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星の宮 (2):交野市私市探索

タイトルの地名は、かたのし きさいち と読みます。

 一昨年に池田市の「星の宮」を見出して、能勢の妙見信仰を調べ始めてすぐに、大阪府では交野市私市の南にある「星田の妙見(星田妙見宮)」が名をはせていることが分かった。

 行って見たいのだが、ここ数年、コロナのおかげで、体力、気力がやりたいという心についていかず、そのままになっていた。

 さらに今年は、10年来の変形膝関節症が随分良くなったのをいいことに、3月にスロージョギングや小走りで負荷をかけたのが災いして、痛みがぶり返し、4月末には強烈なぎっくり腰で、2か月ほどほとんど動けなくなった。
 7月ごろには、そこそこ回復したものの、強烈な酷暑で、持病の頭重もあり、ほとんど寝て暮らしていたようなもの。

 ともかく、10月になって気温も落ち着き始め、坂道を30分以上、上り下りする計画は無理だとしても、公共交通機関で最寄りの駅周辺を休み休み事前探索する気になった。

 最寄りの駅が、京阪本線枚方市から南に向かう京阪交野線の終点私市(きさいち)

 難読地名ですね。何故、私市と書いて「きさいち」と呼ぶのか。

 六世紀中ごろ、物部守屋(もののべのもりや)が、自分の所領で重要な土地であった交野の沃野を敏達天皇の皇后に献上し、以来、交野市の地は皇后のための皇室領となり、交野の村々は皇后の部民として組織され、その中心になった村が私市だそうです。 

 いつも通り、出かける前に交野市関連の天皇にまつわる歴史をざっと調べてみた。

 すると、光仁天皇の子で渡来系の高野新笠(たかののにいがさ)を母とする、桓武天皇が行った、天白信仰にもかかわるような祭祀の記述に気が付いた。

「天」を宗教的権威として尊崇するのは、中国の伝統的観念であって、歴代の王朝の皇帝は、その年の五穀豊穣を祈るために、天を祭る儀式を行ってきた。現在の北京の故宮の南の方にある天壇は、壮麗な建造物で、よく知られている。日本には「天」に対する上のような信仰の伝統はないが、桓武天皇は延暦四年(785)に河内の交野の柏原で、この祭天の儀式を行った。天皇自身ではなく、重臣藤原継縄(つぐただ)を派遣して行ったらしく、その点で略式ではあるが、交野の地は長岡京の南方(「南郊」)に当り、また冬至の日を選んでいる点からも中国の模倣であることは確かである。ただしこの交野での郊祀(こうし)は、二年後の延暦六年と文徳天皇のとき(856)とに行われた記録があるだけで、宗教儀礼としては定着しなかった。
 この交野の付近はまた、百済王氏(「王(こにきし)」は姓(かばね))とよばれる渡来人が多く住んでいたところである点が注目される。
郊祀という外国の儀式を模倣するに際しては、当然ながら大陸からの渡来人の協力が必用であった。

「日本文化の歴史」尾藤正英 岩波新書 2000

  ここで述べられている「交野の柏原」(柏原市ではない)がどこか、いろいろな説があるようですが、下に引用した資料では、樟葉の山裾あたりとしています。 

 今、ここまで書いて、6世紀前半に、皇統を継ぐべく北国からはるばるやってきた継体天皇のことを思い出した。
 彼は、現在の枚方市の樟葉宮(くずはのみや)で即位し、その後511年山背の筒城(京都府綴喜郡)に遷都し、さらに七年後に弟国(京都府乙訓・向日市、長岡京付近)に再び遷都して、ここで8年間の治世を経て526年になってようやく大和に入った

 枚方から長岡付近にかけて、出自を同じくする人々がいたのではないでしょうか。

 他にいい資料がないかと思って探していたら、次の「歴史地理学紀要/歴史地理学会編1990」に、投稿された、神英雄氏の「桓武朝における造都と征討に関する歴史地理学的考察」があったので、プリントアウトして、現地探索の合間に読んでみることにした。

http://hist-geo.jp/img/archive/032_021.pdf

内容の解説、感想は、咀嚼してからそのうちどこかで取り上げるとして、

阪急高槻駅から、京阪バスで、淀川を渡って京阪枚方駅へ。

スタバで一服して、持参資料にざっと目を通す。

京阪交野線で、登り坂の軌道を南下。
12時前に、私市着。(駅舎はタイトル画像)

駅を出てすぐにハイキングマップがあって、「キサイチゲート」の幕が掲げられています。

私市駅舎の反対側


すぐ右(西)側に、大阪公立大学付属植物園があって、見ごたえがありそうではあるが、今日はコースの下見で、パス。

Google Earth スクリーンショット:私市~星田、南南西方向

上の俯瞰図で、左側の京阪私市駅から、右側のJR星田駅へ、できるだけ最短コースで歩く。脚力がどの程度持つかのお試しのウォーキングです。

 天野川の右岸を走る国道168号を北へ少し下ってから、西にわたり、妙見坂の住宅街に入ります。

天野川に架かる私市橋

ちょっとした上り坂になっている妙見坂を登ると妙見口の交差点。

本来は、この妙見宮を訪ねたいのだが、脚力と時間の問題で、昔の街道筋に入る。

個人宅の塀に案内が・・・上のテキスト文のタイトルは
「先祖の言い伝えがスゴかった。表に出てこない室町時代の星田の歴史」

「山の根の道」については、下のサイトを参照。

  星田神社が、街道筋から少し南にそれたところにあるので、立ち寄ってみた。
 主祭神は、底筒男命、中筒男命、表筒男命、神功皇后の住吉四神

星田神社の左に仲良く並んで、真言宗の「星田寺」がありました。

星田神社と並んで星田寺があります

 「真言宗のおしえ」の石碑には、「生きとし生けるものすべては、宇宙の根源生命である大日如来ににつながっていて、今を生かされている」とあり、 その後に、

お祀りされている神仏
不動明王・弥勒菩薩・大黒天・毘沙門天・十一面観音稲荷大明神竜神

とあります。

 星田神社と星田寺は、かつての神仏習合の時代には同一境内にあったのでしょうね。

参拝後、一路JR星田駅へと向かいました。

JR星田駅

 全体に、神話の世界の入り口、といった感じで、丁度良いハイキングでした。

 参考に、この地域の古墳分布を示します。

季刊考古学・別冊39「淀川流域の古墳時代」雄山閣 2022

⑥が妙見山番号はほぼ時代順になっているようです。
一番古い①~⑤の森古墳群は、古墳時代前期前葉となっていて、3世紀前半にさかのぼるのでしょうか。
妙見山⑥は、前期後葉後半となっていて、4世紀後半でしょうか。

空白の四世紀ですね

①~⑤の森古墳群と⑥の妙見山の中間位に、私市駅があります。