内なる三歳児を迎えに。
私たちは、大人になり社会で生きてくために、子供の頃の自由な精神を自分の内側深く深くに沈めて生きています。
ほとんどの人は、自分が本来の自分を眠らせたまま、不自由な精神で生きていることについて自覚することが出来ないほどに心を麻痺させられてしまいます。
社会生活というのは、豊かで自由なようですが、あらゆる規則に縛られ、他人や世間など周りの目を常に意識して生きていなくてはいけません。
私たちが本当に求めているであろう人間的な喜びを味わうことも出来ずに、気がつけば日々の時間や労働、情報に追い立てられて、忙しく立ち回るのに精いっぱいな毎日です。
もちろん、生きていくためには、現実を無視することは出来ないし、きれいごとばかりでは生きていけません。ある程度は、理不尽や不満を飲み込んで生きていかなければいけない諸事情もあるでしょう。
かくいう私も、様々なしがらみから、十代後半から四十代後半まで自分を押し殺して生きてきました。
時には、涙をこらえ、下げたくもない頭を下げて生活のために食い扶持を稼いでいました。
しかし、50歳を目前にしたあたりから、私を取り巻いていたしがらみが少しづつ解けていくようになりました。
止まない雨はない、明けない夜はないと言いますが、本当に少しづつ自分の中に余裕が出来てきました。
人生100年時代などと言いますが、私の中で、自分の時間を持てるようになって、しがらみからも自由になりこれからの人生をどのように生きていこうという思いが立ち上がってきました。
また、心身に病気を経験することによって、自分自身を労わり守るという意識も芽生えてきました。
今までのように自分自身に無理を強いて、強引に生きていく生き方は50歳を過ぎた肉体と心には無理があるのだと思うようになりました。
私は、ここ最近、意識的に心掛けているのは、自分の中の奥深くに眠らせてしまった三歳児の心を迎えに行くことです。
昔から、人は最後は子供に還ってこの世を去っていくということを言いますが、私は最近、そのような考えは先人のとても豊かな知恵だと思うようになりました。
人生の艱難辛苦を経験して、酸いも甘いも嚙み分けて生きてきた経験の上で、三歳児のような心で、自由でこだわりのない心で残りの人生を楽しく遊んで生きていく。
私たちは、最後には、内なる子供を迎えに行って、創造という遊戯を味わい尽くさなければと切に思うのです。
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