までは4楽章へ至る道程なわけですから、そこにどういうイメージを付与するかは、鑑賞者、舞踏家の自由です。
そもそも、シラーがどのような背景で、詩にどのような含意を持たせようとしていたか(それを調べようと思っていたのですが)、にかかわらず、ベートーベンはベートーベンの境遇、背景を抱えて作曲したわけです。
それを、神聖な博愛主義に満ちた歌ととらえようが、酔っぱらいのファイトソングであると感じようが、そういうことは鑑賞者に任されるところが芸術作品の幅広さであって、要は、曲想が琴線に触れる、魂が鼓舞される、想像力が羽ばたく、そういう曲だということです。
モーリス・ベジャール
次は、『ベジャールの「第九交響曲」』
東京バレエ団とモーリス・ベジャールバレエ団との共同制作により、2014年11月に東京NHKホールで上演された際の映像DVD。オーケストラ演奏が、ズービン・メータ指揮イスラエル・フィルハーモニー管弦楽団。
このバレエ、つまりベジャールがベートーヴェンの第九に振り付けを施したバレエ(ベジャールの場合、舞踏と呼ぶ方があっている気がする)は、1964年10月27日にブリュッセルで初演された。
1987年、上演を封印、1996~99年に再演されるが、またもや中断。
15年ぶりの公演となる2014年版舞台製作のドキュメンタリーが「ダンシング・ベートーヴェン」として映画化されていて、劇場で見ました。
この映画の冒頭部分が公開されています。
この導入部分のナレーションと映像は、歓喜の歌と、第九のバレエ振付に対するベジャールの考え方を反映しているのだろうと思うが、詳細解説は時期尚早、奥が深い。これ以上は泥沼にはまって、脇見歩きどころではなくなります。
この舞台には、最初にプロローグがあって、ニーチェの「悲劇の誕生」(ニーチェの処女作 1872年刊)の一節が朗唱される。
つまり、ニーチェがベートーベンとシラーの詩の解釈を組み込んでいる、ということでしょうか。
2014年版では、ベジャール亡き後、芸術監督としてベジャールバレエ団を率いるジル・ロマン自らが詩を朗唱する。
私は、西洋史、いわんやドイツ文学にもニーチェにもなじんでいません。勉強中ですのでともかく、朗唱される詩を、舞台映像の日本語翻訳キャプションから転記します。
ベジャールは全4楽章を、古代ギリシャで世界を形作るものと考えられた”四代元素”と結びつけた。
第一楽章が“土”(褐色)、第二楽章が“火”(赤)、第三楽章が“水”(白)、第四楽章が“風”(黄)。各楽章のダンサーたちはそれぞれの衣装をまとう。この色彩は4つの人種と4つの大陸の意味も持つ。初演時には25か国のダンサーたちが集まったという。
最初の疑問の解決になったかどうかあやふやなままです。鑑賞者のインプレッションが大切かと思いますが、様々な時代に、様々な人が、様々なことをいう、そういう作品であることは確かなようです。
おしまい。