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ごまめのごたく:千里丘陵の周辺


イントロ

 最初に勤めた会社が、千里中央と桃山台の間の東豊中にあって、自動車で通っていた。駐車場のすぐ脇は竹林で、ムカデがいた。大阪万博会場を東西に突っ切る大阪中央環状線(中環:中国自動車道路に並走)を車で走っているときは、千里丘陵を突っ切ていることは十分意識していたし、車の車窓からの景色には、必ず竹藪が目に入るので、千里丘陵というと竹藪の丘というイメージが昔からある。
しかし、東西南北どこまでが千里丘陵なのかは意識していなかった
昔から、地図を眺めるのが好きで、パソコンのマップは便利ではあるが、デジタルとアナログレコードとの違いと同じようなもので、地図を眺めてると飽きないのだ。紙を広げる感覚とか、情報量が制限されているから余計に空想の幅が広がるとか。
今年二月に「京阪神凸凹地図」を買った。ブラタモリのガイドブックみたいなもので、寝る前に飽かず眺めることしばしば。

千里丘陵の南端

 「京阪神凸凹地図」の豊中市から吹田市にかけてのページに、「縄文海進時の海食崖跡」という記述を見つけた。縄文時代、今から五、六千年前に海面が現在より数メートルから十メートルくらい上昇していました、これを縄文海進といいます。

京阪神凸凹地図より 縄文海進時の海食崖

偵察に行ってみた

さっそく自転車で、すたこら見に行った。

古い家並みの南側が崖になっていたり、小さな坂道からちょっとした高台に至る。なんとなく懐かしさを覚える景色なんだよな。

このあたりから、吹田市の垂水町~出口町に至る当たりが千里丘陵の南端で、縄文時代は南側がすぐ海だったわけだ。

それからしばらくして、「脇見歩きのつぶやき:山田という所」で話したように、摂津市から山田に初めて入り込んで、関心が広がり、脇見歩きの性分が頭をもたげて、ぶらついているわけです。

千里丘陵北部の崖

 今までずっとそうだったのだが、ぶらりと出かけてあちこち気の向くままに脇見歩きをして、帰ってからどこをたどったのか改めて地図で確認する。
するとまたいろいろ新たな発見があるんだよね。

「京阪神凸凹地図」より:北千里付近左下が島熊山、右上が茨木市福井
黄線マーカが今回偵察した段丘崖の道、青丸は北千里駅

イントロに、最初の会社が東豊中と書いたが、中国自動車道と並走している大阪中央環状線の、島熊山交差点の南だ。
会社から、この島熊山交差点までは、徒歩ものの五分くらいだったが、ちょっとした坂道になっている。
明らかに、中国自動車道の真南が段丘状に低くなている。
千里丘陵の地形を見てみよう。
国土地理院の地図サイトで遊んでみたので、まず、それをご覧に入れる。
 青紫の部分が海抜10m以下、赤茶色が100m以上。グラデーションがかかっているので、境界は分かりにくくなっているが、そのうちに書くつもりの縄文海進時のイメージはつかみやすい。
図の中央が、桃山台付近。

 島熊山のあたりから、北北東に、南側が低い崖状というか段丘状の地形が3kmほど伸びていて、北千里の北西1kmくらいの所から東方向に向かって続いている。

え~~~、この段丘はなんや、断層か?、古い古い海食崖か??

「京阪神凸凹地図」には、活断層が示されているが、この段丘崖(呼称は間違っているかもしれないけど、とりあえず段丘崖と言っておく)には断層線が書かれていない。

この段丘崖の北側、箕面から茨木の山並みの裾の南の平野を東西に171号線が走っていて、この南、二、三百mの所を171号にほぼ並走して野畑断層が走っている。
基本的には、地盤に南から北への圧力がかかっていて、この断層が活動して、千里丘陵が北部の地盤に乗り上げているイメージが浮かぶ。

この本には、活断層は表記されてるけど、死んで活動していない断層は表記されていないのだろうから、これはきっと、死断層なのだ、などと勝手なことを空想してみる。

偵察に行ってみた

 ともかく千里丘陵北の崖を偵察に行くことにした。
 千里中央駅を降りたのが12時頃、喫茶店で軽食を取ってからとりあえず北~北北東を目指す。
 新千里北町のマンション、住宅街の道を行くが、道路は南北、東西に整然と走っているわけではなく、高低差に合わせて、大概、等高線に平行な道とそれに垂直な坂道で、方角が定めにくい。
あちこち、行きつ戻りつも含めて、さまよい歩き、結局、豊中市と吹田市の境界線に沿って、県道121号(通称、千里桜通り)の東側の小道を北へたどって、ついに段丘崖にたどり着いた。T字路になっていて、千里桜通はここを右折していている。左の道路は住宅街の北端の道で、御堂筋線につながっている。

ここを右に曲がって、段丘崖南斜面の中腹を走る県道121号を東に向かって歩く。右折すぐの段丘崖に、「北千里給水拠点」の看板があった。

東西に走る121号を北西方向を臨む

北側は数mの高さの山林が東西に帯状に連なり南側は、高低差5mくらいの緩斜面になっていて、その向こうに住宅街が続いている。東へものの500mくらい歩いたところで、右折して北千里駅に向かった。あちこちもっと見て回りたいのも山々なれど、最近持久力がなく、時間も遅くなるので、電車に乗って帰宅。

帰ってから考えてみた

 今回偵察に行った千里丘陵北の段丘崖が、昔から南側が崖上になっていたのか、今昔マップを見てみた。
 昭和初期の地形図を見ると、等高線がすごく曲がりくねっていて地形が読みずらい。そこで、印刷してマーカーで等高線をたどってみた。濃い青が100mで、緑が90m、赤が110m。等高線が途切れているところが多数あって、たぶんそこは、がけ崩れなどがある所のようなのだが、正確には、たどり切れていない。

昭和初期の千里丘陵北部の地形図

 柿色で示した尾根筋をたどると、ちょうどいま探索している段丘崖に一致し、市の境界にもなっている。これを見る限り段丘崖の南側と北側で地形に大きな差はなく、南側が崖になっているという印象はない。
では、南側の裾野は、昭和初期からどう変化したのか
 今昔マップに、ちょっとした面白い機能を見つけた。
下のサイトを開いてほしい。ちょうどいま探索している当たりの、明治と現在の地図を併記している。左端の機能選択蘭にある「重ねる地理院タイル」を「陰影起伏図」に指定してある。

 陰影起伏が明治の地図に見えているが、この陰影起伏は、右側の現在の地形のものだ。よく見ると、明治の等高線とこの現在の陰影起伏があちこちで合っていない。例えば、左下の、標高133.8mの三角地点付近を見ると分かりやすい。
明治の地図では、東~南東側に小さな尾根が張り出しているのだが、陰影起伏にはその尾根に当たるものがない。つまり、昔の山すその尾根は切り崩されて、新千里北町の住宅街になっているわけだ。
 今昔マップのこの表示機能は、戦後の大開発で国土がどのように変化したか、を見るのに、大変重宝な機能だと思う。

千里丘陵の西側

 千里丘陵の西端には、江坂あたりから北へ服部緑地を通って島熊山付近に至る佛念寺山断層が走っている。ということは、千里丘陵には東から西への圧力もかかっていて、東へ乗り上げたかまたは褶曲で、西側が盛り上がっているのだろう。

結論

 この段丘崖は人工的なもので、吹田市と豊中市の戦後の開発計画が、箕面市との境界ギリギリまで進められた結果であり、箕面市との境界は、もともと千里丘陵北端の尾根筋であった。
 千里丘陵自体は、大昔から、南からの(プレートの?)圧力によって、野畑断層が何度も活動して、南から北に乗り上げた堆積層で、野畠断層の南側に立ち上がった急峻な断層崖は風雨にさらされて崩れていき、断層の数百メートル南側が尾根筋となった。
 東から西への圧力により佛念寺山断層付近でも地盤が盛り上がったので、千里丘陵の北西端の島熊山北部が最高点となった。