見出し画像

ごまめのごたく:謎の白山信仰(1)

 白山信仰は白の神秘を宿している。
 夏季を除いて一年中雪をいただくその優美な山容は言うまでもないとして、問題は白山の主神である。
 本地仏が十一面観音というのも特異だが、
白山比咩(しらやまひめ)は当初イザナミだったのに、いつの頃からか菊理姫に変った。それは一体なぜなのか。
 また、海人族が祀った礒良神(いそらがみ)イタコが遊ばせるオシラ神、あるいは傀儡(くぐつ)の徒が祀る百神や人形の百太夫は白山神の同類とされ、白(しら)太夫および白比丘尼(しらびくに)は、白山信仰の宣布者であろうと推測されるが、それらにはいずれも白あるいはシラという言葉、観念がついて回っていて、今ひとつ実態が定かでない。
 そして、さらに大きな謎は、東国の被差別部落の多くが白山神を鎮守に祀っていることだ。

「白の民俗学へ――白山信仰の謎を追って〈増補新版〉」
前田速夫 河出書房新社 2019年2月(初版2006年7月)
序章・謎の白山信仰 二節目「白い宗教の謎」より

はじめに

 今年3月23日、北大阪急行が千里中央から北へ箕面萱野駅まで延伸して、開業した。
 最高気温が大阪35℃越えの7月19日、箕面船場阪大前でおりて、駅の東側
をぶらついた。
 阪大の外国語学部(大阪外国語大学が2007年に廃止、大阪大学に統合)があるので、学生街風のたまり場の店や公園が多いかと思いきや、照り返しの強いコンクリート面ばかりで、日差しが強く暑い中、丁度箕面市立図書館があったので入って一息。

民俗学のコーナーで
     「白の民俗学へ――白山信仰の謎を追って」
        前田速夫 河出書房新社 2006年7月
を見つけた。

 なぜ手にとったのか、いままでこの 'note' に書いてきた関心領域からいえば、庶民宗教、妙見信仰や山岳信仰、民俗学の延長ではある。
 しかし、本当はもう少し深いところに根っこがあって、そこにコツンとひっかかった。

 10年ほど前、名古屋出身の母が亡くなって、母から祖母までさかのぼって戸籍を取り寄せた。出生地の届けなど、読みにくい崩し字で書いてあるのを何とか読み解いて、母とその先祖の出生地がつかめてきた。

 「街の達人・名古屋便利情報地図」(昭文社)を買って、何度もこの辺りを見返して戸籍の地名と照らし合わせる。町名や区の名前はどんどん変わるので、なかなかわかりにくい。
 戸籍に書かれている住所から、ほぼこの辺りという見当はついた。

 近くに白山中学があって、母から当時のことはあまり聞いたことはないが、たぶん母はここに通っていたに違いない。

 白山中学の南東の交差点の地名は「西白山」、その交差点の東西の通りを東へ行くと「白山神社」がある。さらに東へ辿ると、交差点の地名に「菊里(きくざと;キクリとも読める)町」の地名があった。

交差点に掲げてある地名は、すごく大事で、
今は使われていない、昔の町村字名などの地名が反映してて
郷土史、地誌調査には大変貴重で参考になります。

ということで、上記本、大型書店にも近くの図書館にもなかったので、改訂増補版(2019年2月)をAmazonで購入しました。

 最初に引用した、白山信仰の謎に関する要約文に出てくる神名、習俗、祭事などの用語が、知らないことが多く、まずは、それらを中心に辞書的解説をしておきます。
 書き始めると、説話の背景等も探らないとうまく要約できないのですが、始めて聴く話が多く、今回は用語解説だけに終わりそうな気配です。

基本情報と予備知識

白山

 下図に、白山信仰にかかわる霊峰とされる白山山系の周辺地域を示します。

金沢市の南東にある白山比咩神社(獅子吼高原のふもと)から
白山奥宮のある白山最高峰 御前峰2702m を経て
両白山山地南側の能郷白山(権現山)に至る
「世界・日本スマートアトラス地図帳 平凡社」より


白山信仰 

白山神社 白山比咩(しらやまひめ)神社が、各地に沢山あります。
 「図説 地図とあらすじでわかる! 古事記と日本書紀」によると
神社数の1位は稲荷社で19,800社、8位が八阪神社2,900社、
次の9位が白山神社2,700社、10位が住吉神社2,000社

<主な白山神社>
 白山神社は日本各地に2,700社余り鎮座するが、特に石川・新潟・岐阜・静岡・愛知の各県に多く分布する。
 中世には加賀白山比咩(しらやまひめ)神社の前身である白山寺白山本宮や、美濃国の白山中宮長滝寺(現長滝白山神社)、越前国の霊応山平泉寺(現平泉寺白山神社)が延暦寺の末寺になっていたことから、天台宗や白山修験の普及とともに各地に勧請された。勧請元としては白山寺白山本宮(白山比咩神社)、白山中宮長滝寺、霊応山平泉寺が主で、長滝寺より勧請したものが最も多く、現在でも白山神社が最も多くあるのは岐阜県である。しかし、この3社のうち『延喜式神名帳』に記載されているのは白山比咩神社だけであるため、明治時代に白山比咩神社が「日本全国の白山神社の総本社」と認定され、各地の白山神社の多くは「白山比咩神社から勧請を受けた」というように由諸を書き換えた。

Wikipedia : 「白山信仰」

菊理媛

 記紀神話では古事記には出てこず日本書紀でも本文になく、「一書(あるふみ)に曰く」の十番目に一度だけ出てくる姫神様です。
「日本書紀」神代巻第五段、一書の十

イザナギが黄泉の国に愛おしいイザナミを訪ね、その腐乱した死体に恐怖して、この世との境の黄泉平坂(よもつひらさか)まで逃げ帰ってきて、ちびきの岩を隔ててイザナミと問答した直後のことだ。

  「是の時に、菊理媛神亦(ま)た白(もう)す事あり。」
・・・・・このあと
「イザナギノミコト聞しめ善(ほ)めたまふ。乃ち散去(あらけ)ぬ」と続くのだが、
このとき菊理姫が何といったかは書かれていない。
続いて、イザナギはアハギガハラでミソギをして身を清める。
 菊理姫は何と言ったのか、

 折口信夫の解釈はこうだ。何と言ったか書かれていないのはおそらく文章の脱落で、続く場面がイザナギのアハギガハラでのミソギであることから推して、(菊理姫は)ヨミガエルためにミソギを勧めたのであろう。乃ちキクり(菊理)はククリ(潜り)を意味して、水中に入ってミソギをすることで、シレコト(白事)とは、死のケガレを払うのに巫女の呪言が必要とされたのである。
漢字の原文では、「白事有」で、「もうすことあり」とも「しれことあり」とも読めるので、古文の常で、多義的な書き方になっているわけだ。(「山の霜月舞」)

「白の民俗学へ――白山信仰の謎を追って」

「白」とは

 ここで、漢字の「白」が色の白とも「もうす」とも読まれることについて、元々の字義を探ってみる。

手元の電子辞書の漢字源より

①{名・形}しろ。しろい。
②{動}しらむ。色が白くなる。明るくなる。しろくする。「精白」
③{形}しろい。けがれのないさま。また、無色であるさま。「潔白」
④{形}あきらか。物事がはっきりしているさま。「明白」
⑤{形}無色の意から転じて、なにもないさま。特別な身分がないさま「空白」「白紙」「白丁(平民)」
⑥{形・副}(俗)収穫や負担がないさま。いたずらに。むだに。
⑦{形・名}(俗)飾りがないさま。また、生地のままでやさしいさま。転じて、芝居のせりふ。「科白」
⑧{動}もうす。内容をはっきり外に出して話す。また、上の人に真実をもうしのべる告げる。「告白」
⑨{名}とっくり・さかずきなどの酒器▷中が、うつろなことから。

白山の読み

 「枕草子」八十七段は、大雪の日に庭に作った雪山がいつまでもつか当てくらべをする話で、他の女官が暮までもつまいと言うのを、清少納言は正月の十五日までもつと主張、その後雨が降って予想したより小さくなったのを心配して、「白山(しらやま)の観音、これ消えさせ給うな」と祈ったとある。その頃すでに、雪と言えば白山で、都の貴族たちの間で白山の観音は有名だったのである。ちなみに、加賀の白山をハクサンと音読するようになったのは、江戸寛文年間(1661-73)からだと、日置謙は「石川県史」で考証している。

「白の民俗学へ――白山信仰の謎を追って」

十一面観音

<日本での信仰>
 密教系の尊格であるが、雑密の伝来とともに奈良時代から信仰を集め、病気治癒などの現世利益を祈願して十一面観音像が多く祀られた。観音菩薩の中では聖観音に次いで造像は多く、救済の観点からも千手観音と並んで観世音菩薩の変化身の中では人気が高かった。

 伝承では、奈良時代の修験道僧である泰澄は、幼少より十一面観音を念じて苦修練行に励み、霊場として名高い白山を開山十一面観音を本地とする妙理権現を感得した。平安時代以降、真言宗・天台宗の両教を修めた宗叡は、この妙理権現を比叡山延暦寺に遷座し、客人権現として山王七社の1つに数えられている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
<像容>
通例、頭上の正面側に柔和相(3面)、左側(向かって右)に憤怒相(3面)、右側(向かって左)に白牙上出相(3面)、背面に大笑相(1面)、頭頂に仏相を表す。

 日本では、奈良時代から十一面観音の造像・信仰は盛んに行われ、法隆寺金堂壁画(1949年の火災で焼損)中の十一面観音像が最古の作例と見なされる。奈良時代の作例としては他に奈良・聖林寺像(国宝。大神神社の元神宮寺の大御輪寺伝来)京都・観音寺像(国宝)、奈良・薬師寺像(重文)などがある。東大寺二月堂の本尊も十一面観音であるが、古来厳重な秘仏であるため、その像容は明らかでない。同寺の年中行事である「お水取り」は、十一面観音に罪障の懺悔をする行事(十一面悔過法要)である。

Wikipedia : 十一面観音

 なお、泰澄は、天武天皇の白鳳22年(682?)越前国麻生津に生まれた渡来系の秦氏の出で、日本海での海運に従事していた。

磯良神

 記紀神話に出てこないので、素人がWikipediaも含め、あちこち調べてみても、一貫性のある理解がしにくい。私なりに整理してみました。

 磯良神は記紀神話には出てきませんが、安曇氏の本拠である福岡県の志賀海(しかうみ)神社や奈良春日大社でも祀られていて(祭神とはされていないが、例祭などに登場する)、海の神とされ、古代の海人(あま:船を操る民)、安曇(あずみ)部を率いた豪族安曇氏の祖神とされています。阿曇磯良(あづみのいそら、安曇磯良とも書く)とも呼ばれます。

 志賀海神社の祭神のワタツミ三神(ソコツワタツミノカミ、ナカツーー、ウワツーー)は、海の神とされ、『古事記』の神産みの段では、イザナキの禊ぎにおいて住吉三神(ソコツツノオノミコト、ナカツーー、ウワツーー)とともに生まれた神として、並記されています。

 私には、まだよく分からないのですが、磯良神が安曇氏の祖神であるとする原典として、たいがい「太平記」(鎌倉時代の軍記物語)や「八幡愚童訓」(はちまんぐどうくん:鎌倉時代中期・後期に成立したとされている八幡神の霊験・神徳を分かりやすく説いた寺社縁起)が引用されていますが、ともに1300年代で、もっと古い伝承、資料はどこかにないのでしょうか?
 物語ではあっても、当時そのような伝聞が広がっていた、という解釈なのでしょうが・・・・
 「ワタツミの神=磯良神」なのでしょうか。

「太平記」や「八幡愚童訓」が伝えるところは、こうだ。神功皇后の三韓征伐に際して、武内宿祢は「竜宮に汐干珠(しおひるたま)、汐満珠(しおみつるたま)という潮の干満を自在にする宝珠がある。これを得れば、刃に血を塗らずとも服属するだろう」と奏上した。さて、その竜宮に誰を遣わすかという段になって、住吉の大神が次のように言った。「海中に久しく棲んで海の案内をする安曇磯良という者がいる。ただし、カキ殻が取り付いて醜男であることを恥じて、召しても応じないであろうから、彼の好きな舞を舞っておびき寄せることにしよう。」すると、果たして亀の背に乗って現れて、顏に白い覆いをして自らも舞ったので、細男(せいのお)の舞、すなわち磯良の舞と呼んだというのである。

「白の民俗学へ――白山信仰の謎を追って」

 Wikipediaの「安曇磯良」にある、「磯良を祀る神社」として六社上げてあるのですが、祭神を「磯良大神」としているのは、茨木市の「磯良神社」(通称、疣水神社)のみで、他は、住吉三神かワタツミ三神を祭神としています。「祀る」というのは、例祭や由緒などでの伝承的な扱いだったりします。・・・・
 たぶん明治に入って、祭神とするのは、記紀神話にでてくる神に、強引に制限されたからかもしれません。

茨木の「疣水磯良神社」
賽銭箱に巻貝が飾られている

イタコ

 東北地方の津軽、南部(主に、下北半島を含む青森県の東部)にみられる、おもに盲目の巫女(みこ)。アイヌ語のイタク(語る)という動詞から発生した語との説もある。神寄せやホトケ(死者の霊)の口寄せをするのが特徴で、2~3年にわたる修行中に師匠格のイタコからその経文や占いなどを習得する。入巫(にゅうふ?)式では、神憑(かみがか)り(憑霊)状態になれば」一人前とされる。春秋の祭日には、おしら祭文を唱えて舞、占いを行い、また毎年夏には、下北半島の恐れ山に多くのイタコが集まって口寄せを行うことが知られている。

ブリタニカ国際大百科事典

おしら神(おしら様)

【おしら様】
東北地方で旧家を中心に広く祀られている神。オシンメイサマ、オコナイサマなどと呼ばれ、蚕神あるいは農耕神とと考えられている。神体は男女一体が一般的で、30cm程度の棒の先に顔を彫刻し、幾重にも布を着せてある。おしら様の祭りでは、イタコと呼ばれる巫女がおもに司祭し、おしら祭文を語りながら、身体を上下左右に振って遊ばせる。個々の家で祀られるほか、本家分家関係にある家々や組、講で祀られるものもある。

ブリタニカ国際大百科事典

傀儡

くぐつ【傀儡】
①歌に合わせて舞わせるあやつり人形。また、それをあやつる芸人。でく。てくぐつ。かいらい。
②(くぐつの女たちが売色もしたところから)遊女。あそびめ。うかれめ。くぐつめ。

広辞苑第六版

かいらいし【傀儡師】
人形遣いの古称。「傀儡子」とも書く。中国で操(あやつり)人形を傀儡と呼び、日本では平安時代に、日本古来の「くぐつ」の語をあて、人形遣い(傀儡師)を、「くぐつ、くぐつまわし」などと称した。日本の傀儡師は渡来人であったという説もある。古代には集団をなし、男子は狩猟、女子は遊女を業とし、人形を回した。中世後期になると、くぐつの系統をひく夷(えびす)カキは、摂津西宮神社を根拠地とし、いわいごとを述べ、夷の人形を回しながら各地をめぐったが、16世紀末から17世紀初めに、彼らの一部は浄瑠璃と提携、人形浄瑠璃を成立させた。これに対し、劇場に入らず、人形の箱舞台を首にかけて街頭を流す人形遣いは、やはり傀儡師と呼ばれたが、近世後期以降は衰微した。

ブリタニカ国際大百科事典

百太夫

ひゃくだゆう【百大夫】
摂津西宮の百太夫社に祀る道祖神。遊女または傀儡(くぐつ)の守り神とされた。

広辞苑第六版

白比丘尼(しらびくに)

 八百比丘尼とも呼ばれる。
 中世以来の白比丘尼の伝説を、林羅山「本朝神社考」六はおよそ次のように記す。
 
 ゛あるとき男が山中で異人に会い、見知らぬところへ連れてゆかれた。そこは別世界であった。その人は男にある物を与えて、これは人魚の肉だ、食べれば老いることがない、と言った。男はそれを持って家に帰ったが、隠しておいた人魚の肉を娘が見つけて食べた。すると、娘は八百歳の長寿を得て、諸国を廻国した・・・・。”
・・・・・・・
 伝説の分布は若狭、能登、武蔵、美濃を中心にほぼ全国に及んでいる。         出身地は若狭小浜とするのが大半だが、越中、美濃、飛騨、紀伊、因幡、石見、土佐、筑前などでも、それぞれの国の生まれであるとする伝えがあり、廻国の後は若狭空印寺の洞穴に住んで入定したという点で一致している。

「白の民俗学へ――白山信仰の謎を追って」

今回はここまで、
各々の項目の関係、歴史的な絡み、関西、名古屋への伝播状況など、課題満載、気になることが芋づる式に出てきそうです。